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ジェンダー平等の欺瞞を論破するー②


 そもそも女性たちにとって大切な価値あるものとは、何だろうか。ジェンダー平等指数によれば、金とキャリア(地位)と権力しかない。しかしこれは、女性たちの総意というより、フェミニストの価値観だろう。ふつうの女性たちは、ここにもう一つ価値あるものが加わる。それは家庭をつくる、結婚して子供を育てることである。


 女たちにとって最も大切な価値あるものとは、金とキャリアと権力、そして、家庭(子を産み育てること)である。自由や安全というものもあるが、実利的なものに限れば、この4つだろう。そしてこれは、男女にかかわらず人間にとって普遍的な価値をもつものである。


 そしてこの4つの価値の中で、女性全体にとっての重要度を順位づけするなら、まず第一に大切なものは、金と家庭(結婚して子供を作ること)、その次にキャリアと権力がくる。さらにこの4つの価値にもとづいて分類するなら、女には3つのタイプの人間がいる。


 第一のタイプー金と家庭(結婚して子供をつくること)には価値を見出すが、キャリアと権力には、まったく興味を示さない女たち。これは感覚的には、女の半数くらいいる感じがする。

 
 
 第二のタイプー金とキャリアと権力には価値を見出すが、家庭(結婚して子供を産むこと)にはまったく興味がない女たち。

 
 
 第三のタイプー金とキャリアと権力、そして家庭(結婚して子供を産むこと)、つまりすべてを貪欲に求める女たち。

 
 女は、大別するとこの3つのタイプに分かれる。


 まず、この第一のタイプの女たちというのは、もちろん専業、パート主婦の女たちである。このタイプの女たちは、金を得て、結婚して子供を作るということはしたいが、キャリアと権力などいらないという、自分の望み通りの人生を生きれている。専業、パート主婦は女の労働人口の約50%。やはり、感覚と統計が一致する。


 第二のタイプの女たち。この女たちはキャリアウーマンとなり、金とキャリアと権力を得るということに、挑戦できている。


 第三のタイプの女たちーこの女たちも、夫婦共働きとなり金とキャリアと権力、そして家庭、すべてを得ることに挑戦できているわけだ。


 つまり、女たちは完全に自由である。


 対して男たちはどうだろう。男にとって価値あるものとは、金とキャリアと権力である。男たちはたいてい、この3つは欲しい。しかし能力により、それらを追い求めるか、諦めるかという風に分かれるだけだ。さらに、個人により子供が欲しいか、欲しくないかという風に分かれる。そして男たちには女に養ってもらうという選択肢はほぼ無いから、一生働くことを強制される。


 となると男たちは、次の2つのタイプの生き方しかなくなる。


 1,金のために働き、家庭(子を産み育てること)をも求める男。


 2,金のために働き、家庭(子を産み育てること)は求めない男。


 男には、この2つのタイプの生き方しかない。そしてこの2つの生き方の中で、キャリアと権力をも追い求めるか、追い求めないかの違いがあるだけだ。女たちは、自らの個性によって生き方を選べる。しかし男たちは、目の前にある2つの生き方から自分に合った方を選ぶにすぎない。


 女には高度な自由があるが、男には、女より一段劣った自由しかない。「女には自由が無い」、これはフェミニストの常套句であるが、それは昭和の話であって、じつは現代ではよく見てみれば、女には多様な自由がある。前時代の価値観でもって現代の事象を断罪してしまう、ということはよくあることなのだが、フェミニストはおろか多くの日本人も、前時代のフィルターを通して社会を見て、女たちの人生を決めつけてしまっている。


 女たちは、ある面ではすでに高度な自由を手にしている。


 男たちは、女たちと社会によって一生働くことを強制されている。その結果、とうぜん男たちが全体として得る金とキャリアと権力の総量は、多くなる。あたり前のことだ。しかしこれは、男たちには選択の自由が無いということの、裏返しでしかないのだ。


