見出し画像

【沖縄戦:1945年3月27日】米軍、渡嘉敷島に上陸 座間味島・阿嘉島の日本軍、女性や小学生までも動員し米軍へ「斬込み」を敢行

渡嘉敷島に米軍が上陸開始

 慶良間諸島の渡嘉敷島には、海上挺進第3戦隊(赤松嘉次戦隊長)が配備されていたが、この日朝9時ごろ、猛烈な砲爆撃の支援のもと渡嘉志久海岸および阿波連海岸に米軍が上陸を開始した。
 同戦隊第3中隊皆本義博中隊長は、配下の小隊を指揮して渡嘉志久海岸に上陸した米軍に発砲し前進を阻んだが、ただちに反撃され撤退した。戦隊の主力は、島の北部の複郭陣地に撤退し籠った。
 もっとも、「複郭陣地」といっても名ばかりで、事前に陣地が構築されていたわけでもなく、その場で大慌てで蛸壺陣地を構築したようなものであった。

画像2
渡嘉敷島における戦闘概要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

座間味島、阿嘉島の戦闘と「斬込み」

 座間味島には海上挺進第1戦隊が配備されていたが、同戦隊梅澤戦隊長は、27日零時を期して総員で米軍に対し「斬込み」といわれる敵陣強襲を実施する計画だった。しかし、この日の月明かりの状況に鑑み、総員ではなく第1中隊・第2中隊のみに斬込みを命じた。これにより伊藤達也第1中隊長ならびに安部直勝第2中隊長以下各中隊は、ほぼ全滅した。米側の戦史によると、米軍は日本兵を100人以上殺害し、米軍の被害は死者7名負傷者12名であったと記されている。なお、この斬込みには、防衛隊の他、青年女子も加わった。
 26日夜から27日未明にかけての斬込みについて、米軍は次のようにリポートしている。

座間味では、第三〇五連隊第一上陸大隊の先遣隊は、午後はなんらの応戦もうけずに高地を占領することができた。しかし、真夜中から翌朝未明にかけて、日本軍は銃、拳銃、軍刀をもって海岸近くの米軍陣地に斬り込んできた。日本軍の攻撃主力はC中隊を襲い、C中隊もまた自動機関銃や迫撃砲で九回にわたって応戦した。その日の夜襲、高地での一連の簡単な斥候戦で、四十八名の日本軍を倒した。日本軍は洞窟や塹壕から小さい火器で戦ったが効果のある防衛戦ではなかった。二十六日の午後五時までに、阿嘉島の三分の二を占領し、三百の日本軍と四百の民間人がまだ島に逃げかくれしていた。
 座間味島では、第三〇五連隊第一上陸大隊の前進隊が、午後になってから日本軍と対戦したが、その後は、夜襲の連続で、一梃の機関銃を数名が交替して撃つ、という激戦もくりかえし、時にはまたすさまじい白兵戦ともなったが、結局、日本軍は百名以上が戦死し、米軍もまた戦死七、負傷十二の犠牲をだした。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 阿嘉島には海上挺進第2戦隊が配備されていたが、同戦隊野田戦隊長は、26日夜より総員斬込みを計画し、27日未明、斬込みを敢行した。この斬込みには、小学校6年生以上の男子を含む集落の義勇隊も参加した。
 27日の阿嘉島は、終日航空作戦に支援された米軍の攻撃をうけ、米軍は一時野田山頂まで進出したが、戦隊は反撃し撃退した。野田戦隊長は、26日夜から27日未明の総員斬込みは損害が多く成果が少なかったので、この日夜は斬込隊と特攻艇攻撃隊を選抜し、派遣した。しかし、どちらも大きな戦果はあげられなかった。

画像4
渡嘉敷島の内陸部に進攻する第77陸軍師団 1945年3月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号108-15-2】

第32軍の動向

 沖縄周辺の米艦船は、約100隻に増加し、艦砲射撃は北、中飛行場および南部湊川方面へ集中し始めた。この日の艦砲射撃は、残波岬から平安山地区に約600発、小禄から喜屋武地区に約25発、摩文仁から知念地区に約350発であった。また久米島や大東島も艦砲射撃をうけた。久米島の警防団の警防日誌は次のように記されている。

 三月廿七日 曇り
一、午前真謝宇根謝根堂奥島尻方面爆撃被害相当有 人畜ノ被害ナシ
  一日中飛機[ママ]旋回有リ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 米艦載機の来襲は、沖縄島で約500機、奄美大島には約300機もの数にのぼった。また北・中飛行場西方海域では、掃海(機雷除去)作業が行われるとともに、湊川方面では、上陸用舟艇14隻がリーフぎりぎりまで接近して引き返すなど上陸に向けた陽動・牽制作戦が行われた。湊川周辺に配備されていた独立混成第15連隊の連帯本部「陣中日誌」には、次のように記されている。

 三月二十七日 晴
一、上陸ノ企図近ク艦七八千ニ接近援護射撃ニ依リ舟艇リーフ線ノ破壊作業ヲナス
  [略]

(同上)

