【沖縄戦:1945年7月3日】尖閣諸島戦時遭難事件─石垣島から台湾へ航行中の疎開船が米軍機の攻撃を受け尖閣諸島沖で沈没
尖閣諸島戦時遭難事件
米軍機による銃撃
この日午後2時ごろ、石垣島住民約180人が乗船する第一千早丸と第五千早丸が尖閣諸島付近を台湾に向けて航行中、米軍機の機銃掃射をうけた。
45年に入り米軍の上陸が迫ると、台湾と八重山を結ぶ航路は危険になり、台湾からの物資が途絶えはじめた。そこで石垣島に駐屯する独立混成第45旅団(八重山旅団)は、沈没、座礁した船を引き上げたり、民間船を徴発するなどして、輸送路を確保しようとした。
そこで八重山旅団は、石垣島に駐屯する独立歩兵第299大隊の長谷川小太郎を隊長とする水軍隊を組織した。第一千早丸と第五千早丸はその水軍隊が民間から徴発した船であった。その他にも水軍隊は沈没船を引き上げ第三千早丸と命名したり、他の民間船を徴発するなどした。
4月25日には第一、第三、第五千早丸は石垣港を出港し、西表島経由で台湾に入港、物資を積んで5月22日には石垣港に帰港している。その後、第三千早丸が空襲で沈没したが、6月30日に第一千早丸と第五千早丸は住民を乗せて石垣港を出港し、7月1日未明に西表島に寄港、2日夜西表島を出港し尖閣諸島経由で台湾に向けて航行していた。そして、この日、もう間もなく台湾の基隆に入港するところで、米軍機の機銃掃射をうけ、両船のうち第五千早丸は火災を起こして沈没、第一千早丸もエンジンが故障するなどした。
米軍機の銃撃が直撃し、多数の死者が出た。また火災により焼死する者や、海に飛び込み溺死する者も多数いた。命は落とさなかった者も多くが漂流し、板切れに多数の人がしがみついているような状況であった。遭難者の証言によると米軍機は機銃掃射だけでなく、爆弾を投下したりロケット弾を発射するなどもし、第五千早丸はロケット弾が直撃したことによって炎上、沈没したともいわれている。
尖閣諸島への避難
第一千早丸から伝馬船が出され、漂流者を救助したものの、母親は助かったが子どもが波にさらわれた家族などもいて、悲惨な状態であったそうだ。第一千早丸は機関故障のため航行不能に陥ったが、乗員が帆を張るなどして急場をしのぎ、そのあいだに船員がエンジンを修理し、航行再開した。
船に尖閣諸島の魚釣島のカツオ節工場で働いていた者が乗船していたため、とりあえず尖閣諸島方面に向かった。同諸島に近づくと、北小島で数人の兵隊が手を振っていたため、魚釣島に行くように信号を送ったという。そして第一千早丸は魚釣島に到着し、一時休憩のつもりで船を降りたが、そこでエンジンがかからなくなり、魚釣島での遭難生活がはじまることになった。
遭難生活と救助
遭難生活では各自の食糧を出し合い、共同で炊事をしたが、食糧の残りが少なくなってくると遭難者同士のいさかいが起き、各自で炊事をすることになった。また銃撃により怪我をしている者もいて、消毒できるアルコールこそあったが医薬品などはないため、ウジがわいたという。そして残存食糧もなくなると野草などを食べることになり、栄養状態が極度に悪化し、老人や子どもをはじめとして多くの遭難者が衰弱死していったという。しかし土が固いため遺体を埋葬することもできず、遺体の上にクバの葉と石を載せて安置したそうだ。
7月9日ごろ、奇跡的にエンジンのかかった第五千早丸によって一部の者が石垣島に向かったが、途中でエンジンがストップし、乗組員たちは船を捨てて伝馬船で魚釣島に戻った。
このままでは全員衰弱して死ぬのを待つだけだと考えた遭難者たちは、島に打ち上げられた難破船などの板を利用するなどして船をつくった。また疎開者たちが反物を提供し、帆をつくったという。そこに水軍隊の隊員などが決死隊として乗り込み、8月12日に石垣島に向けて出港、途中三度も米軍機にすれ違ったが、14日には石垣島の川平湾に到着し、八重山旅団に救助を要請した。
15日には台湾から飛び立った日本軍機が魚釣島に乾パンなどの食糧を投下し、16日には救助船三隻が到着し遭難者が救助された。約50日間にもおよぶ遭難であった。しかし救助船の到着が突然であったため、他の島へ食糧を探しに出ていた数名の遭難者が置き去りになり、後日救助されたという話もある。またポツダム宣言受託のころであったから幸いにも救助船なども攻撃されなかったが、沖縄戦の戦況が活発だったころであれば、救助もすぐにはなされなかったかもしれない。
遭難者の証言
内閣府沖縄戦関係資料閲覧室が沖縄県史に収録されている尖閣諸島戦時遭難事件の遭難者の証言を公開しているので、以下リンクを掲示する。PDFの6ページ目以降が同事件の証言となっているので、ぜひ読んでいただきたい。
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第一千早丸と第五千早丸について、石垣市議会の要請決議や八重山の沖縄戦史に詳しい大田静男氏の著作では、第一千早丸が沈没、第五千早丸が機関故障したことになっている。遭難者の証言にもバラつきがあり、どちらが沈没、どちらが機関故障かと確たることはいえない。差し当たり「沖縄戦新聞」の記述に従い、第五千早丸が沈没、第一千早丸が機関故障とした。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第12号(琉球新報2005年7月3日)
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
・内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】八重山編:八重山(3)
・「尖閣戦時遭難事件から70年 『川平の神様が引き寄せてくれた』」(八重山毎日新聞2015年8月15日)
・台湾疎開石垣町民遭難事件「尖閣列島戦時遭難事件」に係る遭難者の遺骨収集等の実現を求める要請決議
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石垣島に建立されている「尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑」:筆者撮影