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【沖縄戦:1945年7月26日】「ウルマ新報」創刊 情報を統制する統治者としての米軍と瀬長亀次郎、そして沖縄人民党

「ウルマ新報」創刊

 石川収容所でこの日、民間人による新聞「ウルマ新報」が創刊、発行される。後の琉球新報である。なおウルマ新報創刊については、『沖縄県史』はこの日とし、沖縄県公文書館のサイトには前日25日とあるが、さしあたり県史の日付に従いたい。
 創刊者は石川収容所に収容されていた島清。島は1908年に糸満に生まれ、法政大学を卒業後、社会主義政党に入党し活動するが、満州事変・日中戦争と戦線の拡大に伴い沖縄に戻り、社会大衆党那覇支部を結成して社会主義勢力を結集し、政界に進出するなどもしていた。沖縄戦により北部山中に避難するなどしていたが、45年7月に石川収容所に収容されていた。
 創刊の経緯について島の回想によると、米軍人に「この混乱状態で住民はニュースを渇望していると思う。新聞を発行してくれる人はあるまいかと、市長と小橋川所長に問うたところ、君意外に適任者はないといわれて、相談に来た。軍の援助で新聞を発行してくれる気はないか」と持ちかけられたことによるそうだ。
 創刊号は「ウルマ新報」という新聞名のない、A4サイズのわら半紙、ガリ版刷り表裏2頁であった。内容は日本本土と世界の戦況を伝えるもので、沖縄の情勢については触れられていなかった。記事は米軍から提供されたオールウェブ受信機(ラジオのようなものであろうか)で世界各地の電波を受信し、ニュースを集めたようだ。第2号より「ウルマ新報」の新聞名がつき、少しずつ沖縄の情勢や生活に必要な情報が掲載されるようになる。

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ウルマ新報第4号:沖縄県公文書館所蔵

「うるま新報」社長瀬長亀次郎

 ところで、なぜ米軍は新聞創刊を思い立ったのだろうか。それは島が回想しているように、正しい戦況を住民に教え、住民の気持ちをあらたにし、民心を安定させることにあった。その意味では、ウルマ新報は米軍の機関紙のような存在であったともいえる。
 一方で捕虜となった日本兵も新聞に触れるわけであり、本土出身者が多い捕虜にとって関心のある日本本土の戦況という「目に見えない情報」を与え、住民たちには収容所生活やバラバラになった家族の再開、農業や畜産など「目に見える情報」を与えるなど情報を提供・統制することは、米軍こそ沖縄の「統治者」であることを表明するものであり、それがウルマ新報を創刊・発行した意義だという指摘もある。
 ウルマ新報は米軍の事前検閲こそ受けていたようだが、その他には報道についてあからさまな米軍の圧力といったものはなかったようだ。島も創刊にあたり米軍に「新聞は県民のためのものとし、私の責任で発行する」「人事、編集、運営等一切、私の権限に属するものとす」「軍は援助だけで干渉はしない」という点を示し、米軍も同意している。また米軍が出し渋ったニュースでも必要であれば報じ、米軍が提供するニュースでもあまり価値がないと判断すれば報じなかったこともあったそうだ。
 こうして発行されつづけたウルマ新報だが、島の帰京が現実のものとなるなかで、46年5月には「うるま新報」とひらがなにあらたまり、同年7月ごろには株式会社化し、島は後任として池宮城秀意(後の琉球新報社長)や当間重民(後の那覇市長)に社長就任をあたったが色よい返事が得られず、最終的に46年9月に瀬長亀次郎が社長に就任した。また池宮城は編集長を務めたそうだ。
 瀬長は米軍に事前検閲をやめさせ、米軍からの報酬のような物資の配給はうけないかわりに、これまで無償配布だった新聞を有料化するかたちでうるま新報の発行を継続した。米軍からの独立するためには当然必要な措置であった。そして瀬長は企業人としてもジャーナリストとしても沖縄各地をあちこち飛び回るなかで多くの仲間と再開し、また米軍統治に疑問を持つ人々とも接点をもった。これが「人民党」結成につながっていくのであった。

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ウルマ新報社屋跡 2006年3月13日撮影:沖縄県公文書館

うるま新報と沖縄人民党

 島清が去った後のうるま新報社長を務めた瀬長、そして編集長の池宮城、また支局記者や配布所の責任者などを務めていた兼次佐一、浦崎康華などは、沖縄人民党初期の主要メンバーでもある(なお池宮城については今日残っている人民党結成時の中央委員の名簿に名前は残っていないが、「人民党」という党名の命名者であるなど、深く関与している)。うるま新報そのものはけして沖縄人民党の党機関紙ではなかったが、このように沖縄人民党結成の基盤となるネットワークを提供したことは間違いない。
 また、うるま新報の責任者たちが人民党メンバーであるとすると、うるま新報そのものがけして人民党の党機関紙でないとしても、人民党結成から結成当初の人民党の問題意識がうるま新報の紙面から読み取れることは当然である。
 発行当初のうるま新報は、上述のように記者たちが集めた海外情勢や米軍の発表などが主な紙面であり、いわば外電が主体であった。そうしたなかで主に報じられたのは、例えばベトナムの人々が独立を希求しフランス統治に反対したこと、インドネシア独立派の主張、イギリスによるビルマへの自治権付与など、植民地の解放や独立に関するものであった。当然、ここには沖縄の今後を重ね合わせる意識があったわけであり、そうした外電をうるま新報記者たちが好んで掲載したといえる。
 しかし46年になると報道姿勢に変化が見え、北緯30度以南の日本の行政権停止、チャーチルの「鉄のカーテン」演説、沖縄の国連信託統治案に関する米国内の反発と併合要求の盛り上がりなどが報じられている。いわば記者たちは、国際情勢の変化の荒波のただなかにいる沖縄の姿を直視する報道をはじめるようになり、記事からは米国の姿勢と沖縄の今後にただならぬ不満と不安が読み取れるようになる。こうしたなかで沖縄人民党の結成と闘争がはじまっていくことになる。

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人民党事件で服役した沖縄刑務所から出所する瀬長亀次郎:Wikipedia「瀬長亀次郎」より

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川平成雄「収容所の中の住民と生活の息吹」(『琉球大学経済研究』第76号、2008年)
・瀬長亀次郎『沖縄の心』(新日本出版社)
沖縄県公文書館「あの日の沖縄」1945年7月25日 戦後初めての新聞が発行
・若林千代「第二次世界大戦後の沖縄における政治組織の形成、一九四五年ー一九五一年 : 沖縄人民党を中心にして」(法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』第28巻、2002年)

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石川市のウルマ新報社屋と社員たち 中央が瀬長:沖縄県公文書館「あの日の沖縄」1945年7月25日 戦後初めての新聞が発行