 第32軍司令部は、米軍主力が沖縄南半部西海岸に上陸、一部が湊川方面に上陸するものと確信した。主力が上陸しても主陣地に到達するまでには10日以上を要するとの推測から、軍はその間に湊川方面に上陸した米軍の一部部隊を攻撃するため、軍砲兵隊を南部に配備した。
 軍はこの日、作戦指導腹案として関係方面に次のように電報した。

  第三十二軍作戦指導腹案
 敵ハ三月二十九日以降一部ヲ以テ湊川方面、主力ヲ以テ本島南半部西海岸正面ニ上陸ヲ企図スル算大ナリ
 軍ハ先ツ湊川正面ニ上陸スル敵ヲ橋頭堡ニ撃滅スル企図ノ下ニ第二十四師団、独立混成第四十四旅団(第六十二師団ノ一部増加)及ヒ軍砲兵隊主力ヲ以テ該正面ニ攻撃準備ヲ完了爾他ハ暫ク持久ス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 八原高級参謀は戦後、この日の状況について次のように回想している。

 敵は、慶良間群島を奪取するや、有力な艦隊をもって慶良間海峡に進入、さらに主力と推定される大艦隊をもって北上し、嘉手納沖に集中するに至った。かくて三月二十七日ごろには、沖縄島は完全に敵の大艦隊に包囲され、至る所、艦砲射撃にさらされるようになった。敵艦の数は日により多少の増減はあるが、戦艦、巡洋艦それぞれ十余隻。中型以下の軍艦七、八十隻、哨戒艇や上陸用舟艇は無数であった。
  [略]
 海を圧し、空を掩い、天も地も海も震撼せしめる古今未曽有の大攻勢に対し、これはいかに、わが全軍は一兵、一馬に至るまで、地下に潜み、一発一弾も応射せず、薄気味悪く寂然として静まり返っている。厳たる軍の作戦方針に従い、確信に満ちた反撃力を深く蔵し、戦機の熟するのを、全軍十万の将兵は、息を殺して待っているのだ。
 歴史的激闘は、沖縄島に動静至妙な美を現出しつつ、壮厳に幕を開いてゆく。
  [略]
 敵の沖縄本島上陸の企図、明白となった今日、我々の最も知らんと欲するのは、いずれの地点に上陸するかにある。
 慶良間群島の攻略後、敵艦隊の重点は漸次嘉手納沖に移動しつつある。二十七日軍参謀長は、この状況を観て私に、「どうも敵の上陸点は、嘉手納沖のようだぞ」と申される。私もそうと判断せざるを得ない状況となってきた。
 他面、南部港川沖における敵艦隊の行動も活発で軽視を許さない。
 三月二十七日夕における敵情判断は次の通りであった。
  判 決
「敵は主力をもって北、中飛行場沿岸に上陸するとともに、一部をもって、港川正面に上陸するか、もしくは陽動し、主力の上陸作戦を容易ならしむるらん」
 アメリカ艦隊の砲撃は、第一日一千発に過ぎなかったが、日を経るに従い、一日万を数えるに至った。しかし、その射撃は、依然漫然たる地域射撃で、わが軍の損害はほとんど皆無である。艦砲射撃の激化につれ、敵は、十数ないし数十の上陸用舟艇をもって、港川、糸満、天久、嘉手納等の沿岸に欺上陸を反復繰り返し始めた。時には「米軍上陸を開始せり」との報告が第一線からくることさえある。さらに大胆不敵にも、その哨戒艇は、悠々わが水際陣地数十メートルまで近接し、機銃を乱射し、挑戦してくる。後には日本軍は応戦しないと安心したか、甲板上を闊歩する奴さえ出るありさまだ。
 アメリカ軍が、このような挙に出るのは、おそらくわが注意を八方に牽制し、軍の指揮を錯乱するとともに、わが陣地配備を偵知せんとするためであろう。時には、わが方も癪に障るから、目にものを見せてやりたい衝動を感ずるが、既定方針に従い、隠忍自重、全線依然沈黙を持している。過去の太平洋戦で、わが軍はほとんど例外なく、この手に掛かり失敗してきた。我々は、決してその手に乗らないのだ。台湾軍から「沖縄の沿岸守備隊は極めて消極的だ」とアメリカ軍が放送しているぞと通報があった。日本軍中にも、わが作戦態度に焦燥を感ずる者が多かろう。現に軍幕僚中にさえ、一矢報いずんばあるべからずと、いきり立つものがある始末だ。そこで戦車第二十七連隊所属の自走砲兵中隊を主陣地帯の前方地域に自由に行動し、夜間不用意に近接して来る敵艦を砲撃する処置をとった。これならば軍全般の企図を察知される恐れはないと考えたからである。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)
画像5
渡嘉敷島上陸をめざす水陸両用戦車 1945年3月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号108-15-1】

