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【沖縄戦:1945年6月1日】津嘉山陣地、猛攻をうける 八重山守備隊の退去命令と猖獗をきわめた戦争マラリア

1日の戦況

 國場川北方の首里の高地帯はほぼ米軍に制圧され、津嘉山地区は北方および東方から米軍の攻撃をうけた。識名、国場付近では海軍丸山大隊が奮闘し米軍と対峙していた。
 津嘉山地区に収容陣地を占領中の歩兵第32連隊や歩兵第64旅団(独立歩兵第15、同第22大隊、特設第3連隊)は善戦し、米軍の進出を阻止した。
 津嘉山南東の現南風原町神里付近では、戦車第27連連隊および独立歩兵第12大隊が、現南城市大里高平では独立歩兵第11大隊が奮戦し米軍の南下を防いだ。

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1日の戦況図 赤枠が関係地名、緑線が関係部隊 津嘉山陣地が北方および東方から圧力をうけているのがわかる:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 大本営陸軍部戦況手簿はこの日の戦況を次のように記述している。

一 第三十二軍トノ通信連絡恢復ス
二 一八〇〇敵トノ接触線 佐敷村ー新里ー大里ー仲間ー宮平南ー軽鉄[軽便鉄道線のことー引用者註]ー真玉橋ー那覇

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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「セメトリーリッジ」(場所不明)を越える海兵隊員 墓石の後ろで敵の狙撃兵によって足止めされているところ 45年6月1日:沖縄県公文書館【写真番号72-30-2】

参謀次長の上奏と第10方面軍の激励電

 この日、河辺参謀次長は留守中の梅津参謀総長にかわり昭和天皇に戦況を上奏した。河辺次長のこの日の日記には次のようにある。

 沖縄軍遂ニ最後ノ守線ニ後退ノ処置ヲ取レルノ報告ヲ送リ来レリ、本件総長不在ノ故ヲ以テ書類上奏ニヨルベキニ在ラズト信ジ、予代リテ拝謁謹奏ス、此ノ世ニ生ヲ享ケテ初メテ真ニ咫尺ノ間ニ上奏ノ栄ヲ得タリト雖、晴レヤカナル龍顔ヲ拝シ得ザル此ノ戦況ハ只管恐懼ノ外ナシ

 昭和天皇はすでにこのころには終戦講和の道を模索していたようだが、もともとは沖縄で一定の戦果をあげてから終戦講和に臨む立場にあった。沖縄戦の戦局が悪化し第32軍が後退した戦況を告げる上奏に晴れやかならざるものがあったのはそのためだろうか。
 一方、第32軍の上級軍である第10方面軍司令官安藤大将は、第32軍牛島司令官に次のとおり激励電報を送った。このころ第32軍司令部は、通信施設の移動のため通信状況が悪く、大本営との連絡もこの日ようやく回復したばかりであった。なお「……」部分は不明箇所である。

 第三十二軍司令官宛(一日二一〇〇発電)
 驕敵進攻以来既ニ二ヶ月此ノ間勇戦……ナル敵ヲ攻撃シ航空ノ戦果ト相俟ツテ未曾有ノ大出血ヲ強要シ帝国全般作戦ニ寄与セル所甚大ナルモノアリ
 ……此ノ時ニ当リ帝国陸海航空ノ主力ヲ挙ケテ義号及……ヲ決行セラル コレ実ニ沖縄作戦ノ帰趨ヲ決スヘキモノニシテ只管偉大ナル戦果ヲ祈念シテ止マサルモノナリ
 今ヤ貴軍将兵ハ只々精神力ニ依リテノミ敢闘セラルル状況ナルモ愈々挙軍一体死力ヲ尽シ以テ皇軍……ノ精髄ヲ発揮セラレンコトヲ切望ス 本電受領セハ辺電アリ度
  第十方面軍司令官

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 沖縄戦の戦局悪化は、宮中が終戦講和の決意を固める一因となったが、陸軍中央はあくまで戦争継続、本土決戦遂行を企図しており、沖縄戦はまさしく本土決戦のための捨て石作戦として、「未曾有ノ大出血ヲ強要シ帝国全般作戦ニ寄与セル所甚大ナルモノアリ」と評すべきものであったのだろう。

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拡声器を使って、かつての仲間に投降を呼び掛ける日本兵捕虜 45年6月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号99-11-3】

