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【沖縄戦:1945年4月26日】前田高地の激戦 「色の白い朝鮮の娘さんたち」─宮古島の沖縄戦と「慰安所」

第二防衛線の激闘

前田高地の戦い 
 第二防衛線左翼では、米軍は朝6時ごろより前田、幸地に砲撃を集中させ、10時ごろから第二防衛線全線で攻撃を開始した。特に前田、仲間の高地帯では米軍と接戦となり、頂上付近の争奪戦が繰り返された。
 正午ごろより、独立歩兵第11大隊を基幹とする守備隊が布陣する前田東方高地の陣地は、戦車を伴う米軍に突破され、米軍の戦車および火炎戦車は前田集落東端付近に進入し、前田高地の陣地を背後から攻撃した。前田高地の守備隊は苦戦しながら高地頂上および南斜面を確保した。
 また仲間集落の南端付近にも米軍の一部が進入した。
 西海岸方面では、城間の陣地は米軍の包囲をうけ、陣地の大部分が占領された。
 こうした戦況をうけ、第32軍牛島司令官はこの日午後4時ごろ、第62師団藤岡師団長に対し、部隊を急派し前田に進入中の敵を撃攘せよと命令した。また第24師団雨宮師団長に対し、作戦地境に関わらず第62師団の戦闘に協力するよう命令し、さらに前田地区に進入した米軍を撃退するために、首里北東に師団主力を集結させるよう命令した。
 この日の前田高地の戦いについて、米軍戦史は次のように記している。

 四月二十六日、前田高地攻撃が開始された。米軍は、進撃にあたっては、さして困難な目にもあわなかったが、第三八一連隊のG中隊が、やっと丘の頂上にたどりついたとたん、日本軍の攻撃をうけ、ものの二、三分とたたぬあいだに、十八名の犠牲者を出してしまった。
 前田高地での日本軍の防衛戦術は、完璧そのものだった。丘の前面はまもらず、相手を容易に登らせ、頂上までのぼりつめたところで猛烈な攻撃をあびせる。米軍にとって、峰の上と反対側の丘腹は“禁じられた地域”になってしまったのである。ここでは、もし進もうとするなら、戦いぬく以外にはなかった。
 ニードル・ロック[為朝岩の米軍側呼称]のF中隊は、人間梯子をつくって丘陵の頂に登ろうとしたが、最初の三名が頂上に達するやいなや、一回で機関銃弾にあたって戦死した。陽が落ちてまもなく、まだあたりも暗くならないころ、E中隊は、一五〇高地の南にある前田の小高い丘を奪ろうとした。だが、兵が丘の上に立つと同時に、丘の上は十梃あまりの日本軍の機関銃による掃射をうけ、たちまちにして二名が戦死し、六名が負傷するという事態が発生し、米軍はがむしゃらに八十一ミリ砲を四百発も撃ち込み、煙幕弾を撃ち込んで、どうにか中隊を退却させることができた。
 ところで、もっと東のほうでは、しばらくはかなり成功しそうなけはいがあった第三八三連隊の一部は、一五〇高地と一五二高地の頂に到達したが、そこからは、下方に日本軍がうようよしているのがまる見えだった。おそらく六百を数えたろうか。日本兵が群がっているのが、手にとるように見えた。機関銃手、自動小銃手、それに各歩兵にとっては、これは願ってもない絶好の機会だった。その日、米軍は思う存分に撃ちまくり、思う存分に戦いまくった。結果は米軍に利ありで、一自動小銃手は日本兵三十名を射殺したりした。
 戦車隊や火炎砲装甲車隊は、いまや前田高地の端に進出してきた。洞窟にかくれていた日本兵は、火炎放射器で穴から追いだされ、逃げるところを撃たれた。この一五〇高地と一五二高地での米軍の作戦と、四月二十六日の前田高地への米軍戦車隊の進撃は、日本軍の第三十二軍に、かなり精神的な打撃となったようだ。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

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4月26日の第二防衛線の戦況 青色の太線が米軍進出線 緑枠は第24師団の各隊と戦闘地境をあらわす:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

