【沖縄戦:1945年3月28日】渡嘉敷島で強制集団死おきる─強制集団死軍命否定証言という「ある神話の背景」─
米軍の空襲、艦砲射撃つづく
米軍は、早朝より沖縄島へ空襲を開始し、南西諸島一帯へ空襲を拡大させた。さらに夕方には南九州の航空基地も攻撃した。艦砲射撃は、沖縄南部の湊川方面(現在の八重瀬町、南城市)に向けて行われ、午後から北飛行場や伊江島にも拡大した。
湊川正面には、十数隻の米軍の上陸用舟艇がリーフまで進出し、射撃と掃海を行うなどした。なお沖縄島周辺の米艦船の状況は、昨日27日と大差なかったが、陸軍第8飛行師団(台湾)の索敵機が那覇南方150キロメートル付近を北進中の空母4隻を含む100隻の大船団を発見した。
第32軍の動向
第32軍長参謀長は、米軍の湊川方面への上陸について疑念を抱き、八原高級参謀もこれに同意した。しかし、それでも1個師団程度が湊川方面へ上陸する可能性は否定できず、引き続き警戒をつづけた。
第24師団長(雨宮巽中将)はこの日夕方、以下の師団命令を下達した。
さらに第24師団長はこの日午後、北地区隊(小禄地区の歩兵第22連隊基幹部隊)を湊川方面の上陸に備え、東風平北方に転進する準備を命じるとともに、南部海岸に地雷を設置するなどした。また湊川方面に配備されていた第24師団の歩兵第89連隊第5中隊のこの日の陣中日誌には、同方面の緊迫する状況が次のように記されている。
第32軍は、第8飛行師団を隷下とする第10方面軍および南九州で沖縄方面航空作戦を担う陸軍第6航空軍に対し、航空特攻兵力を速やかに沖縄島へ投入するよう意見具申した。
既に日本軍の航空部隊は、ベテランパイロットを失っており、低練度のパイロットが南九州や台湾から沖縄へ向けて長距離の航空特攻をするのは非常に困難であった。こうしたことから第32軍は、沖縄島から近海の米艦船に向かっての「張り付け特攻」を望んだ。
八原高級参謀の手記より
特攻艇作戦
慶良間諸島の慶留間島には、海上挺進第2戦隊第1中隊(大下眞男中隊長)が配備されていたが、同中隊はこの日、4隻の特攻艇で出撃し、米艦船を攻撃した。結局、大下中隊長以下8名が乗船した2隻が沖縄島に転進、もう2隻が消息不明となり、米駆逐艦1隻を撃沈、大型輸送船2隻を大破炎上させる戦果をあげたと報じられた。軍司令官は中隊のこの行動に対し感状を授与した。
また第32軍牛島司令官は、沖縄島中部の北谷付近に配備されていた海上挺進第29戦隊に出撃を命じ、翌29日未明、同戦隊第1中隊中川康敏中隊長以下17名が出撃、16名が戦死した。残りの1名は泳いで沖縄島に辿りついた。
海軍特攻艇部隊である震洋隊も出撃が命令されている。金武湾に配備されていた第22震洋隊および第42震洋隊はこのころ、数度にわたり米艦船に向かって特攻艇で出撃している。しかし会敵することなく、その都度帰還していた。
米軍情報部による日本軍通信の傍受情報「マジック」はこの日、次のように震洋に関する日本軍の通信を傍受、配信している。
第22震洋隊の豊廣隊長は、特攻艇部隊でありながら「会敵しなければ帰還せよ」との命令に、海軍沖縄方面根拠地隊大田実司令官の慈悲を感じたなどと証言している。
天一号作戦に関する昭和天皇の「御言葉」
この日、航空特攻を主体とする沖縄方面特攻作戦である天一号作戦について、天皇陛下から「御言葉」を賜ったことが参謀総長から第32軍司令官に電報される。
昭和天皇の「御言葉」を賜り、第32軍牛島司令官は次のように訓示した。
第32軍の沖縄配備以降、昭和天皇は、侍従武官を沖縄に派遣するなど、時に主体的、積極的に戦局の把握に務めている。
渡嘉敷島で強制集団死おこる
