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【沖縄戦:1945年4月20日】伊江島守備隊最後の総攻撃 第一防衛線の死闘─米軍戦車のハッチをこじあけ手榴弾を投げ込み戦車兵を殺害する日本兵たち

伊江島守備隊の最後

 伊江島では早朝より米軍の砲撃が開始され、9時ごろから米軍は伊江島守備隊の戦闘指揮所がおかれている城山へ攻撃を開始した。守備隊は学校高地ならびに女山地区を主陣地として米軍へ最後の戦いを挑んだが、弾薬も欠乏し正午ごろには占領された。夕刻には戦線は城山を中心として半径300mまで狭まった。
 井川守備隊長は19時ごろ最後の総攻撃を命令した。その趣旨は

 敵上陸以来五日間、わが将兵は優秀装備を誇る十倍に余る敵軍を邀撃して連日連夜勇戦奮闘敵に多大の損害を与えたるも我もまた将兵相次いで斃れ、弾薬は欠乏を告ぐるに至れり ここにおいて、残存せる全兵力を挙げて今夜半を期し敵に最後の鉄槌を加えんとす

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

というものであった。
 この命令により、わずかに残った人員、そして負傷者も戦友にすがって攻撃準備をしたといわれる。翌21日午前4時30分ごろ、井川守備隊長以下百数十名および防衛隊や女子救護班、婦人協力隊、さらには一般住民も加わり、学校高地方面ならびに飛行場方面に最後の総攻撃をおこなったが、米軍の反撃によりほぼ全滅し、6時30分ころには総攻撃もおわった。
 米軍は21日、伊江島の完全占領を宣言する。なお22日夜にも守備隊の残存兵と女性も含む住民による突撃があった。
 井川守備隊長に生きて伊江島を脱出して国頭支隊に合流し、伊江島の状況を伝えよと命令された児玉俊介衛生見習士官は戦後、最後の総攻撃について次のように記している。

 真栄田節子(当時二十三才)、大城ハル子(二十三才)、大湾寿美(二十六才)、永山ハル子(二十六才)、崎浜ヨシ子(二十一才)の五人は女学校卒で井川部隊本部付を命ぜられ、負傷兵の看護にあたっていたが既に死を決していた。これら乙女は黒髪を刈り落し軍服軍帽、帯剣姿に巻脚絆、編上靴とすっかり服装を男子にかえ、爆雷を背負い左手にマッチを握り四月二十一日午前二時頃井川部隊最後の夜襲に加わり緒方副官に附添い新校舎南側の敵戦車に奇襲した。物凄い爆音と共に戦車は擱坐せしめたけれども、嗚呼あたら青春五名の花は渦まく鉄風の中に散華した。
  [略]
部隊の最後の突撃の際には多くの者が兵と共に出た。斯くて二百名の救護班員、協力班員の殆んど全部は部隊と共に伊江島戦に散ったのである。

(児玉俊介「鉄風に散る花」〔『伊江村史』下巻〕)

 児玉氏は衛生見習士官であったため、特に伊江島女子救護班の最後をよく見たのだと思う。いわゆる「殉国美談」の語りであり注意しなければならないが、およそ伊江島女子救護班はじめ女性を含む住民が最後の総攻撃に加わった様子はうかがえるかと思う。
 しかし繰り返すようだが児玉氏の語りは「殉国美談」であり、女子救護班の生存者が戦時中、「戦後をみたいと言い合って励まし合った」と戦後に証言していることはよく意識したい。

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地雷によって破壊されたと思われる戦車 伊江島にて 45年4月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号87-14-1】

伊江島における強制集団死と住民の収容

 伊江島でも複数の強制集団死(いわゆる「集団自決」)が発生している。4月22日には住民約120人が避難していたアハシャガマに防衛隊員たちが逃げ込み、手榴弾や爆雷を爆発させ多くの人が犠牲になったといわれている。タバクガマでは5家族がダイナマイトを爆発させて死亡した。その他、サンザタ壕やユナッパチク壕でも強制集団死や少年兵が手榴弾を爆発させ住民を殺害する事件などが起きている。