第二防衛線右翼 
 第二防衛線右翼でも激戦が繰り広げられた。第24師団正面の幸地および小波津も米軍の攻撃をうけたが撃退した。
 第24師団長は軍司令官の命令をうけ、隷下の歩兵第32連隊に対し、一個大隊を前田高地に派遣し同高地を確保すること、連隊主力は首里北方へ進出することを命じた。また歩兵第22連隊に対しては第62師団の戦闘の支援を命じ、歩兵第89連隊に対しては主力を首里南東に進出させるよう命じた。
 歩兵第89連隊は翌27日夜、連隊本部は首里南2キロの荒川、同連隊第1大隊は首里南4キロの津嘉山、同第2大隊は首里南東3キロの宮平に移動した。第2大隊は28日に歩兵第32連隊に配属された。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報じた。

一 〇六〇〇頃ヨリ敵ハ熾烈ナル地上砲火及艦砲ヲ仲間、前田及幸地附近ニ集中一〇〇〇頃ヨリ有力ナル歩戦部隊ヲ以テ該方面ニ対シ真面目ノ攻撃ヲ開始シ正午前後戦車数輌歩兵三乃至四〇〇ノ敵仲間、前田及前田、幸地中間地区ヨリ我陣地ニ侵入同方面激戦中
 其ノ他正面ニ於テハ一三四〇屋富祖ノ西方五〇〇米ノ閉鎖曲線高地ニ戦車二ヲ伴フ二〇〇ノ敵攻撃シ来リタル外順調ナリ 当方明二十七日以後戦闘熾烈化スルモノト判断ス
 軍ハ全力ヲ挙ケテ北正面ニ結集シ同方面ノ敵ヲ邀撃撃摧ヲ企図ス
二 来襲機状況 本島一七〇機

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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前田高地の戦いで活躍したデスモンド・T・ドス伍長を記念し建立された記念碑 52年4月26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号 07-33-2】

海上挺進第27戦隊の出撃 

 陸軍の特攻艇部隊である海上挺進第27戦隊(岡部茂巳戦隊長)は、戦隊本部を雨乞森に置き、第1中隊が豊見城、第2中隊が与那原、第3中隊が板良敷付近に位置した。
 従来、特殊部隊である特攻艇の出撃は軍船舶隊長が厳重に統制していたが、4月20日ごろ戦隊の出撃は戦隊長の独断実行が許されるようになった。
 第27戦隊は25日21時30分ごろ、通信が断絶した国頭支隊との連絡のため陸軍中野学校出身諜報要員である浦田國夫少尉以下の一隊(浦田挺進隊、桜挺進隊)を特攻艇に乗船させ、この日早朝、米軍の警戒網をかいくぐり名護南東7キロの大浦湾のスギンダ浜に輸送した。浦田少尉は部下を海岸近くに潜伏させ、岡軍曹を率いて久志岳に入り、第3遊撃隊(第1護郷隊)第4中隊長竹中素少尉と会い、同隊に一泊した。浦田少尉が上陸し久志岳に向かっているあいだ、スギンダ浜に米軍が来襲したため、挺進隊の前田見習士官は全員を指揮し特攻艇を爆破、山中に避難した。
 また岡部戦隊長は25日、戦隊の第2中隊に全艇をもって中城湾の米艦を攻撃することを命じた。同中隊はこの日夜、中隊全力15隻の出撃を準備したが、爆薬の誘発事故や米軍の砲撃により、出撃は中隊長の指揮する3艇のみとなった。出撃した3艇は米駆逐艦を攻撃し2艇が帰還した。戦果は駆逐艦1撃沈と報じられた。
 戦隊の第1中隊は翌27日、嘉手納沖の米艦艇を攻撃するため出撃し、戦果は大型輸送船1、および駆逐艦1撃沈と報じられた。
 軍は戦隊の攻撃情況を次のように報じた。

 昨二十七日夜海上挺進第二十七戦隊第一中隊(一二隻)嘉手納沖輸送船攻撃戦果ノ判明セルモノ左ノ如シ
一 一万屯級大型貨物船一(戦車、自動車、其ノ他貨物満載、小型舟艇約一〇隻横付)撃沈(横付小型舟艇大部沈没)
二 駆逐艦一撃沈
三 未帰還四名

(上掲「戦史叢書」)

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81ミリ迫撃砲小隊の海兵隊員が地面に穴を掘っている時、戦利品である日本製蓄音機で日本の曲を奏でる兵士 45年4月26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号87-01-3】