 男たちは自由を放棄したために、何か別のものを手にした。それが金とキャリアと権力だったわけだ。そしてその金の半分くらいは、じつは妻である女たちに持っていかれているという、ほとんど落語のようなふざげたオチがつく。


 自殺者数(2022年) 男ー14055人。女性ー7026人


 不自由には、とうぜん苦しみが、犠牲が伴う。働きたくない男たちに強制的に労働を課した結果が、男の自殺率が女の2倍という数字になって表れている。


 男たちは自由を放棄したことにより、女たちより7024人もの多くの犠牲者を出してしまっている、と見ることもできる。男女の自殺率の違いは、男と女にどれだけの自由が与えられているかを示す数値でもある。というよりこれは、男には逃げ場が無く、女には逃げ場がある、ということを象徴している数値でもあるのだ。自由とは、人間にとってある面では生死にすらかかわってくる、重要なものなのだ。


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 幸福度調査において女の方がはるかに幸福度が高いのにも、ここに理由がある。女たちは、自らの個性に従って生き方を選べる。とうぜん、幸福度も上がる。対して男たちは、自らの個性に従って生き方を選べる自由は女ほどなく、ほとんどすべての男たちが働くことを強制される。とうぜん幸福度は、下がるわけだ。


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 自由と平等とは、相反する概念である。自由を求めれば求めるほど、平等は失われていく。逆に、平等を求めれば求めるほど、自由は失われていく。これはもう、シーソーのような相反する相関関係に支配されている。日本は、ジェンダー平等ランキングは、世界125位である。しかし逆に、女の自由度ランキングは、世界トップレベルにある。おそらく、世界で5位以内くらいだ。


 日本の女たちが金とキャリアと権力を得ている割合が上まれば上まるほど、専業、パート主婦で生きれる女の割合は下がっていく。女たちが金とキャリアと権力において男と平等になればなるほど、選択肢の自由を失っていくわけだ。そしてこれを突き詰めると、女たちもみなフルタイムで働くしかない社会が出来上がる。そして女たちもまた男たちと同様に、不自由になる。


 「ジェンダー平等ランキング」が上がれば上がるほど、「女の自由度ランキング」は下がっていくわけだ。


  ジェンダー平等先進国である北欧諸国は、たしかに女たちが得ている金とキャリアと権力の総量は多い。しかし反面、専業、パート主婦の割合は極端に低い。スウェーデンでは、専業主婦など2%しかいない。つまり北欧諸国はジェンダー平等ランキングは高いが、女の自由度ランキングは低いわけだ。


 北欧諸国の女性たちは、たしかにジェンダー平等なるものを手にしているが、日本の女性たちのような選択の多様性、自由はない。そんなものを、日本の女性たちが望んでいるのだろうか?女たちが望めば、キャリアウーマンにも夫婦共働きにも、専業、パート主婦にもなれる社会と、女もフルタイムで働くより選択肢がない社会。日本の女たちが望んでいるのは、前者の社会に決まっている。


 ちなみに、北欧諸国の女性の自殺率をご覧いただきたい。

女性自殺率

アイスランド世界2位

スウェーデン5位

ノルウェー6位

フィンランド8位

(日本女性は4位。男ではロシア、リトアニア、ラトビアといった東欧諸国が高い)

 
 死屍累々である。これは、北欧諸国の女性たちに自由が無いことと、無関係ではないだろう。明らかに働くのに向いていない、子を産み育てるために生まれてきたような女たちを、無理やり労働に駆り出した結果ではないのか?まあ、本当のところは外国人である筆者にはわからない。しかし、自由が無いということは、逃げ場が無いということと同じであるから、この推測もあながち間違ったものではないだろう。(ここら辺は、独身研究家の荒川和久さんのnoteを参照するといいと思います)


 いまの時点でさえ、日本の女性たちの自殺率は高い。これでさらにジェンダー平等指数が高まり、女性たちが自由が失えば、自殺率もうなぎ上りで上昇していくことはもう、確実だ。そうなれば、女の自殺率世界1位という、不名誉な事態になることだってありうる。女の自殺率が高いということは、その国の女たちの苦しみもまた大きいのだということを、ジェンダー平等推進論者たちはわかっているのだろうか?


