文章の謎
「え?なんでコレが?!」って思うこと、文章にもときどきある。
わたしは文章を書くまえに、タイトル、構成、ゴールをそれなりに考える。このエピソードとあのことをつなげてみよう、とか。過去のアレをひっぱりだして書いたら説得力がアップするな、とか。
パズルのピースを組み合わせるように、書くまえに、あれやこれやと思いをめぐらす。
わたしの場合、文章全体の景色が見えてからでないと書きだせない、基本的には。準備ナシでは無理だ。勢いだけではスタートを切れない。
用意周到なのか、戦略的なのか、ただの「あかんたれ」なのかは分からないけれど。まぁ、どれも裏を返せば本質的には似ているのかも。
ところが、残念なことに。
書くまえに練って練って時間をかけて書いた文章が、必ずしも多くのひとに読んでもらえるとは限らない。どうして?あんなに時間をかけて書いたのに・・・と言いたくなることがある。まぁまぁある。
ところが、不思議なことに。
それほど構成を考えずなんとなくツラツラ書きだした文章が、書くうちにノッてきて、そのままゴールまで突っ走っちゃったぜ、というようなこともある。ごくたまに。
ほぼほぼノー準備で書いたそういう文章のほうが、なぜだかたくさん読まれて、多くのひとの心に届いたりする(当社比)。
謎です、謎。ほんっとに謎。
先週アップしたこの文章もその1つだし、以前書いたコレなんて、その最たるモノ。
このラーメン記事を書いたときは「ひとりラーメン楽しいぜ!イェーイ!」「アラフィフ女でも夜中ラーメン行っちゃってるよぉ」というような、軽いテイストの文章にしようと思い、ほとんど構想も練らずにPCの前に座った。最初のほうは、そのノリで書いていた(ほんとに)。
ところが。
書いている途中、そういえば息子と2人で夜中にラーメン食べに行ったよなぁということを、急に思い出した。脳内にその思い出ばかりがよみがえってくるので、その思い出シーンが消えないうちにと、当時の気もちや情景をPCキーでカタカタ連打していった。そしたら、あんなエッセイに仕上がった。
おまけに、あのエッセイは自分でも予想していなかったゴールに着地し、へぇー、こんなところに着地するんだ、と書いている自分でもビックリした。
予想外の展開にもほどがある。
このラーメン記事を投稿すると、なぜかたくさんのひとに読んでいただけた。note住人のみなさんだけでなく、twitterに放流するとたちまちネットの海原で漂いはじめ、note以外の世界のひとたちにも届いた。
ホントに謎。気合を入れて書いた文章はそれほどでもないのに、なぜコレが?!という文章のほうが多く読まれたりする。
なんなんでしょうか、この現象は。だれかこの現象に名前を!
もしかすると、気合を入れて書いたときは、文章からにじみ出ているのかもしれない、なにかの圧が。
「気合入れました!どうぞ読んでくださいませ!」
「ゼッタイ読んで!!めっちゃ力作だから」
「ねっ、ねっ、お願い!!」
イヤだねぇ、そうだとすると(たぶん、そう)。
自分だけでこっそり書いている文章とはちがい、世間サマに公開する文章は「読み手のモノなんだなぁ」とつくづく思う。練りに練って書いた文章でも読み手にそれほど伝わらなかったりするからだ。
もちろん、書いている途中の文章は書き手のモノだし、書きあがった文章そのものも書き手に所属しているんだけど。著作権などの観点からいえば。
でも。
文章の内容をどう受けとるか、どう解釈するか。それはあくまでも「読み手の自由」なわけで。読んだひとがその文章をどう思うのか、どう感じるのか、書き手にはコントロールできない。ほんの1ミリさえも。
自分が良かれと思って書いた文章が、異なるバックグラウンドのだれかを傷つける可能性だって、じゅうぶんある。
文章のもつそういった危うさを肝に銘じておかなくては、と思う。このだだっ広いネット世界にいる、ちっぽけな書き手の1人として。
♢
noteの住人になるまで、わたしはブログや日記を書く習慣がなかったので、文章の謎、文章の危うさ、文章の深さなどをまったく知らなかったし、知ろうともしていなかった。なにかをcreateするなんてわたしには無縁の世界で、わたし以外のだれかがするモノだと思っていた。
でも、noteのおかげで知ることができた。
文章の謎も。
文章をつくる楽しさも。
文章を介するたくさんの交流も。
創作を続けられるようにずっと励ましてくれるnoteのサービスに、心から「ありがとう」と伝えたい。
note8周年、おめでとうございます!
大切な時間を使って最後まで読んでくれてありがとうございます。あなたの心に、ほんの少しでもなにかを残せたのであればいいな。 スキ、コメント、サポート、どれもとても励みになります。