「現地軍官民に告ぐ」─鈴木首相のラジオ放送

 この日、鈴木貫太郎首相は沖縄の現地軍将兵ならびに官民にラジオ放送をおこなった。

 沖縄全戦域に一致団結して全員特攻敢闘せらるる将兵各位並に官民諸君、私達一億国民は諸士の勇戦奮闘に対し無限の感謝を捧げてゐる。日々相次いで報ぜられる赫々たる戦果こそは国民が均しく身を以て感ずる大なる喜びである。而しながらその喜びの蔭にはあの特攻隊諸士が大君の御楯となり欣然として敵の大艦船に突入していゆく神々しい姿や総ゆる科学兵器を利して上陸し来った敵の大軍に敢然斬込みを断行せらるる地上部隊の壮烈なる姿を思ひ浮べ只感激を覚ゆるばかりである。
 沖縄に在る全軍官民諸君私の只おもふことは御詔を奉じ一億国民共に一致団結し以てこの大戦争を最後まで闘ひ抜き勝ち抜き米英の野望を飽迄粉砕し以て大御心を安んじ奉らねばならぬといふことである。
 不肖私自らも一億全国民の先頭に起って戦争一本の旗印の下に総攻撃を敢行する所存である。
 我が肉弾による特攻兵器の威力に対しては敵は恐怖をきたしつつある。今後日本独特の作戦に対して敵の辟易することは火を見るよりも明かである。私は諸君がこの神機をつかみ勝利への鍵を確かと握られることを期待してやまぬ。
 私共本土にある国民亦時来らば一人残らず特攻隊員となり敵に体当りをなし如何なる事態に立ち到らうとも絶対にひるむことなく最後迄闘ひ抜いて終局の勝利を得んことを固く決意してをる。
 繰返して申すが沖縄戦に打ち勝ちてこそ敵の野望を挫折せしめる戦局の段階を見るのである。

(上掲「戦史叢書」)

 なお鈴木首相のラジオ放送は、翌27日付の朝日新聞に掲載されたという。

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第32軍神直道航空参謀の日誌に張り付けられていた新聞の切り抜き 鈴木首相のラジオ放送の記事だが、朝日新聞かどうかは不明:「神日誌」其2(第32軍参謀 陸軍中佐 神直道)防衛研究所 沖台 沖縄254-2(内閣府沖縄戦関係資料閲覧室公開)

 他方、第5航空艦隊宇垣纒司令長官のこの日の日誌には次のようにある。

 四月二十六日 木曜日 〔雨〕
  [略]
 安井誠一郎氏より国内の事情もこの沖縄戦に勝つよりほかに望みなし。最大の決意を以て善処するべく要望し来る。無理もなきこと、当の責任者はそれ以上の決意あり。安んぜよ、しかして求むるはただ懐中の飛機である。

(宇垣纒『戦藻録』下巻、PHP研究所)

 戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉は、宇垣長官のこの一節を鈴木首相のラジオ放送にかかるものとして紹介している。つまり特攻をけしかける鈴木首相に対し、その「当の責任者」たる宇垣長官は、「懐中の飛機」、つまり特攻をおこなうそもそもの飛行機が全く足りていない現状を嘆いていたのであった。

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金城という沖縄の理髪師に髪の手入れをしてもらう米海軍ヒルトン大尉 地元避難民の治療に使われている、金武の町にある校舎にて 45年4月26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号95-17-1】