 
 ジェンダー平等なるものを闇雲に推進してしまえば、こういう恐ろしい未来が待ち受けている可能性だってある。ジェンダー平等なる理念は、女たちから自由を奪う。そして自由を奪われれば、とうぜん逃げ場所も失う。その時に日本の女性たちは、まさに八方塞がりの、救いようのない苦しみに直面することになる。「不自由」という点では、まさに男女平等になるのだが、それは女性たちの望むものではないだろう。


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 日本の女性たちが真に望んでいるのは、よく意味の分からない、ジェンダー平等社会ではない。日本の女性たちが真に望んでいるもの・・・、それは女性にとって自由で豊かな社会である。「結果の平等」など、女たちにとってはどうでもいいのだ。そしてその社会は、この日本ですでに実現している。「自由と豊かさ」という基準でみれば、縦軸で見ても横軸で見てもいまの日本は、最上のところにある。


 筆者の大正生まれの祖母などは、読み書きを覚えた程度のところで、教育が終わってしまった。貧しすぎて、小学校すらロクに通えなかったからだ。キャリアの追及どころではない、数人の子供を産んでひたすら家事と育児に追われていたら、人生の大半が終わってしまった、という感じだ。筆者の祖母には、自由などと言うものは毛の先ほども無かった。この時代の女性たちは、だいたいこんな感じだ。


 戦前の女性たちには、自由も豊かさもなかった。


 現代に貧困国の女性たちも、家庭に入り、ひたすら家事と育児に追われるか、さらに家計の足しに働くかしかない。


 貧困国の女性たちにもまた、自由も豊かさもない。


 また北欧などのジェンダー平等先進国では、女性たちがフルタイムで働かなければ生活できないようなシステムが、権力者たちによってつくられてしまっている。


 ジェンダー平等先進国の女性たちには、豊かさはあるが、日本の女性たちほどの自由はない。


 しかし、現代の日本の女性たちには、相対的に見れば自由と豊かさがあるのだ。


 フェミニストたちがこの国を女性差別の国であると口を極めて罵るのは、この国が女性にとって自由で平等で、なおかつ豊かであらねばならないと考えているからだろう。つまり、完璧でなければならないと考えている。基準がむちゃくちゃなのだ。彼女たちは天国の基準でもって現世の社会を裁くから、その不満には限度がなくなる。そもそもフェミニストたちは、自由と平等が両立しないことすらわかっていない。


 
 価値とは相対的なものであり、昔の日本と今現在の他国がどうであるかを比べなければ、現代の日本の女性たちの人権状況がどうであるかはみえてこない。そして縦軸と横軸でもって比べてみれば、日本の女性たちの置かれている状況は、申し分がないというしかなくなる。「自由と豊かさ」を基準にすれば、どう見ても世界最高のところにあるという結論しかでてこないのだ。だからこそ、日本の若い女性たちはあんなにも朗らかで、幸せそうなのだろう。


 フェミニストの言う、現代の日本では女性たちが虐げられているなどという物言いは、アメリカ政府を裏で支配しているのは爬虫類人である、などというトンデモ説と同じくらいバカげている。差別されているというのは自由と権利が奪われているという状態を指すのだから、フェミニズムはもはやトンデモ説になりかけている、といっても過言ではない。


 女性たちは、ジェンダーなんたらなどという物言いは、努めて聞き流すことだ。そこには、支配者たちの狡猾な作為しかない。そして女の管理職の比率など、せいぜい10%くらいに留めてておいた方がいい。そうしたら日本の女性たちは、いまある自由を守ることができるだろう。少なくとも、ジェンダー平等社会とは、女性たちの自由を犠牲にしなくては成り立たないのだということは、女性たちは、最後の一人まで認識していなければダメだ。


 


 




 




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