フェミニズムを背後で操るものは誰か?ー2
フェミニズムは、男らしさもまた否定する。資本主義社会とは、最終的には上位1%の大金持ちに富が集中してしまうシステムである。とうぜん金持ち連中は、貧民たちの激しい憎悪を買うことになる。実際、20世紀では1億人を超す人々が、ルサンチマンを煽られた共産主義者に殺されてしまった。
富の一極集中を宿痾とする資本主義社会では、常に、革命とテロの恐怖がつきまとう。よってこのシステムでやる以上、貧民たちをどうしても去勢する必要がでてくる。その為に、ジェンダーフリー思想が流布されている。
中国の明の時代のこと。明の人々は、北方のモンゴル系の騎馬民族のたびたびの侵略に悩まされていた。そこで明の政治家たちは、一計を案じた。工作員を派遣し、その騎馬民族の間にチベット仏教を流行らせたのだ。チベット仏教は非常に哲学的であり、人間を内省的に、そして非戦闘的にさせる。じっさい、今のチベットの僧侶たちの大半は、中国共産党の暴虐に対し、暴力ではなく焼身自殺で抗議している。この企みは見事に成功し、100年後には、この北方騎馬民族からの侵略は、目に見えて減っていったのだそうだ。
まさに大陸的な、遠大な戦略。
男らしさを否定するジェンダーフリー思想も、これとまったく同じ目的から流布されている。この国の男たちを去勢し、闘争心を削ぐためにこの思想はある。
今の日本は相対的貧困率は、世界ワースト6位。世界的にも非常に不公平で、6人に1人の国民が結婚もできない状況に置かれている。戦前の男たちならおそらく、すでに暴動の1度や2度はおこしているだろう。じっさい戦前の青年将校たちは、東北の農民の惨状に激昂し、2度クーデターを起こした。
しかし今の日本の貧困層の人々は、ほとんど反抗しようとしない。それどころか、自己責任論で自分を責めてしまっている始末だ。システムの問題を、個人の努力の問題に帰すのは見当違いも甚だしいが、とにかもかくにもこんな感じだ。
彼らは、支配者たちの理屈に見事に絡めとられてしまっている。というより今の日本人には、反抗という概念じたいが無いような感じすらする。変に大人しくなってしまっている。やはりこれは、男が男らしさの気概を手放してしまったことが、根本にあるのだと思う。
男が男らしくなければ、外敵から国家を、女と子供を守れないのではないだろうか?
ーその通りだ。しかし資本主義というシステムに、国家の存亡を気にかける機能は無い。このシステムには「経済の論理」しかなく、国家の興亡、民族の繁栄は何の関係もない。いわば資本主義というシステムは、寄生虫のようなものだ。寄生先の生物が死ねば、次の寄生先へ乗り換えるだけだ。
このシステムはひたすら利潤追求の為に拡大していき、そこに住む人々の人間性も個人の幸福も、そして、その民族が存続していく最低条件の文化すら、非情にも踏み潰していくのである。
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究極的には、資本主義社会には人間は存在しなくていい。労働力としての「ニンゲン」さえいればいい。このシステムは利潤追求しか大義がないという、極めて非人間的なシステムである。
1,女も働かせて男の給料を下げた方が、効率がいい。その為には、性別役割分担は無い方がいい。
2,女たちに「子供は産みたくない、仕事だけしていたい」と思わせた方が、都合がいい。その為に良妻賢母規範を嘲笑し、母性教育を否定している。さらに、暴力性をとことん煽り、女たちを男性化させている。
3,資本主義社会の宿痾である、はなはだしい格差。それにより生じる、貧民たちの激しい憎悪。このシステムを崩壊させかねない貧民たちによる革命を防ぐために、男たちを去勢する必要がある。
フェミニズム、ジェンダーフリー思想とは、この3つの目的を達成するために、この国で流布されているだけだ。「資本の意志」が、女たちから産む性であることを、女であることを否定し「ただの労働力」になることを、そして男たちには、どんな理不尽にも決して反抗しない、去勢された羊であることを要求している。