軍司令部内の雰囲気

 八原高級参謀は戦後、このころの軍司令部の雰囲気を次のように回想している。

 過去、太平洋戦争、大小幾多の戦闘で、わが第三十二軍の如く、整々堂々と一か月にわたり、組織的に戦い続け、しかもなお、主力をほとんど無傷のままに保持しているような軍隊があったであろうか。私は軍参謀として、かかる強大な敵と戦いつつ、常にひそかにニューギニア以来の諸戦例と比較し、軍がいかにその任務を尽くしつつあるかを考えた。そして自信を深め、内心莞爾たるものがあった。
 ところが、わが軍首脳部は、次第に救うべからざる悲観的空気に支配されていくかに思えた。何故だろうか? 当面の状況は、これを判断する立場によって異なる。なるほど、消極的にみれば、悪条件が雪崩となって押し寄せるかに思われる。右翼南上原の高地帯はすでに敵手に委した。左翼伊祖、安波茶の正面は日ごとに滲透をほしいままにされている。中央の要地前田、仲間の高地は敵の猛攻の前に弧城落日の観がある。第六十二師団の戦力は急速に弱体化しつつある。敵の攻撃速度は一日平均二、三十メートルではあるが、攻むれば必ず取る。この調子では、敵が首里山上に到達するのも遠き将来ではない。この一連の事実と、悲観的論理が軍司令官以下を憂鬱にさせるのだ。
  [略]
 あれほど必勝を叫んだ人々であるが──いや必勝を信じた人々であるがためであろう。今やいかに激励しても玉砕の運命を払い除けようと足掻き始めたのである。どうせやられるなら力のあるうちに攻撃に出よう。このまま消極受動に立って、敗北と死を待つのは耐え切れぬ。この心理は、責任ある人々をして、戦略持久するという軍本来の任務から逸脱させ、打算的野心を忘却せしめる。そして人々の心をさらに惑乱して、攻勢をとれば必ず勝利を克ち得る。したがって、死の宣告から免れ得るだろうと、迷妄な結論に到達するのである。絶体絶命の境地に臨むと、知意の活動が衰え、本能に動かされるのが人間普通の欠陥だが、その傾向は日本人において特に甚だしい。
  [略]
 こうした長年の雰囲気に育った日本軍、そしてわが第三十二軍首脳部において、呪うべき盲目的主観に基づく攻勢論がまたもや急速かつ狂的に台頭しだしたのである。
 四月二十六日、私はメモ帳に「司令部内に、再び狂風吹き始めたり。警戒を要す」と記録した。
  [略]
 昼間ともなれば、首里全山を揺り動かすような砲爆の集中! 坑口に立つ司令部衛兵が次々と朱に染まって殪れ、爆煙が坑道内に濛々と噴入する。「それ! ガス攻撃!」と叫んで、息苦しい防毒面をつけること幾回。司令部内の空気は日ごとに殺気を帯びてくる。狂風の吹かんとするまた宣なる哉である。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

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地元の避難民がいる金武町の風景 保護と診療を受けるために連れてこられた 45年4月26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号77-33-2】

宮古島の沖縄戦

米軍の宮古島攻略作戦の中止
 米統合参謀本部はこの日、第10軍のバックナー司令官に対し、宮古島攻略作戦の中止を指令した。宮古島攻略といっても当然近くの伊良部島や下地島、来間島などの島々が全く攻略対象でないと考えるのは不自然であり、実際にそれらの島にも第32軍部隊が配備されており、ここでいう宮古島とはひろく宮古諸島の島々も含むものと考えていいだろう。
 そもそも米軍にとって沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)は、大きく三段階に分かれていた。第一段階は慶良間諸島の攻略と沖縄島上陸、第二段階は伊江島攻略、第三段階は宮古島を含む南西諸島の他の島々の攻略であり、そのすべてが最終的には本土攻撃、本土上陸に向けた軍事基地の確立にあった。
 いうまでもなく確立すべき軍事基地とは、何よりも本土空襲などのため絶対に必要である飛行場であるが、長距離爆撃機の飛行場としては沖縄島が最適であり、宮古島など沖縄島以外の島々を占領し、飛行場を確保することは不必要との検討が早い時期からなされ、最終的にアイスバーグ作戦の第三段階、すなわち宮古島攻略が中止となった。また大東諸島や喜界島、徳之島などの島々の攻略作戦についても同様に中止となった。
 宮古島の戦略的重要性や、島が比較的平坦で飛行場建設に充分な立地が複数存在するなど地理的条件から、アイスバーグ作戦の当初計画では、米軍は二個師団を投入し宮古島を攻略する予定であった。本当に米軍が宮古島を攻略していたら、山など逃げ場のあまりない島でどれだけの住民が犠牲になったか考えただけでおそろしいことである。
 軍は宮古島の防衛方針について、宮古島防禦作戦大綱、宮古島戦闘教令などを定めて策定していたが、そこでは宮古島は平坦地が多く、米軍の前進を阻止する地形上の障害がないため、持久戦を採用するのではなく、水際で米軍の上陸を食い止める水際決戦方式が採用された。最悪の場合は野原岳の司令部をもとに持久出血戦法をとるともされたが、いずれにせよ伊江島のように住民が動員され、巻き込まれ、死に追いやられていくのは目に見えている。