26日に米軍が上陸した慶良間諸島の座間味島、阿嘉島では、この日は米軍の行動は活発ではなく、大きな動きはなかった。他方、昨日27日に米軍が上陸した渡嘉敷島では、島北部の複郭陣地に海上挺進第3戦隊(赤松戦隊長)が籠っていたが、米軍は10時ごろから複郭陣地へ集中砲火をあびせ、戦隊は部隊間の連絡が途絶するほどの猛攻をうけた。
米軍の上陸により島の住民も北部へ避難し始めたが、軍は住民へ陣地北方へ避難するよう指示したところ、米軍は島北部にも迂回し住民の避難地域へも攻撃を開始した。
緊張が高まるなか、「軍から自決命令が出た」という情報が住民に伝わり、そこに防衛隊員が加わり、手榴弾による強制集団死(いわゆる集団自決)が発生した。手榴弾で死にきれなかった人たちは、鎌やカミソリ、石、木の棒などを用い、夫が妻を、親が子を殺していった。
米軍上陸前の3月20日、部隊の軍曹が役場の職員や島の若者に手榴弾を配り、「いざという時にはこれで自決せよ」と指示していた。また、軍の炊事などを行っていた女子青年団の女性たちにも手榴弾が2個ずつ渡されており、女性たちは一つは攻撃用、もう一つは自決用と理解した。このように手榴弾は軍によって組織的に配られたのであり、これが強制集団死へとつながっていった。
渡嘉敷村 集団自決の真実 戦世の証言 沖縄戦:NHK戦争証言アーカイブス
強制集団死の軍命否定と「ある神話の背景」
慶良間諸島では座間味島で177人が、慶留間島で53人が、渡嘉敷島で330人が、屋嘉比島で2家族が強制集団死したと伝わっているが、大江健三郎『沖縄ノート』および家永三郎『太平洋戦争』には、座間味島と渡嘉敷島での強制集団死について、駐留していた海上挺進戦隊の戦隊長の命令によるものとの記述があり、これについて座間味島の梅澤戦隊長と渡嘉敷島の赤松戦隊長の弟が名誉棄損で裁判をおこしている。
この裁判において、座間味島のある住民が「梅澤戦隊長は住民の自決を諫めた」と証言したが、判決では虚偽の証言とされた。しかし、その住民はなぜ虚偽の証言をしたのだろうか。
座間味島に日本軍部隊が駐屯して以降、座間味島の住民は軍民一体の生活を送った。そればかりか長年にわたる皇民化教育も背景にあり、この住民の心情には、教育に基づく軍への憧憬や軍民同居による軍への親近感などが醸成されたと思われる。ここには沖縄戦や近代沖縄が置かれた複雑な状況が読み取れる。
また渡嘉敷島での強制集団死とこれに関する「軍命」の存在については、「ある神話の背景」という表現をもって援護法の適用のための虚構とする見方もあるが、それは史実から外れている指摘である。実際、渡嘉敷島の赤松戦隊長を擁護する内容の曽野綾子『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』が依拠した史料は、後世の加筆・改変が確認されており、史料としての信ぴょう性が疑われている。
むしろ「軍命は存在しない」「日本軍は自決を諫めた」という「ある神話の背景」は一体何なのか、つまり日本政府や軍が沖縄に何をし、沖縄の人々の精神にどのような影響を与えてきたのか、これを考える必要があるだろう。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『座間味村史』上巻
・NHK戦争証言アーカイブス「沖縄の震洋隊指揮官として」(豊廣稔さん)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説』(榕樹書林)
・服部あさこ「『集団自決』訴訟における軍命否定証言の背景」(『専修人間科学論集』社会学篇第7巻第2号)
・伊藤秀美『検証『ある神話の背景』』(紫峰出版)
トップ画像
渡嘉敷島と思われる島の海岸に向けてロケット弾を発射する米中型揚陸艦:沖縄県公文書館【写真番号111-10-3】 (siggraph2016_colorization を用いてカラー化)