海軍の動向と航空特攻

 海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官は、「敵ノ上陸可能二十八日ト判断セラルニ付本日中ニ戦備ヲ完成シ警戒ヲ厳ニセヨ」と電令した。また本部半島の運天港に所在した第27魚雷艇隊(指揮官:白石信次大尉)は、残波岬北方洋上で米艦艇軍を攻撃した。戦果は、巡洋艦2隻沈没、駆逐艦1隻撃破と報じられた。しかし第27魚雷艇隊の魚雷艇や基地は、30日31日と米軍機の大空襲をうけ壊滅状態となる。その後、白石隊は本部半島で敗残兵となり、山賊化し住民迫害を繰り返す。白石隊の暴虐については、またあらためて触れることになる。
 海軍第5航空艦隊宇垣司令長官のこの日の日記には、次のように記されている。

 三月二十七日 火曜日 〔曇後雨〕
 果たせるかな雨となり、昨夜は時機に投じたりと考えるも銀河、彗星等の攻撃において昨日昼間の索敵不十分のため夜間索敵後手となり目標の選択適当ならず、巡洋艦及び戦艦一(八〇番命中確認)のほか大なる戦果を発揮し得ざりしを遺憾とす。(損耗一七機)
 一方陸軍第八飛行師団の特攻一〇機は石垣島より沖縄に転出し慶良間島の敵に攻撃を加え全部命中を確認せりと言う。
  [略]

(宇垣纒『戦藻録』下、PHP研究所)

 宇垣長官の日記にある石垣島からの特攻10機とは、あるいは先日の伊舎堂大尉らの航空特攻を指しているのかもしれない。また、この日、中飛行場から出撃した第8飛行師団の航空部隊(八原高級参謀の回想に従うと昨日中飛行場から出撃した航空部隊の残部)が出撃し航空特攻を敢行、大型艦5撃沈、大型艦5撃破と戦果が伝えられた。
 一方、本土では、この日昼間、沖縄での米軍の作戦に呼応するようにマリアナのB-29約150機が九州に来襲した。この日夜にも約60機が来襲し北九州を襲った。

画像3
戦艦ネバダを攻撃した日本の特攻機パイロットの遺体 1945年3月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号100-38-3】

イギリス軍の沖縄攻略作戦

 あまり知られていないことだが、沖縄戦にはイギリス軍も参戦している。英国太平洋艦隊は先島諸島方面に到着した26日、艦載機で宮古・八重山を空襲しているが、軍はこの日、英国太平洋艦隊を発見した。
 英軍の参戦は、1944年9月のチャーチルとルーズベルトの会談で決定されていた。チャーチルは、アジアの植民地を取り戻すため、対日戦で一定の役割を果たし、今後の発言権を確保しようとしたものと思われる。
 沖縄戦に参戦した英国太平洋艦隊は、旗艦「キングジョージ5世」以下空母「インドミタブル」や巡洋艦・駆逐艦・補給艦など計22隻、ならびにアベンジャーやシーファイヤなど200機以上の艦載機からなる。作戦上は第57任務部隊と呼称され、米軍の指揮のもとで先島諸島の空襲などを任務とした。また、「アイスバーグ・ウーロン」作戦といわれる、台湾への空襲も行っている。
 ただし、英国太平洋艦隊には、補給上の問題があったといわれている。米軍指揮下といっても補給は英軍独自で行う必要があったが、英軍の補給態勢は米軍ほどの完成度にはなく、英国太平洋艦隊は2日間攻撃を行うと前線を少しさがり補給をうけ、補給が完了すると前進し攻撃を再開、その後に再び補給のため前線を下がるという作戦行動を繰り返した。

画像2
イギリス太平洋艦隊の空母甲板上のシーファイヤやアベンジャーなどの艦載機 後方は給油作業中の巡洋艦と給油艦:沖縄県公文書館【写真番号106-37-3】

新聞報道より

 この日の大阪朝日は、沖縄戦について次のように報じている。

敵の有力機動部隊沖縄近海に行動
 新上陸作戦厳戒を要す
南西諸島沖縄島方面に出現した敵機動部隊は二十三日以来沖縄島はじめ同諸島各要地に艦上機を放って反復来襲しているが、二十六日も敵艦隊はなほ同海域に行動中である、二十四、五の両日には近海に接近、戦艦等を以て熾烈な艦砲射撃をも加へ来っている、この敵機動部隊は従前と同じく数群よりなる相当有力なもので、制式空母特設空母を中心勢力とし相当数の戦艦、巡洋艦、駆逐艦などよりなる優勢な編成の艦隊である。
  [略]
敵のこれまでの戦法を見ると機動部隊の大規模な作戦行動の裏には必ず新作戦を伴ふを常としている、これは新上陸作戦に先立ってまづわが基地を制圧し基地航空兵力を押へておいて制空権において優位を占め然るのち輸送船団ならびに舟艇群を徐ろに出動せしめんとする企図に出ている、従って先般十八、十九両日の九州、四国、関西方面に対する敵機動部隊の来襲に当っては敵の新上陸作戦を必ず伴ふものと警戒せねばなるまい殊に引続き機動部隊が執拗に琉球方面に行動するにおいて情勢はわれわれに重大な覚悟を要求するものがあらう
  [略]

(『宜野湾市』第6巻 資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『座間味村史』上巻
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』

トップ画像

3月27日、渡嘉敷島に上陸する米陸軍第77師団:沖縄県公文書館【写真番号108-14-3】より