【沖縄戦:1945年4月10日】津堅島に米軍上陸─津堅島守備隊による重傷者への自殺命令 鈴木貫太郎新内閣への陸軍の警戒
米軍による津堅島上陸と撤退
この日朝、米軍第27師団第105連隊第3大隊が津堅島南西のセナハ浜やニンギ浜(現在の津堅漁港一帯)から津堅島に上陸した。津堅島の戦いは日米双方で戦史として記録されているが、日米で若干記述が異なるという。有島良成氏は、日米双方の資料やリポートを比較しつつ津堅島の戦闘の実相に迫っているが、一先ず有島氏の論考に従って津堅島の戦闘を振り返りたい。
津堅島守備隊(亭島秀雄重砲兵第7連隊第1中隊長)は、米軍上陸直後は強い反撃はしなかったが、守備隊の山崎小隊の一部は、現在の津堅漁港から津堅小中学校を結ぶ坂道の陣地にセナハ浜から上陸した米軍部隊が接近すると、激しい射撃を行い抵抗した。こうした守備隊の反撃と、横雨で視界が悪かったこともあり、米軍の進出は阻まれたという。だが山崎小隊は間も無く全滅し、砲兵中隊の小銃兵が防戦にまわった。この射撃により米軍の血が港まで流れたそうだ。
ニンギ浜から上陸した米軍部隊は、スムーズに進攻し、集落の東方を北上した。そのあたりには12センチ砲を擁する西脇小隊が配備されていたが、米軍の砲火で12センチ砲は破壊され、小隊は後退した。さらに米軍部隊は、日本軍を追い山崎小隊の主力と交戦したが、亭島守備隊長は、山崎小隊を36高地へ撤退させた。米軍部隊は、この日夕方までに島の北端に到達し、36高地一帯の守備隊を包囲した。
翌11日も早朝より戦車を使用した米軍の攻撃が行われ、米軍は36高地の陣地わずか10メートルの距離まで迫り、守備隊は手榴弾による斬り込みなどで決死の抵抗を続け、陣地を守り抜いたが、亭島守備隊長は11日夜「玉砕」を宣言した。
ところが亭島守備隊長が玉砕を宣言した11日夜、米軍は津堅島から撤退した。日本軍部隊をほぼ壊滅に追い込んだとの判断と、中城湾に待機している米艦艇への日本軍の攻撃を警戒したことが、早期の撤退につながったようだ。
米軍が撤退した12日以降、亭島守備隊長らは負傷者の収容などを行ったが、米軍は4月23日、再上陸することになる。
津堅島での重傷者への自殺命令と防衛隊員の逃亡
前節で述べたように、津堅島では守備隊が36高地で抵抗を続けたが、同高地の西側には病院壕があり、戦闘の激化により負傷者が多数収容された。配属された島の女性たちによる5人の補助看護係たちでは、とても対応できないほどの数だったそうだ。
軍は負傷者に対し36高地への移動を命じ、自力で移動できない者には自殺命令を発した。実際に手榴弾が配られ、14人~15人前後の重傷者が自殺したといわれている。当然ながら重傷者は進んで自殺したわけではなく、死ぬことを嫌がり、看護係たちに様々なことを話しかけといわれる。歓心を買うためか、気持ちを紛らわすためか、いずれにせよ悲痛な光景である。
また津堅島の戦いでは住民が防衛隊に動員され、戦闘に参加させられたが、防衛隊員の一部は戦場から逃走したり、島の目立たないところに隠れるなどして、命を長らえるケースがあった。しかし守備隊は防衛隊員の逃走を許さず、逃げた防衛隊員を殺害するため抜刀して捜索する兵士の姿が目撃されている。
嘉数高地の死闘つづく
首里方面へ南下する米軍を迎え撃つ第32軍の第1線陣地の主陣地である嘉数高地では、昨日より日米の激闘が続いた。
昨日は嘉数高地頂上付近まで進出した米軍を撃退したが、この日も朝7時過ぎから集中砲火を背景に米軍歩兵は攻撃前進してきた。第32軍各隊も嘉数高地の堅牢な陣地を背景に反撃を続け、高地北正面は砲撃や迫撃砲の集中などで米軍の攻撃を阻止したが、高地北西側からの進入を許し、接戦となった。
嘉数高地西側70高地を中心に布陣する独立歩兵第272大隊は8時ごろから同高地に進出してきた米軍と接戦となったが、9時30分ごろには同高地頂上と北斜面は米軍に占領された。部隊は同高地南側斜面の墓地などを利用し頑強に抵抗を続け、逆襲も敢行して米軍の進出を阻止した。