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強制集団死が発生したアハシャガマ:筆者撮影

 伊江島の住民はその後、LST(戦車揚陸艦)で慶良間諸島へ移動させられ収容生活を送った。また地上戦以前に本部半島に疎開していた伊江島の住民は、今帰仁村や本部町民とともに、大浦崎収容所へ移動させられ、収容生活を送った。今帰仁や本部の住民が帰還を許されても伊江島の住民は許されず、さらに久志への移動・収容を命じられるなど、苦しい戦後を送ることになる。
 また米軍は伊江島の住民が帰還後も、住民への適切な説得や補償もなく島の大部分を接収し、基地を拡大していった。現在でも島の三分の一近くが米軍施設となっている。
 なお琉球新報2020年4月19日において、伊江島の戦いが続くその裏で、伊江島収容所(ナーラ収容所)で規律ある収容生活がおこなわれていたことを示す記録「炊事竝幕舎記録」が残されていると報じられている。
 『伊江村史』上巻には、米軍上陸直後より住民の大部分は米軍の捕虜となり、「川平区のナガラ原海岸のテント小屋に収容された」とある。もしかしたら「ナーラ収容所」と関係があるかもしれない。

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琉球新報2020年4月19日

主陣地帯の死闘

 米軍は昨日につづき第32軍の第一防衛線である主陣地帯の全線で攻勢に出た。

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4月19日の戦況図 日にちは1日ずれているが、第一防衛線の状況と地名などを確認していただきたい:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

城間、伊祖方面 主陣地帯の西海岸側では、この日朝から米軍が兵力を増強し、伊祖北側から南西方向にむかって進撃してきた。伊祖集落西方地区に進入した米軍約二個中隊は、伊祖付近に所在する独立臼砲第1連隊本部とこれに協同する独立歩兵第21大隊などにより包囲攻撃され、潰走した。
 城間方面では、米軍との近接戦闘がおこなわれたが、守備隊は善戦して陣地を確保し米軍の南進を防いだ。しかし伊祖、城間には逐次米軍が進入し、西海岸道方面の戦況は悪化していった。これにより第62師団藤岡師団長は隷下の歩兵第64旅団有川旅団長に対し、陣地の奪回を命じた。
 有川旅団長は予備兵力がなかったため、独立歩兵第21大隊南側に陣を構える独立歩兵第15大隊(大隊長飯塚豊三郎少佐)主力を抽出し、独立歩兵第21大隊とともに奪回攻撃を実施した。独立歩兵第15大隊はこの日夜、沢岻、安波茶を経て伊祖に向かって前進したが、安波茶付近で夜明けを迎えてしまったため、夜間攻撃は実行できなかった。
 独立歩兵第21大隊は城間付近に部隊主力を集結させ、城間北方の米軍に対し夜間攻撃を実行したが大きな成果はなかった。
 この日新たに有川旅団長に配属された歩兵第22連隊第3大隊および独立歩兵第273大隊が安波茶に到着し旅団長の掌握下となった。

嘉数 主陣地帯のうち最激戦地の一つである嘉数では、この日主に陣地左側背後から米軍の攻撃をうけた。独立歩兵第23大隊を基幹とする守備隊は善戦し米軍を撃退するとともに、嘉数高地右の西原高地全面の米軍を攻撃し、西原高地の守備隊を支援した。

西原、我如古 西原高地はこの日早朝から米軍の攻撃をうけた。これに対し守備隊は迫撃砲や機関銃、臼砲の支援を得つつ抵抗を続けたが、米軍は高地頂上北側に進出し、西原陣地の守備隊と至近距離で相対した。
 我如古南東側高地の守備隊は、昨日高地西側を占領されたため奪回攻撃をおこなったが敗退し、同高地は米軍に占領された。
 現在の琉球大学付近の142高地ではこの日米軍の猛攻をうけたが善戦し撃退した。

東海岸 東海岸の独立歩兵第11大隊正面においては、この日朝から和宇慶西方1キロの地点の高地(175高地東500メートル付近)に戦車を伴う有力な米軍が進出し、終日にわたり死闘が繰り広げられたが、同高地北側斜面を米軍が占領した。三浦大隊長は逆襲や斬込隊により高地奪回を試みたが成功しなかった。

