【沖縄戦:1945年4月3日】「現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ」─昭和天皇による第32軍の持久戦方針への懸念 戦艦大和の沖縄方面海上特攻
3日の戦況
米軍はこの日、現在の地名でいうと北は西海岸の恩納村真栄田から東海岸のうるま市勝連南風原まで、南は宜野湾市伊佐から中城村久場まで進出し、沖縄島を南北に分断した。以降、海兵隊を主力とする部隊は北進し、陸軍を主力とする部隊は南進することになり、南進部隊はこの日までに宜野湾村野嵩の手前まで進出した。
米艦艇は2日夜から終夜、宜野湾、浦添、那覇方面へ艦砲射撃を行った他、3日朝にも湊川正面に艦砲射撃を行った。この日の米艦載機の来襲は、沖縄島850機(内、伊江島400機)、宮古140機、石垣77機と多数であった。また米軍が占領した北飛行場では1、2機の米軍機の離着陸があった。夜には神山島から小型観測機が離陸するのが望見された。
賀谷支隊は喜友名、野嵩、中城城跡の線で米軍に獅子奮迅の抵抗を続け、一定の損害を与えていたが、このころよりさすがに隷下の中隊から苦戦の報告がもたらされ始める。
また金武湾に配備中の海軍第22震洋隊12隻が出撃し、米駆逐艦1隻を撃沈と報じられた。この日の海軍電報には、次のようにある。
海軍電報の「シン隊」というのが震洋隊のことであり、これは海軍第22震洋隊への出撃命令と解してよいのではないだろうか。
第32軍は3日20時の戦況を次のように報告した。
米軍が艦砲射撃を行いしつこく接近を試みている沖縄南部湊川方面を守備する第24師団歩兵第89連隊は、これまで米軍の湊川方面での行動を上陸を企図するものとして警戒していたが、この日以降は「陽動」と判断する。
その上で万一米軍が上陸した場合、部隊の進出を妨害するため、米軍の進路となる道に木を植えたり鉄条網や縄を張って敵兵を転倒させたり、竹や釘、細木などを用いて米軍の通行を妨害するよう指示している。
近代戦において、まして圧倒的な物量と最新鋭の火力を有する米軍に対し、木や竹、縄、釘、鉄条網といった原始的な障害物で戦い、本当に効果があると考えていたのであろうか。効果の見込みが全くないとはいわないが、ほとんど意味はなかったものと考えられる。
また特設第1連隊青柳連隊長は、池原(現うるま市)において各隊を掌握し、石川岳への転進を命じた。各隊は、石川岳に向かって北進するが、そこでも米軍と遭遇し、散り散り状態となった。以降、青柳連隊長以下部隊は、石川岳など沖縄中部の山岳地帯で遊撃戦を展開することになるが、これについてはまたあらためて述べる。
各方面からの攻勢移転の要請
米軍上陸地点に配備された特設第一連隊の抵抗力はあまりに劣弱であったが、第32軍としては、ここまでの戦局全体の推移は想定内のものであっ た。
だが、この日以降、上級軍の第10方面軍、連合艦隊、第8飛行師団などから北、中飛行場方面に対する第32軍の攻勢を要望する電報が相次ぐようになった。
第10方面軍安藤司令官は、米軍上陸1日目にして北・中飛行場を奪われ、32軍軍が奪回のために攻勢に転ずる気配のないことを憂慮し、方面軍参謀長電をもってこの日(2日ともいわれる)、「水際撃滅の好機に乗じて攻勢を採る」ことを示唆要望した。
また第8飛行師団はこの日、以下のように意見具申した。
この第8飛行師団の意見具申は、第10方面軍および参謀次長に宛てられたものであるが、第32軍にも打電されたそうだ。全体として第32軍の戦略持久を小馬鹿にしているような感があるとともに、第32軍が玉砕するまでの数か月間、特攻攻撃により敵に出血を強要し、これにより国体護持に寄与するという、「捨て石」作戦が明け透けに語られている点に注目したい。沖縄方面航空特攻作戦を展開した第8飛行師団の言葉であれば、なおのことである。
この日午前、九州の鹿屋の第5航空艦隊司令部において、大本営海軍部、連合艦隊、第5航空艦隊など関係方面による作戦打ち合わせが行われた。その際、第32軍に対し、連合艦隊の要望として、あるいは大本営命令として、反撃を要望する意見が出たという。
これについて連合艦隊参謀長電をもって第32軍参謀長宛に北・中飛行場への攻撃を要望する電報が発せられた。
昭和天皇の懸念と大本営の指導
昭和天皇はこの日、梅津参謀総長の戦況上奏に際し、
と昨日に続けて沖縄作戦に関する「御下問」をし、沖縄の戦況と第32軍の戦略持久の方針に懸念を示した。