八重山の戦争マラリア

 八重山諸島の防衛を担っていた独立混成第45旅団(旅団長:宮嵜武之少将、旅団本部:石垣島)はこの日、米軍の上陸のおそれがあるとして、官公庁は5日、住民は10日までに退去するよう軍命を発した。旅団は10日には最上級の戦備レベルである甲号戦備を下令するなど、緊迫した情勢となっていた。
 石垣島の人々の退去先は白水など島北部とされた。島北部では3月ごろより避難小屋などの建設作業がすすめられていたが、これらの地域はマラリアの有病地であった。平時であれば栄養状態もよく、人々も体力的にマラリアに対抗できた。また万一、マラリアに罹患したとしても、キニーネという特効薬が存在した。しかし戦時では栄養状態も悪く、さらにキニーネを軍が独占したため、マラリアが蔓延し猖獗をきわめたといわれる。
 マラリアに罹患すると高熱を発しながらも体には悪寒が走り、寒気と震えにおそわれる。嘔吐や下痢なども起き、最終的には脳症や臓器の障害を併発して死亡する。体内での出血もあり、外見としては体が青く膨れるということもあった。
 石垣島北部の避難小屋では、マラリアに罹患した家族が苦しみながら横臥していたり、親がマラリアで亡くなり子どもだけが生き延びているようなこともあった。また遺体の埋葬や葬送も難しくなり、山奥に穴を掘って遺体を埋めることができればまだよい方で、避難小屋で遺体と一緒に寝ている家族もいたそうだ。

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八重山諸島の戦争マラリアの状況:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦より

 そもそも軍は八重山への駐屯にあたり医師にマラリアの分布に関する調査を委託するなど、マラリアの研究をおこなっていた。医師による調査の報告書には、石垣島のマラリアの有病地と無病地を記す色付きの地図などが記されており、軍は明確に石垣島におけるマラリアの有病地と無病地について把握していた。
 また波照間島や黒島、鳩間島などマラリア無病地の離島の住民もマラリア有病地の西表島に退去させられたが、調査の報告書には西表島もマラリア有病地に分布されており、軍は西表島がマラリア有病地であることを把握していた。旅団参謀長は「旅団長は住民の退去とマラリア問題には頭を痛めていた」と回顧するが、これも住民の退去先がマラリア有病地であることを知っていたからこそ頭を痛めていたといえる。
 それではなぜ軍はマラリア有病地へ住民を退去させたのだろうか。その理由の一つとしては、強制的に退去させて家畜などを徴発し、軍の食糧を確保するためといわれる。もう一つの理由としては、軍は住民が「スパイ」となることを恐れており、米軍の手に住民が渡らないようマラリア有病地であっても軍の陣地内や山奥に避難させたといわれている。
 軍は陣地構築作業に住民を動員しており、住民は軍事情報をある程度把握していたが、軍には沖縄住民への蔑視や「スパイ」視が深く根差しており、住民の動向を警戒し、例えマラリアに罹患する可能性があっても、軍の機密を守るため住民を退去させたと考えられる。

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那覇市街を前進する部隊 45年6月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-34-2】

座間味島で「B円」発行

 米軍はこの日、座間味島で「B型軍票円」(いわゆるB円)を発行した。米軍の占領により島は無通貨状態となり、生活も経済も米軍の配給に頼る状況であったが、今後の沖縄全体での軍政の展開にあたり、住民がB円を受け取るか、日本円との交換比率はどうか、賃金や物価の変動はどうか、などの情報を得るための米軍の試験的措置であったといわれる。

新聞報道より

 大阪朝日新聞はこの日、沖縄の戦況を次のように報じている。

沖縄の敵を大挙強襲二十一隻を轟沈破
 二十九、三十日も引続き出撃
【南西諸島基地特電三十日発】我が航空部隊は二十九日深更から三十日未明にかけて沖縄本島周辺の敵艦船に対し猛攻を反復、敵に甚大な損害を与へた、なほ二十九日列島線に対する来襲機は十機内外であった
【前線基地特電三十日発】中城湾に蝟集した敵艦船群に対しわが振武、神風両特攻隊および陸海軍雷撃部隊は二十八日猛攻撃を加へたが、直掩戦闘隊ならびに地上部隊の確認した同日の戦果は轟撃沈六隻、大破十三隻、中破二隻に達し、その他多数の火柱が天に冲するのが望見された
 地上戦闘も凄絶化
  戦勢楽観を許さず

沖縄本島南部における陸上戦闘はわが主陣地をめぐり彼我総兵力の投入により沖縄作戦開始以来の激戦を展開しつつあり、ことに去る二十四日わが義烈空挺部隊の強行着陸以来南部地区のわが守備部隊の士気は一段と昂まり、今や全線に亙り激戦死闘を繰返しつつある、すでに激闘二ヶ月を経過し、敵は人員の損害五万余を出ししかも戦線は那覇、首里北方の線において敵の侵出は目下頓挫を来している、しかしながらわが方の損害もまた甚大なるものがあり、戦局の将来は決して楽観を許さぬものがある
  [略]

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

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日本軍特攻隊の250kg爆弾で被爆した米艦船フォーレスト号 45年6月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号01-46-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』<10>
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)

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マラリアに罹患した患者(与那国島) 発熱のため頭に水をかけている:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02006160】【ファイル番号009-04】