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【沖縄戦:1944年7月4日】読谷村と「慰安所」─沖縄各地で慰安所を建設した要塞建築勤務第6中隊が読谷村に派遣される
要塞建築勤務第6中隊と「慰安所」
この日、北飛行場の建設がすすむ読谷村に要塞建築勤務第6中隊の金丸伍長率いる金丸班が派遣された。金丸班は24日まで北飛行場内の各種土木、建築作業に従事したのち、美里村へ移動した(これについては読谷村史を典拠とする。ただし要塞建築勤務第6中隊のこの日の陣中日誌を読む限り、金丸班は読谷の北飛行場ではなく嘉手納の中飛行場で建設作業にあたっており、あくまでも金丸班の一部が北飛行場の部隊の指揮下となり、金丸班の本隊は16日以降に北飛行場で作業したと考えられるが、ひとまず読谷村史に従う)。
そもそも要塞建築勤務第6中隊は、同じく飛行場建設がすすめられていた伊江島や嘉手納、浦添などで「慰安所」(以下、煩を避けるためにカッコをはずす)の建設作業に関わっていた部隊である。この日派遣された金丸班が読谷村で慰安所の建設作業に従事したという史料は確認できないが、同年9月27日より同中隊重信班が北飛行場に派遣され、第56飛行場大隊の指揮下で飛行場建設をおこなうとともに、12月末には三ヵ所の慰安所の改装作業などに従事したこと、また読谷村には現在分かっているだけで10ないし11ヵ所の慰安所があり(92年の調査では10ヵ所とされ、その後の読谷村の調査で11ヵ所とされた。11ヵ所が実数に近いと思われる)、それら慰安所の少なくとも一部は十・十空襲の前から読谷村にあったことから、同中隊がこれまで伊江島はじめ沖縄各地で慰安所建設に関わっていたことも含め、この日以降金丸班が読谷村で慰安所に関する何らかの作業に関わっていたと推測することもできる。
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読谷村の「慰安所」
繰り返しとなるが、読谷村の慰安所は、現在分かっているだけで10ないし11ヵ所あった。そのうち喜名の集落には6ヵ所あった。喜名の慰安所は民家を接収して慰安所としたもの、兵舎を慰安所としたもの、「オキク」と呼ばれる赤瓦の大きな建物を慰安所としたものからなっていた。
「オキク」には一般兵が入ることは許されず、そこで慰安婦とされた女性も日本人であったことから、将校用の宴会場を兼ねた慰安所であったと思われる。また喜名の兵舎を慰安所としたものは、もともとは住民の娯楽の場である闘牛場に兵舎を建て、その兵舎の一部を慰安所としたのであり、軍が住民の生活や文化をいかに軽視していたか理解できる。その他、読谷村の伊良皆や高志保などにも慰安所があり、朝鮮半島出身の女性や辻のジュリたちが「慰安婦」(以下煩を避けてカッコをはずす)とされたといわれる。
読谷村での証言によると、休日になると慰安所には昼から兵隊が列をつくって並び、村の人は目を背けるほどであったといわれる。一方で慰安婦たちの待遇はけしてよくなく、過労と栄養失調で重症の慰安婦がいたほど過酷であったそうだ。また慰安婦たちは定期的に病院に連れていかれ性病の検査をうけさせられるが、それが恥ずかしいからとして慰安婦が断ると、憲兵が恐ろしい顔をして慰安婦を殴り、強制的に検査を受けさせたという。しかし戦時下にあって医薬品も不足しており、慰安婦たちが十分な治療をうけられたわけでもなかったそうだ。
性病の検査をうける読谷村の慰安婦たちについて、当時、読谷、北谷、越来一帯で往診していた大山医院の看護婦だったある住民の次のような証言が残っている。
大山医院には、朝鮮人慰安婦の人たちが定期的に性病検診のため連れてこられていました。一か月に一回から二週間に一回の割合で、一〇人から一五人ぐらいの女性たちが、憲兵に強制的に引っ立てられて来ました。その扱われ方といったら、まるで動物を追い立てるみたいなやり方でした。
朝鮮人慰安婦はみな美しい娘たちで、色白ですらりとした姿がとても印象的でした。どうやら年のころも十六、七歳と、私と同い年ぐらいに見えました。