嘉数北側高地も西方から進入したした米軍と接戦となったが、これを撃退した。
歩兵第63旅団長は、この日夜独立歩兵第273大隊の第2中隊を独立歩兵第13大隊に配属した。同中隊は棚原付近から嘉数に移動し70高地の守備についた。
その他の戦況
西原、我如古、棚原、和宇慶などの主陣地帯でも米軍は攻勢を続けた。
我如古正面の米軍は攻撃を再開し、その一部は西原高地北側高地に進出した。
独立歩兵第14大隊第2中隊、独立速射砲第22大隊第1中隊の守備する我如古南東側高地の陣地は、正午ころには一時米軍の馬乗り攻撃をうけるにいたったが、これを撃退した。
棚原北東の142高地陣地の守備部隊は、同陣地を確保し米軍の進出を阻止した。
和宇慶北西の155高地陣地は、昨日頂上付近を米軍に占領されたが、独立歩兵第11大隊や同第12大隊の所在部隊は同高地南側陣地を保持してその進出を阻止した。
東海岸和宇慶正面においては、この日米軍が慎重な行動で南下してきたが、守備隊は独立歩兵第11大隊第5中隊は和宇慶集落を保持して南下を阻止した。
なお第32軍牛島司令官はこの日、12日を期して陣前出撃を決定し、各方面に打電した。
米軍側の資料によると、この時期、米軍も嘉数高地はじめ主陣地帯での攻防で相当に消耗しており、その分の増援もなく、窮地に陥りつつあった。実際には第32軍の12日の陣前出撃は失敗に終わるのだが、こうした戦況を踏まえると、12日を期しての出撃というタイミングそのものは時宜にかなっていたのかもしれない。
沖縄北部の戦況
第4遊撃隊の戦闘
恩納岳の第4遊撃隊(第2護郷隊)第1中隊主力は、8日の金武の米軍拠点襲撃失敗をうけ、この日夜再び金武を再攻撃したが、米軍の警戒が厳重で成果は得られなかった。
第3遊撃隊の戦闘
米軍の1個中隊がタニヨ岳北西4キロの稲嶺方面から喜納股付近に進入してきたため、喜納股南東付近に潜伏配備されていた第3遊撃隊(第1護郷隊)第4中隊の比嘉小隊は、米軍の先頭約30名に急襲射撃し、相当の損害を与えた。しかし米軍は逐次増加していったため、比嘉小隊は後退した。この際、軽機関銃手が負傷し軽機関銃1丁を米軍に奪われ、弾薬庫付近が荒らされた。
喜納股南西付近に布陣中の特設警備第225中隊(西銘生一郎中隊長、国頭支隊直轄、名護町に配置されていたが米軍の進出によりタニヨ岳に移動)も米軍の攻撃をうけたが撃退した。
この日午後2時ごろ、タニヨ岳の隊本部で比嘉小隊の戦況報告を聞いた村上隊長は、軽機関銃が奪われ拠点が荒らされたことに憤慨し、本部所在の約20名を率いて急行、比嘉小隊を掌握した上で弾薬庫付近を調査した。幸いに弾薬庫は荒されておらず、食料米60袋が焼かれ、乾パン40箱などの損害であった。村上隊長は米軍の撤退を確認し、特警第252中隊と連絡した上で、11日昼に本部に帰還した。
国頭支隊の戦闘
伊豆見付近では、本部半島方面へ西進を企図する米軍に対し、国頭支隊の本部のある八重岳および乙羽岳方面から射撃を加え、前進を阻止するとともに、夜間斬込み隊を派遣して反撃した。この斬込みには鉄血勤皇隊の学徒40名も参加したといわれる。
西海岸方面の米軍はこの日渡久地に進出し、主陣地前方の満名付近にも一部が進出した。また歩兵砲中隊の亀田小隊(連隊砲2門)は午後3時から夕刻にわたり、渡具知付近の米軍を射撃した。
なお、この日、今帰仁村今泊海岸に米軍戦車があらわれるとの記録がある。昨日、米軍の一部は運天港に上陸しているが、もしかしたら昨日運天港に上陸した米軍部隊が同海岸まで進出したのかもしれない。
嘉手納飛行場の整備