 第32軍はこの日の戦況を次のように報じた。

一 軍主力方面ノ敵ハ昨日ニ引続キ本早朝ヨリ全線攻撃ヲ再興シ其ノ重点ハ西海岸道方面ニアルカ如シ
  敵砲爆撃熾烈ナリ 又敵ハ港川四八・九、伊祖ノ線ニ進出中ニシテ我ハ果敢ニ之ヲ反撃中 其ノ一部ハ屋富祖附近ニ進出セルカ如シ
二 嘉数以東ハ戦線大ナル変化ナク和宇慶ー南上原ー西原ー嘉数ノ線ヲ確保シアリ
三 敵機来襲 本島四四〇機、宮古五八機
  攻撃ハ比較的緩慢ナリ
四 砲撃五五〇発
五 四月十九日払暁、二十日払暁ノ地上戦果、損害
  戦果(右及ヒ中正面ノミ) 人員殺傷九一八、戦車四五、火器三(一六)
  損害 戦死八二、戦勝一〇五

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 このころの米軍の攻撃は「耕す戦法」とも表現され、陸海空から猛烈な砲爆撃を前線におこない、あたかもトラクターや農機具で土を耕すように敵陣地を文字通りひっくり返し、少しずつ前進するものであった。沖縄戦における米軍の攻撃の凄まじさは「鉄の暴風雨」といわれるが、この「耕す戦法」という言葉も米軍の攻撃の凄まじさがよくあらわれている。
 他方、第32軍の抵抗も激しいものがあり、日米は文字通り「死闘」を繰り広げた。第32軍の戦闘で急造爆雷による自爆攻撃がおこなわれたことは既に触れた通りだが、その攻撃は米軍戦車の履帯(キャタピラー)を破壊するなどし、米軍戦車が走行不能状態(擱坐)になればそれで充分なのだが、米軍の記録によれば、日本兵は擱坐した戦車に群がり、戦車に搭乗するためのハッチをこじあけ、手榴弾を投げ込み、乗組員を爆死させ全滅をはかるなど、徹底した殺害をおこなった。
 こうした攻防は米軍の憎悪を募らせる結果となり、投降した日本兵を殺害したり死体を損壊するなどの残虐行為につながっていったと考えられる。

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キャプション原文の和訳には「沖縄戦で米軍が日本軍の壕を封鎖した際、舞い上がった破片。敵から奪ったトリニトロトルエン爆弾が使われた」とある 意味が取りづらいが、米軍が日本軍から奪った爆弾を爆発させ壕を封鎖したということだろうか あるいは米軍に壕を封鎖されたので、壕内の日本兵が米軍から奪った爆弾を爆発させ封鎖を解いたということだろうか もしそうであれば、それは壕内で爆弾を爆発させ死を選んだということかもしれない 45年4月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-35-4】

沖縄北部の戦況

 沖縄北部では第4遊撃隊(第2護郷隊)が引き続き恩納岳で米軍との戦闘を繰り返していた。この日正午ごろ、米軍は三角山の大鹿隊正面に攻撃をくわえてきた。大鹿隊は抵抗したが、三角山は米軍に占領された。第4遊撃隊岩波隊長はこの日夜、第3中隊主力をもって三角山の奪回をはかったが、損害が多く失敗した。
 岩波隊長は徹底抗戦をつづけ、なるべく長期間米軍を引きつけるという方針のもと、陣地を恩納岳を中心に縮小配備し、防備の強化をはかった。

三角山での戦闘について語る元護郷隊の仲泊栄吉さん チャプター4(12分35秒ごろより):NHK戦争証言アーカイブス

浦田挺進隊

 国頭支隊の撤退により軍司令部と国頭支隊のあいだの通信連絡は16日に断絶した。軍司令部参謀部情報係の浦田国夫少尉(陸軍中野学校二俣分校出身)は、国頭方面の情報を収集するため自ら挺進連絡することを計画し、この日国頭地区への挺身連絡について以下の軍命令をうけた。

