【沖縄戦:1945年4月15日】石垣島事件─海軍石垣島警備隊が米軍捕虜3名を斬首、刺殺
15日の戦況
引き続き主陣地帯での米軍の行動は活発ではなく、攻撃準備中と看取された。沖縄島への来襲機は640機に達し、北飛行場には110機、中飛行場には90機の米軍小型機が所在した。また近海には約200隻もの米艦艇が所在した。
第24師団長はこの日(もしくは14日)、師団直轄として与那原方面に配備していた歩兵第89連隊第3大隊(和田支隊)を連隊長の指揮下に復帰させ、歩兵第22連隊に配属中の独立機関銃第17大隊主力を歩兵第32連隊に配属した。
沖縄南部糸満周辺に配備されていた海上挺進第26戦隊長(足立睦生大尉)は4月8日、10日の出撃に続いてこの日、第2中隊、第3中隊に出撃を命じ、夜22隻が嘉手納西方海面の米艦艇を攻撃し、戦果は駆逐艦1、不詳艦1撃沈、不詳艦3炎上、他に火柱6と報じられた。
第32軍はこの日の戦況を次のように報じている。
沖縄北部の戦況
沖縄北部ではこの日、八重岳の国頭支隊と米軍の間で激闘となった。米軍は早朝より八重岳の主陣地に砲爆撃をくわえ、有力な兵力で包囲、攻撃してきた。
西方の第4中隊正面は猛攻をうけて混戦状態となり死傷者が続出した。喜納原付近の第1、第3小隊の陣地は崩壊し、残存者は真部山の第2小隊陣地に後退した。米軍は八重岳西側の歩兵砲陣地500~600メートル前方まで進出して陣地を構築した。
渡久地ー満名道に沿う地区を東進する米軍に対し、第6中隊は一時苦戦するも善戦して陣地を保持した。この方面の米軍は夕刻、攻撃を中止して後退した。
八重岳東側正面においても激戦となり、嘉津宇岳付近の第5中隊第3小隊の陣地は米軍に占領されたが、同中隊は夜間逆襲しこの陣地を奪回した。
屋名座南側の第6中隊第2小隊正面も混戦状態となり、一時撤退も命令されたが、機関銃中隊の増援を得て確保した。
また、この日、米軍は伊江島攻略に向けて水納島を占領し砲台3門を構築した。
第32軍司令部は、沖縄北部この日の戦況を次のように報告している(発電は翌16日)。
石垣島事件
石垣島には陸軍部隊として独立混成第45旅団(宮嵜武之旅団長)が配備されていた他、海軍部隊として海軍石垣島警備隊(井上乙彦司令)が配備されていた。また沖縄戦時、石垣島では米軍の上陸や地上戦こそなかったものの、連日、米軍や英軍による空襲がおこなわれ、大きな被害を出していた。
米軍捕虜の殺害
石垣島ではこの日も早朝より米軍機が来襲し、空襲がおこなわれていたが、9時ごろ、対空砲火により一機の米軍機が撃墜された。乗組員の3人の米兵は大浜の沖にパラシュートで降下し、岩礁に泳ぎ着き米軍の救助を待っていたところ、海軍警備隊により捕えられ捕虜となった。
捕虜の名前はバーノン・L・ディボー中尉(28歳)、ウォーレン・H・ロイド兵曹(24歳)、ロバート・ダグル・ジュニア兵曹(20歳)。彼らはバンナ岳の南麓にあった警備隊本部へ連行され、海軍警備隊井上勝太郎副司令はじめ複数の将校の立ち合いのもと通訳を介して尋問をうけた。
海軍警備隊は捕虜の処遇について憲兵隊に問い合わせたところ、海軍警備隊に一任するとの返事だった。それまで捕虜は原則として沖縄島に送られていたところ、戦闘の激化にともない台湾に送られることになっていたが、捕虜の処遇について思案した井上乙彦司令は、台湾へ送る輸送船の確保や航路安全の困難さなども考慮し、「敵が今日でも上陸すると言ふのに突きも出来ない様では仕様がない」などとして「処刑」(以下カッコをはずし、そのまま処刑と表記する)を決意した。
処刑の場所は海軍警備隊本部から数百メートル南東の照空隊付近の荒地とされ、死体を遺棄する穴や処刑のための柱が準備された。そして第23震洋隊幕田稔隊長がディボー中尉を、第1小隊田口泰正隊長がダグル兵曹を斬首し、甲板士官榎本宗応中尉が柱に縛りつけられたロイド兵曹を銃剣で刺殺、さらに40~50人の兵がロイド兵曹に襲いかかり銃剣で刺突して殺害した。
この前内原氏の証言や小浜正昌氏の証言(沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】八重山5)によると、捕虜は捕縛され数日間取り調べを受けた後に処刑されたとある。大田静男『八重山の戦争』復刻版には撃墜され捕虜となった日の夜に処刑されたように記されている。筆者にはどちらとも判定できないが、いずれにせよ3名の捕虜が捕虜として適切な処遇をうけることなく斬首、そして兵たちにより銃剣で刺突され殺害されたのは間違いのないことである。
戦犯として裁かれる
敗戦後、海軍警備隊は処刑した米兵の死体を掘り起こして火葬し遺灰を海に捨てた上で、撃墜した米軍機の数に見合うだけの十字架を建立し、米兵の戦死者を手厚く葬ったかのように偽装した。しかし事件を告発する手紙がGHQへ送られたことにより、井上司令はじめ将校11名、下士官8名、兵27名が逮捕され、軍事裁判にかけられ、41名に死刑判決が出される厳しい処罰がなされた。
判決はその後、第8軍で審査され、死刑判決が維持されたのは10人まで減り、他は減刑や無罪となった。特に兵は上官の命令が絶対であり、命令に従わなければ自身の生命も危うかったことから減刑となった。最終的に死刑判決は井上司令や井上勝太郎副司令など7名となり、1950年4月に死刑が執行された。この死刑がスガモプリズンでおこなわれた最後の死刑であったといわれる。またダグル兵曹を斬首した第1小隊田口泰正隊長は学徒兵でもあり年齢も比較的若年であったが、軍人としてはあくまで将校であり、実際に率先して処刑を実施したことから、死刑を免れなかった。これら一連の出来事は石垣島事件と呼ばれる。
沖縄戦において同様の捕虜殺害事件は宮古島の陸軍部隊でも起きており(宮古島事件)、被告人は有罪判決をうけている。また本土空襲がおこなわれた本土各地でも撃墜した米兵捕虜への暴行、処刑事件が発生している。
吉田茂の逮捕
この年2月にいわゆる近衛上奏がおこなわれたことは既に触れたが、陸軍省調査部は3月下旬ごろ、近衛上奏文の写しを入手し、陸軍省兵務局に提出した。
兵務局は文書を憲兵司令部に渡し、憲兵資料と照合して検挙可能かどうか検討させた結果、検挙可能との回答を得たため、陸軍次官の決裁のもと、憲兵が吉田茂以下数名をこの日逮捕した。この検挙は、陸軍としては和平講和派に一撃を加えるとともに、陸軍の不退転の決意を知らしめるものであったといえる。
吉田茂は取り調べの上、東部軍軍法会議に送られ、微罪釈放の意見が上申された。阿南陸相は釈放に同意し、5月下旬に釈放された。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
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石垣島事件で処刑された米兵たち:TBS「スガモプリズン・最後の死刑囚の真実」2021年4月10日放送