これをうけ梅津参謀総長は、「第32軍に対し所要の指導を加える必要がある」と述べ、大本営陸軍部宮崎第1部長は、昨日の大本営陸軍部第2課長による飛行場奪回、攻勢移転を求める電報に同意し、これを発しようと考えたが、その機を逸した。翌4日、大本営瀬島龍三参謀が宮崎第1部長に連合艦隊の沖縄方面総攻撃と海上特攻の企図を通報したため、大本営陸軍部第1部は、第32軍に対し昭和天皇の憂慮を伝達するとともに、北、中飛行場の制圧について万全を尽くすよう電報した。
そもそも昭和天皇は、大元帥として、先の大戦中、たびたび作戦指導に介入した。沖縄戦においても、1944年の段階から侍従武官を沖縄に派遣し、積極的、主体的に戦況を把握しようと努めていた。サイパンの戦いでも逆上陸を提案するなど作戦指導をしていたが、沖縄戦でもそうした作戦指導が発動したものと考えられる。
「攻勢移転」─第32軍幕僚会議
第32軍はこの日夜、首里司令部壕の軍参謀長は自室に参謀たちを集め、幕僚会議を開催し、各方面からの攻勢移転の要請の電を読み上げ、攻勢移転か戦略持久の堅持かについて議論をおこなった。
第32軍長参謀長は、すでに攻勢移転を行う腹構えであり、神直道航空主任参謀がこれを支持した。八原高級参謀は、攻勢移転について「成功の算なし」「自殺行為」と強硬に反対したが、結局会議は攻勢移転に決し、第32軍牛島司令官は、北・中飛行場への出撃を言い渡した。八原高級参謀は、さらに反対意見を述べたが相容れられず、軍司令官は7日夜を期して北、中飛行場方面への攻勢移転を決定し、翌4日にはその旨大本営や各方面に通告し、航空作戦など作戦への協力を要請した。
幕僚会議の状況について、八原高級参謀は、後に次のように回想している。なお、八原高級参謀の回想だと幕僚会議は4月5日夜開催となっているが、3日夜の誤りであると思われる。
クーニー山壕での強制集団死
この日、読谷村伊良皆のクーニー山壕で強制集団死がおきた。クーニー山壕では米軍上陸の直前に日本兵(防衛隊員か?)がきて、「アメリカ-が上陸すると何をするかわからない」などといい、中国での戦争体験を話した。2日には米兵があらわれ、3日はガス弾が撃ち込まれるなどした。そして日本兵は「死にたいのは集まれ」と叫んで人を集め、手榴弾を爆発させ多くの住民が犠牲になった。
航空総攻撃と戦艦「大和」の沖縄方面海上特攻
海軍としては、米軍が沖縄へ上陸する前に機動部隊に損害を与える予定であったが、航空作戦の準備が整わず、作戦は進んでいなかった。そのため大本営海軍部は、航空攻撃の強化を指示し、上述の通り鹿野航空基地でこの日、大本営海軍部、連合艦隊、第5航空艦隊が今後の航空作戦について協議した結果、航空総攻撃(菊水1号作戦)が決定され、翌4日、連合艦隊豊田司令長官が発令した。
こうした鹿屋での航空総攻撃の決定をうけて、日吉の連合艦隊司令部では、ついに戦艦大和以下残存の艦隊による沖縄方面海上特攻が計画された。
とはいえ、この大和の海上特攻は、連合艦隊の総意に基づき周到に計画されたものではないようだ。大和の海上特攻はどうも連合艦隊神重徳首席参謀が発案したようだが、海軍軍令部富岡第1部長ならびに小澤次長は、神参謀から戦艦大和の沖縄方面海上特攻について了解を求められたが反対するなど、海軍全体としては乗り気の雰囲気ではなかった。連合艦隊草鹿参謀長も、これまで神参謀の海上特攻作戦の企図を聞いてはなだめていたが、草鹿参謀長が鹿屋に出向き航空総攻撃を打ち合わせしていた前後、あずかり知らぬうちに神参謀が事態を進めてしまったようである。結局、意思決定がはっきりしないまま、5日に連合艦隊豊田司令長官が戦艦大和の出撃を発令するのであった。
伊波普猷は語る
「沖縄学の祖」ともいわれる伊波普猷は、米軍上陸直後のこの日および翌4日、『東京新聞』に「決戦場・沖縄本島」と題した文を寄せた。
その他、文化人としては高村光太郎が4月1日、「琉球決戦」という詩をつくった。「神聖オモロ草紙の国琉球/ついに大東亜戦最大の決戦場となる」と始めるこの詩は、沖縄県民に対し米軍と戦うよう鼓舞する内容であった。
他方、作家の伊藤整など、沖縄作戦に悲観的な文化人もいたといわれる。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉
・戦史叢書『大本営海軍部・聯合艦隊』〈7〉
・吉浜忍「米軍上陸前後の日本軍─第二十四師団山第八十九連隊陣中日誌にみる日本軍の対応」(『史料編集室紀要』第27号)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・沖縄戦新聞第7号(琉球新報2005年4月1日)
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1938年(昭和13 )10月、靖国神社を行幸する昭和天皇:國學院大學研究開発推進機構 研究資料「靖国神社臨時大祭記念写真帖」昭和13年10月より