 作命乙第二七号  四月二十日 首里
一 軍ハ国頭、中頭地区ノ情報ヲ収集シ作戦指導ヲ有利ナラシメントス
二 浦田少尉ハ挺進隊長トナリ別紙人員ヲ指揮シ国頭地区ニ挺進スヘシ
三 主要ナル任務左ノ如シ
  国頭地区ノ敵情、友軍状況、北、中飛行場ノ状況
  止ムヲ得サル場合ハ遊撃戦展開 ソノ場合ハ本部ニ報告スヘシ
四 任務遂行ニ方リテハ厳ニ企図ヲ秘匿シ住民ニ注意シ敵ニ乗セラレサル如ク細心ノ注意ヲ払フヘシ
五 通信ノ事項ニ関シテハ主任参謀ヲシテ指示セシム
別紙(人名)
  [略]

※この命令は浦田少尉の記憶に基づいている。

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 浦田少尉率いる挺身隊は浦田挺進隊、あるいは桜挺進隊という。
 メンバーは浦田少尉、岡幸夫(陸軍中野学校出身)軍曹など7人であり、彼らの護衛として林三夫(陸軍中野学校二俣分校出身)少尉が師範学校生20人を引き連れ同行した。浦田挺進隊の師範学校生のなかには国頭出身者もいたようだが、地理に詳しいため抜擢されたのだろう。戦史叢書によると浦田挺進隊は海路国頭を目指し、23日に司令部を出撃したという。
 もともと浦田、岡、林は、離島に配備された離島残置諜者との連絡役であったが、戦況の悪化とともに離島残置諜者との連絡が途絶えたため、当初の任務がなくなっていた。そうしたこともあり挺進連絡を買って出たのかもしれない。 

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撤退する日本軍によって破壊された古い橋 嘉手納の栄橋か こうした橋の破壊は住民の避難を困難にさせる要因となった 45年4月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-03-2】

「国土決戦教令」について

 この日、大本営陸軍部は本土決戦のマニュアルともいえる「国土決戦教令」を策定し、各部隊に配布したとされる。同教令には、例えば以下のようなことが記されている。

  第一章 要旨
第一 国土作戦ノ目的ハ来寇スル敵ニ決戦ヲ強要シテ絶対必勝シ皇国ノ悠久ヲ確保スルニ在リ 之ガ為国土作戦軍ハ有形無形ノ最大戦力ヲ傾倒シ猛烈果敢ナル攻勢ニ依リ敵上陸軍ヲ殲滅スベシ
  [略]
第十一 決戦間傷病者ハ後送セザルヲ本旨トス
負傷者ニ対スル最大ノ戦友道ハ速カニ敵ヲ撃滅スルニ在ルヲ銘肝シ敵撃滅ノ一途ニ邁進スルヲ要ス戦友ノ看護、附添ハ之ヲ認メズ
戦闘間衛生部員ハ第一線ニ進出シテ治療ニ任ズベシ
第十二 戦闘中ノ部隊ノ後退ハ之ヲ許サズ
 斥候、伝令、挺進攻撃部隊ノ目的達成後ノ原隊復帰ノミ後方ニ向フ行進ヲ許ス
  [略]
第十四 敵ハ住民、婦女、老幼ヲ先頭ニ立テテ前進シ我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ斯カル場合我ガ同胞ハ己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ敵兵撃滅ニ躊躇スベカラズ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍資料 沖縄戦6)

 皇国の悠久のための本土決戦においては、例えば負傷者を後送せず、とにかく敵に戦いを挑み、後退することも許されず、敵が住民や婦女子を楯にして進軍してきたとしても、国家のために構わずに戦いを挑むべきことなどが記されている。沖縄戦後、本当に本土決戦が実施されていたら何が起きていたのか想像しただけで寒気がする。
 とはいえ、そもそも本土決戦と密接に結びついている沖縄戦においても、こうした意識のもとで作戦指導がおこなわれていたことは事実だ。「負傷者を後送せず」は野戦病院での重症、重傷兵の「処置」とも重なるし、「住民や婦女子を盾に進軍してきても戦いを挑め」は故郷を焼き討ちした護郷隊の作戦にも重なる。沖縄にこうしたむごたらしい戦いを強いたことをよく考えていかねばならない。

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海兵隊員が沖縄でひらいた「ガソリンスタンド」 Ⅴ DAYすなわち勝利の日に閉店するとある 45年4月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-40-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『伊江村史』下巻
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)

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日本兵の死体を横目に行軍する米兵 45年4月撮影:沖縄県公文書館【写真番号98-07-4】