米軍はこの日、嘉手納飛行場の整地作業を開始した。嘉手納飛行場はもともとは日本軍の中飛行場であるが、読谷飛行場(北飛行場)とともに米軍上陸直後に占領され、どちらもただちに初期整地作業が始まり、ひとまず緊急使用ならば可能な状態になっており、前日9日には航空部隊の配備も始まっていた。米軍側戦史によるとこの日に整地作業を開始とあるが、本格的な整地作業の開始のことをいっているのかもしれない。いずれにせよこれ以降も滑走路の舗装など整備が続き、沖縄からの本土爆撃の拠点となる他、戦後は拡大、拡張されていき米空軍の世界的な戦略基地となっていく。
鈴木貫太郎内閣と陸軍
4月5日、小磯國昭内閣が総辞職したことにより、鈴木貫太郎内閣が成立した。鈴木首相は海軍大将であり、内閣は陸軍側の「戦争完遂」の要望をのんで成立した海軍内閣であったが、陸軍では鈴木内閣について「和平内閣ではないか」「徹底抗戦の意思はあるのか」と疑念が晴れず、鈴木内閣について各種情報が流れていた。
そうした状況下、陸軍省調査部はこの日、
との情報を報告した。
また陸軍省調査部は、講和を求める「近衛上奏文」の全文の写しを手に入れ、陸軍省兵務局へ渡した。同局はこの資料を憲兵司令部へ渡し、憲兵司令部は陸軍次官の決裁を得て、4月15日、近衛と親しい吉田茂を検挙した。和平・講和を求めるグループに対するけん制であり、見せしめの検挙であった。
沖縄で熾烈な戦いがおこなわれているこのころ、軍中央、中央政界では和平、講和や本土決戦に向けて様々な勢力が暗闘を繰り返していた。まさに沖縄戦は東京の「捨て石」であった。
歩兵第89連隊第5中隊陣中日誌より
沖縄南部に配備されていた第24師団歩兵第89連隊第5中隊のこの日の陣中日誌には、次のようにある。
最初に「瓦斯」、すなわち米軍による毒ガス・化学兵器の使用への警戒と対処方法が記されている。第32軍は沖縄での化学戦を強く警戒し、ガスマスクなどを用意していた他、化学戦担当者を配置していた。沖縄戦犠牲者の遺骨収容作業にあたり、当時の軍が用意したガスマスクが発見されることもある。
次にこれは以前も触れたが、書類の焼却について記されている。沖縄南部湊川方面への米軍上陸はないと判断した第32軍は、攻勢移転の決定もあり、南部の第24師団の北転を計画していた。そうした「新作戦」にあたり、書類の焼却を命じている。ここでの焼却は機密秘密書類は別のようだが、そうした機密秘密書類の焼却についてもすでに指示が出ていたことは以前触れた通りである。
最後の参謀長注意からは、このころ軍内部で極まっていた住民「スパイ」視の一端を垣間見ることができる。軍参謀長としての軍全体への注意であり、軍そのものが組織的に住民「スパイ」視をしていたことを示している。
住民「スパイ」視の背景には、住民を動員する住民戦力化、そして軍官民一体化がある。沖縄の場合には、沖縄への歴史的な蔑視や差別も住民「スパイ」視の相当な要因の一つであったろうが、住民戦力化・軍官民一体化が発動されるところには、どこでも住民「スパイ」視がつきまとったと考えられる。我部政明氏などは、本土決戦になれば「沖縄人スパイ説」のように「日本国民スパイ説」も成立していた可能性があるというが、それはご指摘のとおりであろう。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉
・武島良成「1945年4月・沖縄県津堅島の戦い」(『京都教育大学紀要』第131号)
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・林博史『沖縄からの本土爆撃 米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館)
・我部政明「沖縄戦争時期のスパイ(防諜・間諜)論議と軍機保護法」(『沖縄文化研究』第42巻)
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前線に向かって行軍する海兵隊員たち:沖縄県公文書館【写真番号90-05-2】