【沖縄戦:1945年2月28日】B-29、沖縄上空に進入し空中写真の撮影など偵察を行なう 沖縄戦と「徴用」と朝鮮出身労働者
B-29の偵察と空中写真
この日の朝9時15分から11時17分まで、沖縄上空にB-291機が5回にわたり進入し、偵察行動を繰り返した。独立高射砲第27大隊や野戦高射砲第79大隊、機関砲第103大隊など第32軍の高射砲隊はB-29を攻撃するも、効果は得られなかった。
米軍は、沖縄上陸以前より、日本軍の配備などを確認する作戦資料や今後の基地建設のための資料とするため、数々の空中写真(航空写真)の撮影計画を立案し、実際に1944年9月以降、空中写真の撮影を開始している。撮影した写真は、日本人捕虜の証言を加味して分析されたそうだ。あの十・十空襲においても、米軍は空襲のかたわら空中写真の撮影をおこなっていたという。
米軍の報告書を確認すると、1945年2月28日を撮影年月日とする空中写真があることから、この日のB-29の進入において撮影されたものとも考えられる。
なお米軍が撮影した空中写真は、米国国立公文書館で保管され、沖縄県公文書館でも収集所蔵している他、国土地理院などでも米軍の空中写真が提供され、利用されている。
また前日の27日午前にもB‐24が偵察のため沖縄に飛来し、午後1時にはB‐291機が那覇港に投弾するなどの行動をおこなっていた。そうした前日の行動にくわえ、この日のB-29の執拗な偵察行動と、折しも那覇港に船舶が停泊していることなどの諸情勢に鑑み、軍高射砲隊は翌3月1日6時30分より警戒を厳にするが、同日6時45分には米軍の大編隊接近中との海軍情報がもたらされ、その直後より米艦載機約670機が沖縄一帯を空襲することになる。
海軍第42震洋隊の沖縄配備
この日、海軍の特攻艇部隊である第42震洋隊(隊長:井本親少尉)が沖縄に配備される。42審審洋隊は、沖縄の屋嘉に駐屯し、金武に駐屯した第22震洋隊とともに、米軍の沖縄上陸の最初期に特攻出撃している。しかし米軍に会敵することなく目立った戦果をあげられず、結局は米軍の砲爆撃により特攻艇が破壊され、地上戦に移行している。
沖縄戦と徴用─独立混成第44旅団砲兵隊第1中隊「陣中日誌」から
この日、沖縄の慶良原に駐屯していた独立混成第44旅団砲兵隊第1中隊は、陣地構築作業に従事していた。同隊のこの日の「陣中日誌」には、
などとあり、朝6時の起床とともに陣地構築作業に従事した様子が確認できるが、続いて兵および段列兵員(後方支援部隊兵員のこと)が「労務者」を指揮して厩舎の構築作業・補修作業を続行したとある。
ここでいう労務者とは、国場組など軍作業を請け負った企業に雇われた労働者や勤労奉仕などで動員された人々など様々な種類が考えられるが、「徴用」で動員された沖縄住民の可能性も考えられる。
第32軍が沖縄に配備されて以降、飛行場建設や陣地構築作業などに沖縄住民は徴用され、相当の重労働に従事させられた。徴用がはじまったころは賃金も支払われていたが、途中から支給されなくなった事例が多いようだ。食事も粗末であり、主食の支給も減っていった。また徴用された住民への軍人による暴行などもあったようだ。
徴用されたのは男性ばかりではなく、女性も徴用され飛行場建設など重労働を行った。なかには憲兵に銃を突き付けられ強引に徴用された女性もいたといわれている。
また、この徴用は、現在話題となっている「徴用工」の問題とも関連してくると考えられる。上述のとおり、沖縄戦時、民間建設会社は飛行場など飛行場建設を請け負ったが、そこには少なくない数の朝鮮半島出身の労働者が働いていた。彼らのなかには企業の募集に応募して日本に来たというケースもあるが、「官斡旋」や「国民徴用令」などに基づく強制的な動員によりいわゆる「徴用工」として日本で働かされた事例がある。石垣島の海軍飛行場建設では、「大林組」の下請けの土木業者であった「原田組」が朝鮮半島出身の労働者約600人をダイナマイトやツルハシで岩塊を砕く危険な重労働に従事させていたとされる。原田組の元請けの大林組は、後に徴用工の問題で訴訟の対象となっていることから、ここでの朝鮮半島出身の労働者は、徴用工として動員された労働者である可能性もある。
硫黄島の戦い
硫黄島では27日、前日来に引き続き日米の激闘が繰り返されたが、米軍を迎え撃つ西戦車連隊は死傷者続出し、また弾薬や糧秣も米軍の攻撃で吹き飛ばされたり埋まってしまい、苦戦を続けた。そのなかで米軍は、ついに彼我攻防の焦点であった元山砲台山頂に進出し、ついで海軍砲台高地を占領した。27日夕までに硫黄島守備隊の損耗は約2分の1に達し、第一線の兵力は5分の1に低下、火砲や弾薬も3分の1に減少、野砲や中迫撃砲の弾薬は当初の約1割程度となった。
そしてこの日も米軍は、約3個師団で攻撃を再開した。西戦車連隊の1個中隊は、中戦車が全て破壊され、手榴弾で応戦するような状況に陥った。また島北西部の大阪山山麓に接近し、眼鏡岩まで進出するに至った。守備隊は大阪山北側の反斜面陣地を確保し、眼鏡岩付近の米軍に反撃し、猛烈な白兵戦を展開したが、衆寡敵せず米軍を撃退することはできなかった。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『中部太平洋陸軍作戦』〈2〉
・源河葉子「沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真:米国側資料にみる撮影・利用の概要」(『沖縄県公文書館研究紀要』第4号、2002年3月)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
トップ画像
撮影された空中写真を分析する米兵:沖縄県公文書館所蔵【写真番号16-04-2】