つまり資本主義という経済的アナーキズムのシステムが、その存続の為に、フェミニズムという思想的アナーキズムを必要とし、盛り立てているわけだ。ここには「経済の論理」しかなく、普遍性も道義も、人間性も、そして美しい理想も何もない。ただ金儲けさえできればいいという、信じられないくらい荒みきった論理しかない。
フェミニズムは女性の自由と幸福のためにあるのだと、フェミニストは言う。
大嘘だ。この思想はある特殊なシステムの存続のために、女たち自ら女であることを否定し、そのシステムの養分とさせる為にある。これは、女たちに自己否定と役割放棄を促す思想だ。そして自己を否定してしまった人間が、幸福になれるはずがないのだ。
また、フェミニズムに理解を示してこそ進歩的で知的な現代の男なのだと、リベラル男は言う。
お笑い草だ。女に自己否定を強要し、子供も作らず、ひいては民族を滅亡に導く思想に共感することが、なぜ進歩的なのか?どう考えても退廃的、末期的、非知性的であり、というより幻想の世界にでも生きていなければ、こうまで偏った思想は、盲信できないだろう。
民族の存続を阻む思想は、何であれ悪だ。そして、金儲けのためにすべての人間らしさを捨て去れと強要するような思想は、間違いなく異常だ。しかしつまるところそれがフェミニズムであり、また資本主義だ。もしかしたらフェミニズムは、もともとは女性の自由を求めるものだったのかもしれない。しかし「経済の論理」しかないこのシステムの下では、フェミニズムもまたこういった非人間的な形でしか、適応することができない。
すべての人間的なるものを踏み潰していく、それが暴走した資本主義というシステムなのだ。
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いくら移民をいれればいいといっても、こういう人口の再生産が非常に難しくなるシステムでやっていたら、いずれ人類は滅亡してしまうのではないだろうか?
そうなのかもしれない。このシステムでやっている限り、少なくとも先進国の人口はどこまでも減り続ける。というより地球の環境の面から、もたないような気もする。しかし極端なことを言えば、人口がドンドン減り続け、世界の人口が5億人くらいになったって構わない。なんだったら、5000万人くらいでもいいのかもしれない。それだけいれば上位1%の大金持ち連中の生活を支えることはでき、このシステムは存続できる。しかしそれ以上減ってしまったら、このシステムは滅び、人類は再び未開の状態から再出発することになるのかもしれない。
「科学技術が進めば人類は滅亡し、再び未開の状態からやり直すことになるだろう」昔から、ヨーロッパの識者がたびたび警告してきたことだが、これは科学技術というより、資本主義というシステムのことではないのか。(その方が地球環境にとってはいい)
現実的なことを言えば、先進国の大半の国々でもともとその国にいた民族が、つまり白人が、韓国人が、日本人が少数民族に転落してしまった時に、人類はこの資本主義というシステムの恐ろしさに気つ”き、何とか歯止めをかけようとするのだろう。
そしてそのとき勝者の祝杯を挙げるのは、現在、野蛮、抑圧的、退嬰的とさんざん西側諸国から悪罵を浴びせられている、アラブの国の人々なのだ。彼らは民族の存続と共同体の安定という、民族の最優先課題を少しもおろそかにしていない。つまるところ、基本に忠実なものが、最後には勝つということだ。
かつての共産主義国では、数百万から数千万人の人々が虐殺されてしまった。急進的なシステムを無理にあて嵌めてしまった国では、たいていこういった悲劇がおこる。同じく、急進的なシステムである資本主義でやっている先進国の民族もまた、虐殺とはベクトルが逆の、人口減と移民の流入による民族の滅亡という悲劇に、さらされることになるわけだ。
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