宮古島の沖縄戦
 宮古諸島には第28師団(納見敏郎師団長)、独立混成第59旅団(多賀哲四郎旅団長)、独立混成第60旅団(安藤忠一郎旅団長)が配備され、海軍部隊を含めて約3万人もの大兵力が展開していた。なお石垣島には独立混成第45旅団(宮嵜武之旅団長)が配備されていたが、独立混成第45旅団をあわせ宮古・八重山の各兵団は「先島集団」として納見師団長が集団長として先島全体の兵団を指揮していた。

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宮古島地区防御配備図:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

 もともと宮古島は無防備状態であったが、43年には郷土出身者による特設警備隊が設置され、44年6月以降に先島集団の各兵団が次々に宮古島に配備されると、特設警備隊はそれら兵団の指揮下となるとともに、現地召集や防衛召集が急増し、飛行場建設や陣地構築が急ピッチでおこなわれた。
 宮古島には陸軍中飛行場、同西飛行場、海軍飛行場と軍飛行場が三ヵ所設置され、海岸には特攻艇の秘匿壕や上陸を防ぐ障害物の建設、設置などもおこなわれたが、こうした作業は軍はもちろんのこと、多くの住民が動員された。
 また学校や民生上重要な施設が接収され司令部となった他、3万人の大兵団を収容する兵舎のためにやはり学校や民間の重要な施設が接収されたり、解体され兵舎にされるなどした。
 宮古島でも疎開がおこなわれ、九州や台湾への一般疎開、学童疎開実施されたとともに、45年3月に入り米英軍の空襲がはじまると、宮古島の市街地から伊良部島への疎開など島内疎開もおこなわれたが、このように宮古島でも住民を戦争に巻き込み、多大な被害や苦しみを強制しながら、戦争が継続されていった。
 こうした宮古島における沖縄戦の終わりについては、またその時期に取り上げたいと思うが、宮古島の沖縄戦で忘れてはならないのは、宮古島の沖縄戦には住民ばかりではなく多くの朝鮮半島出身者も巻き込まれたということである。
 例えば、宮古島には十を超える数の「慰安所」があり、朝鮮半島出身の女性が働かされていたが、宮古島の市街下里にあった「慰安所」について、このような証言が残っている。

戦時中私は宮古の日本軍司令部の経理部に勤めていました。司令部に勤め始めたのは昭和一九年の五月頃でした。
 司令部は平良第一小学校と宮古県立女学校にありました。私は経理部に勤めている頃、事務員二、三人で上官の洗濯物をたのまれて凱旋通りにある民家に時々行ったものでした。その民家が慰安所だったわけで、その敷地に井戸があり二階建ての家で庭が広かったのを覚えています。その家の方たちは疎開していました。私もよく知っている方たちですので名前はひかえさせていただきます。
 そこで見た女性たちは浴衣を着て帯を前に結んでいました。色の白い、まだ幼い感じの朝鮮の娘さんたちでした。二階の家の玄関では兵隊さんたちが並んで立っていたのを覚えています。
 今考えればこの兵隊さんたちはきびしい軍隊の中で仕事に疲れ、本当は哀しかったかもしれません。朝鮮の若い軍属さんたちも慰安婦さんたち、それに日本の若い兵隊さんたちも戦争の犠牲者ですから、戦争は二度とおこしてはならないと強く感じます。

(日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団編『戦場の宮古島と「慰安所」 12のことばが刻む「女たちへ」』なんよう文庫)

 このような宮古島と「慰安所」「慰安婦」に関連する証言は多数ある。なかには台湾に物資調達にいった船がその帰り、朝鮮出身の「慰安婦」を乗せて宮古島に戻ったといったような「慰安婦」の連行に関わる証言もある。またポツダム宣言受託後も宮古島の「慰安所」が機能し、旧先島集団の兵士たちが利用していた形跡も軍法会議資料などに見える。これについても少しずつ取り上げていきたい。

沖縄県立宮古高等女学校出身の砂川末子さんの証言:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第9号(琉球新報2005年5月5日)
・日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団編『戦場の宮古島と「慰安所」 12のことばが刻む「女たちへ」』(なんよう文庫)
・瀬名波栄『先島群島作戦(宮古篇)』先島戦記刊行会(内閣府沖縄戦資料閲覧室公開)

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前田高地の頂上のニードル・ロック(為朝岩)をネットをつたって目指していると思われる米兵の姿:『沖縄戦記録写真集』① 日米最後の戦い より