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【沖縄戦:1945年8月4日】米軍が沖縄北部での掃討作戦の終了を宣言

沖縄北部の状況

 米軍はこの日、沖縄北部での掃討作戦の終了を宣言した。
 沖縄北部の山中には、宇土武彦大佐率いる国頭支隊の残党や遊撃隊(護郷隊)の残党、米軍の警戒網をかいくぐり南部戦線から北上してきた敗残兵などが多数おり、そうした日本兵が物資略奪のため米軍による住民収容所の襲撃を繰り返すなどしたため、米軍の掃討戦がつづけられていた。特に米軍は45年7月以降、沖縄北部の山狩りを本格化させていった。この日も、銀原収容地区(現在の金武町、キャンプ・ハンセン周辺)に銃剣と手榴弾で武装した二組の日本兵部隊があらわれ、食糧を探し回ったといわれる。特に銀原収容所には日本兵の襲撃が相次ぎ、8月7日には米軍による反撃がおこなわれるなどした。
 沖縄では米軍に保護された人々が収容所に入れられたが、戦闘の展開や飛行場建設、道路敷設、施設の設置など、米軍の都合で収容所は移動、閉鎖、新設が繰り返され、住民はその都度あちこちへ移動を余儀なくされた。言い換えれば、沖縄戦初期では米軍による基地建設もはっきりと定まっておらず、常に再編されていたのである。その後しばらくして米軍による本土侵攻のための基地建設計画が明確になっていくと、住民の中南部から北部への移動がすすめられた。また北部での住民の下山や日本兵の投降も相次ぎ、北部の人口は増加していった。
 ただし北部での人口増加にも波があり、人口が減少することもあった。それは本部半島へ避難していた住民を慶良間諸島へ移動させるなどの北部からの住民の再移動がおこなわれたことと、北部で栄養失調や病気などにより死亡者が相次いだこともあるといわれる。例えば現在の大宜味村にあった辺土名収容地区では、マラリアが爆発的に蔓延するとともに、食糧の配給が時折中断し、多くの人が命を落としたといわれる。
 戦場をさまよい米軍に保護され収容所に入ったものの、そこで待ち受けていたものは食糧不足や医療の不充分さによる死だったとは、あまりにやるせないものがある。
 なお沖縄北部の収容所での人々の暮らしについて、名護市の広報誌が特集している。大変よみやすくまとめらているので、ご参照いただきたい。

特集 忘りてぃやならん やんばるの沖縄戦 収容地区での暮らし(名護市広報誌「市民のひろば」第585号、2020年)

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号、2008年)

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やんばる山中で掃討戦を展開する米第27師団の一隊 45年8月2日:沖縄県公文書館【写真番号02-12-4】