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【沖縄戦:1945年8月20日】鹿山正率いる久米島の海軍部隊、島民の谷川ウタさんと夫の昇さんの家族7人を「スパイ」として皆殺しにする

谷川さん一家の虐殺と朝鮮出身者への差別

谷川さん一家の虐殺 
 18日に仲村渠明勇さんと妻子の3人を殺害した鹿山正率いる久米島の海軍鹿山隊はこの日の夜、島民の谷川ウタさん(ウタさんの母によると「ウタ」は幼名で、本当の名は「美津」というそうだ)とその夫の昇さん、そして乳幼児も含む谷川さん家族の7人を「スパイ」として皆殺しにした。
 久米島の警防団の警防日誌には、事件の翌日の日誌として次のように記されている。

 八月二十一日 晴
一、屋宜巡査ト私宅打合
一、昨夜谷川妻子共友軍ヨリ殺サルヽ

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 ウタさんは針仕事が得意であったため、縫物などをして家計を支えていたそうだ。また昇さんは韓国釜山の出身であり、沖縄北部から久米島に渡り、島で鋳掛屋やスクラップ商などを営んで生計をたてていたという。
 そうした夫婦の仕事の都合上、ウタさんは統制品であった糸を村の人たちに分けたり、昇さんは米軍上陸後、米軍駐屯地のゴミ捨て場から鉄くずなどの物資を回収することがあったりしたそうだが、それらを妬んだ一部の住民が鹿山隊に谷川さん一家は「米軍に通じている」「統制品を持っているのは怪しい」などと密告し、「スパイ」と見なされたといわれている。また三女が高熱を出し、昇さんが思い切って米軍に薬をもらいにいったところを見られ怪しまれたともいわれる。
 谷川さん一家の虐殺については諸説あるが、全体を総合すると、この日深夜、島民の姿に変装した約10人の鹿山隊の兵士が具志川村上江洲の谷川家を襲った。ウタさんが慌てて乳飲み子を背負い、息子である和夫さんの手を引いて逃げ出したところ兵士が刀で全員を惨殺、さらに家に隠れていた娘二人(長女の綾子さんと八重子さんか)も殺害した(綾子さんと八重子さんは自宅から連れ出され、山里集落西側の雑木林で絞殺されたともいわれる)。昇さんは長女(次男の次夫さんともいわれる)を連れて鳥島海岸(現在の兼城港ターミナル周辺)まで逃げたが、そこに兵士が訪れ昇さんと子を殺害したという。ウタさんと子の遺体は鹿山隊に命じられ村の警防団が埋葬したそうだが、昇さんと長女の遺体は鹿山隊が「こ奴らは埋める必要はない」としてそのあたりの溝に打ち捨て、そのまま遺棄されたといわれる。
 戦後、ウタさんの母がウタさんの埋葬地と思われるところを掘り起こしたところ、下アゴの骨と裁縫箱、懐中電灯などが見つかったという。ウタさんの母は裁縫箱と懐中電灯について何だか見覚えがあると証言しているので、およそこのあたりがウタさんの埋葬地で間違いないのだろうが、遺骨などはそれ以上は出てこなかったという。
 昇さんと長女の遺体は、鹿山隊の命令によりしばらく放置された後、島の人たちが埋葬したというが、丁寧に埋葬されたわけでもなく、大雨になると遺骨が露出したという。その後、護岸工事にあたりあらためて掘り起こされ、島の洞窟に安置されたという。

朝鮮出身者への差別 
 鹿山隊による谷川さん一家虐殺は、軍による住民「スパイ」視とともに、朝鮮半島出身の昇さんと、昇さんと結婚したウタさん、そしてその子たちに対する蔑視や偏見があったと思われる。実際、鹿山隊が谷川さん一家を虐殺するにあたり、兵士がもともとウタさんの連れ子だった子は昇さんの子ではないため殺害を躊躇したものの、「こ奴も大きくなったら何をするかわらかん、国を売るかもしれない」などといって凶行に及んだといわれる。
 それとともに谷川さん一家が丁寧に埋葬されたわけでもなく、戦後になると埋葬地も不明となり、仲村渠明勇さんのように語り継がれたわけでもないこと、また谷川さん一家についての鹿山隊への住民への密告も含め、住民のなかでも朝鮮出身者への蔑視や偏見があり、それが谷川さん一家虐殺の要因の一つになったことも考えていかねばならない。
 鹿山隊の住民殺しは久米島を恐怖のどん底に陥れた。鹿山隊がさらなる処刑計画を有しているとも噂され、住民たちは退役軍人により鹿山隊の討伐を計画しはじめるまでにいたったという。
 島の農業会の会長である吉浜智改さんの戦時日誌には、谷川さん一家殺害の翌日の記事として、次のように記されている。

 八月二十一日(旧七月十三日盆)
 旧七月盆祭りを営む。
 鹿山兵曹長の暴悪
 七月の初日、字北原の宮城一家及議員、区長等計九名を凶殺してから、八月十八の夜は仲村渠明勇妻子共三名を仲里村字比嘉にて惨殺し、引きつヅき二十日の夜は朝鮮人親子七名を字上江洲と鳥島にて惨殺した。
 鹿山兵曹長はそれにても尚ホやまず、次ぎは農業会長を初めアメリか軍と接触する者等をカタッパシから暗殺すると云ふ計謀ありとの内密通報する者もありしが、あらかじめ通信部隊へは当方から密偵を差しまわし鹿山の行動を監視付きにしてあッた。そして万一の場合があれば島の在郷軍人を召集し、米軍の援助を求め鹿山の山賊を討伐セねばならぬ状態にまで近づいていたのである。
 鹿山兵曹長、彼れは四国の生れとかにて性極めて凶暴で戦地にありながら部下を愛セず常に暴悪性を有していた生意気者で一般民衆からのきらわれ者であッた。
  [略]
[農業組合に食糧供出を求めて鹿山の部下の]青木氏は立派な態度で帰ッたが、性極めて暴悪な鹿山は自らは一婦女子を携へ山間ににげまわりながら部下には切り込を強要し数日帰らない一兵曹を自ら殺害する外、北原の住民宮城、比嘉の家族及議員区長、団長等九名を一時に殺害する等其凶暴は実に言語に絶するもので、更らに仲村渠明勇の妻子三名、鮮人家族七名の幼児等を殺害セる凶悪は、史上永遠に残る皇軍の汚名と言はねばならぬ。

※句読点は引用の際に適宜付した。

(『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録)

 なお戦後、週刊誌記者に「発見」された鹿山は、自身の凶行を振り返って「間違っていなかった」などと開き直った。鹿山を取材した週刊誌の記事は大反響をよび、鹿山はテレビのニュース番組に出演し、久米島の人々と中継で対話に応じた。そこで鹿山は久米島の住民に散々に非難され、謝罪めいた発言をするが、それを見た本土側のテレビ視聴者の反応は、「戦争で大変だったのは沖縄だけではない」「沖縄を甘やかすな」「鹿山さんがかわいそうじゃないか」といったようなものが多かったという。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録
・「沖縄戦新聞」第13号(琉球新報2005年8月15日)
・「サンデー毎日」1972年4月2日号
・「サンデー毎日」1972年4月23日号
内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】:久米島

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鹿山正 階級は海軍兵曹長だったが、戦時中に少尉に任じられている:TBS報道特集2013年12月7日放送