今日でこそ、彼女たちは強制的に慰安婦にさせられたんだとわかりますが、当時は全く知りませんでした。憲兵は彼女たちのことを「自分で望んで朝鮮から商売に来ている」と私たちに説明しました。私はそれを聞いて「どうしてこんなに美しいお嬢さんたちが、沖縄のような遠いところで、こんな商売をしなければならないんだろうか」と不思議でたまりませんでした。また、彼女たちの多くは暗い表情でうな垂れていたり、またある者はあからさまな反抗を示していました。それを見ると「自分で望んで来てる筈なのにどうしてなのだろうか」と何かしら腑に落ちない気がしていましたが、それほどには気にとめていないんですね。あの頃は戦時中で、人のことをゆっくり考えている余裕はなかったんです。
慰安婦の一人に、とてもイジグヮー(気)が強い人がいました。性病の検診ですから若い娘には恥ずかしくて嫌だったんでしょう。診察台に絶対にのらないと、病院の中を逃げまわったりしていつも反抗していました。すると憲兵が追いかけて、怖い顔をして、冷たく厳しい声で「なんで、お前、どうしたんだ。行け、やれ」そう言って慰安婦を殴るんですよ。私はびっくりして「あんなにまでして。嫌がっているのに、検診もさせなければいいのに」と思いました。かわいそうな彼女たちに話かけたいんだけど、言葉も分からないので、ただ彼女たちにつけられている日本名を呼んで、「こっちに寝なさい、服を脱いでここに来て」など、看護婦としての業務に関わることをジェスチャーを交えて伝えるのが精いっぱいでした。また彼女たちの方でも、私たち看護婦に対してすら反発心を持っていたように思います。当然ですね、日本人にあんな目に遭わされていたんですから。それでも、反抗的な態度をとった者が叩きのめされてからは、残りの人はみな「はい」と言って私たちの指示にも従いました。
こうした屈辱的な検診の結果、朝鮮人慰安婦の中に梅毒や淋病などの性病に感染している人が四、五人いることが判明しました。しかし性病だと分かっても、大山医院には薬が無かったので、治療はできませんでした。性病の治療法としては「六〇六号」という薬を静脈から注入するなどの方法がありましたが、この薬は高価で貴重な薬だったので、まったく使われませんでした。医院では住民に処方する薬も欠乏している状況だったので、どうしようもなかったのです。検診の結果は院長先生から憲兵に直接伝えられました。私はそばで聞いていたのですが、先生は「ここに治療薬はないから、軍のほうで処方してくれ」とおっしゃっていました。ですが軍で薬を用意していたかどうかはわかりません。とにかく性病はどんどん人に感染するんですけど、彼女たちは性病との診断を受けて、その後はどうなったのでしょうかよくわかりません。
将校の相手をするジュリ(遊女)たちは、同じ慰安婦でも朝鮮の人たちとは違って大山医院での検診はありませんでした。
慰安婦の女性たちを見下すような物言いではなく、外見的な部分ではむしろ好印象を持っているような証言ではあるが、「気にとめていない」「人のことをゆっくり考えている余裕はなかった」との言葉に、時代的に仕方なかったとはいえ、慰安婦の境遇に対する住民たちの無関心と冷酷さを感じる。
また、ある住民は、空襲が激しくなり防空壕に避難すると、朝鮮半島出身の慰安婦たちも赤い布団をかぶって逃げ込んできたが、一部の住民は彼女たちが防空壕に入ってきたことを不快に感じ、爆撃音が激しくなると「赤い布団が米軍の目についたのだ」などと彼女たちを非難したと証言している。
慰安婦とされた女性に食糧を分け与えるなど、親切に接した住民もいたが、一方で何の罪もない慰安婦たちに対し、一部の住民が冷酷であったことも忘れてはならない。
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参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『読谷村史』戦時記録 上
・『読谷村史』戦時記録 下
・要塞建築勤務第6中隊陣中日誌(防衛省防衛研究所 沖縄台湾 沖縄198):JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110203000
・古賀徳子「沖縄戦における日本軍『慰安婦』制度の展開」2(『季刊戦争責任研究』第61号、2008年秋季号)
・ホンユンシン『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』(インパクト出版会)
トップ画像
要塞建築勤務第6中隊の陣中日誌に見える「慰安所」(軍人倶楽部)の設計図:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