渡嘉敷島に米軍が上陸開始
慶良間諸島の渡嘉敷島には、海上挺進第3戦隊(赤松嘉次戦隊長)が配備されていたが、この日朝9時ごろ、猛烈な砲爆撃の支援のもと渡嘉志久海岸および阿波連海岸に米軍が上陸を開始した。
同戦隊第3中隊皆本義博中隊長は、配下の小隊を指揮して渡嘉志久海岸に上陸した米軍に発砲し前進を阻んだが、ただちに反撃され撤退した。戦隊の主力は、島の北部の複郭陣地に撤退し籠った。
もっとも、「複郭陣地」といっても名ばかりで、事前に陣地が構築されていたわけでもなく、その場で大慌てで蛸壺陣地を構築したようなものであった。
座間味島、阿嘉島の戦闘と「斬込み」
座間味島には海上挺進第1戦隊が配備されていたが、同戦隊梅澤戦隊長は、27日零時を期して総員で米軍に対し「斬込み」といわれる敵陣強襲を実施する計画だった。しかし、この日の月明かりの状況に鑑み、総員ではなく第1中隊・第2中隊のみに斬込みを命じた。これにより伊藤達也第1中隊長ならびに安部直勝第2中隊長以下各中隊は、ほぼ全滅した。米側の戦史によると、米軍は日本兵を100人以上殺害し、米軍の被害は死者7名負傷者12名であったと記されている。なお、この斬込みには、防衛隊の他、青年女子も加わった。
26日夜から27日未明にかけての斬込みについて、米軍は次のようにリポートしている。
阿嘉島には海上挺進第2戦隊が配備されていたが、同戦隊野田戦隊長は、26日夜より総員斬込みを計画し、27日未明、斬込みを敢行した。この斬込みには、小学校6年生以上の男子を含む集落の義勇隊も参加した。
27日の阿嘉島は、終日航空作戦に支援された米軍の攻撃をうけ、米軍は一時野田山頂まで進出したが、戦隊は反撃し撃退した。野田戦隊長は、26日夜から27日未明の総員斬込みは損害が多く成果が少なかったので、この日夜は斬込隊と特攻艇攻撃隊を選抜し、派遣した。しかし、どちらも大きな戦果はあげられなかった。
第32軍の動向
沖縄周辺の米艦船は、約100隻に増加し、艦砲射撃は北、中飛行場および南部湊川方面へ集中し始めた。この日の艦砲射撃は、残波岬から平安山地区に約600発、小禄から喜屋武地区に約25発、摩文仁から知念地区に約350発であった。また久米島や大東島も艦砲射撃をうけた。久米島の警防団の警防日誌は次のように記されている。
米艦載機の来襲は、沖縄島で約500機、奄美大島には約300機もの数にのぼった。また北・中飛行場西方海域では、掃海(機雷除去)作業が行われるとともに、湊川方面では、上陸用舟艇14隻がリーフぎりぎりまで接近して引き返すなど上陸に向けた陽動・牽制作戦が行われた。湊川周辺に配備されていた独立混成第15連隊の連帯本部「陣中日誌」には、次のように記されている。
第32軍司令部は、米軍主力が沖縄南半部西海岸に上陸、一部が湊川方面に上陸するものと確信した。主力が上陸しても主陣地に到達するまでには10日以上を要するとの推測から、軍はその間に湊川方面に上陸した米軍の一部部隊を攻撃するため、軍砲兵隊を南部に配備した。
軍はこの日、作戦指導腹案として関係方面に次のように電報した。
八原高級参謀は戦後、この日の状況について次のように回想している。
海軍の動向と航空特攻
海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官は、「敵ノ上陸可能二十八日ト判断セラルニ付本日中ニ戦備ヲ完成シ警戒ヲ厳ニセヨ」と電令した。また本部半島の運天港に所在した第27魚雷艇隊(指揮官:白石信次大尉)は、残波岬北方洋上で米艦艇軍を攻撃した。戦果は、巡洋艦2隻沈没、駆逐艦1隻撃破と報じられた。しかし第27魚雷艇隊の魚雷艇や基地は、30日31日と米軍機の大空襲をうけ壊滅状態となる。その後、白石隊は本部半島で敗残兵となり、山賊化し住民迫害を繰り返す。白石隊の暴虐については、またあらためて触れることになる。
海軍第5航空艦隊宇垣司令長官のこの日の日記には、次のように記されている。
宇垣長官の日記にある石垣島からの特攻10機とは、あるいは先日の伊舎堂大尉らの航空特攻を指しているのかもしれない。また、この日、中飛行場から出撃した第8飛行師団の航空部隊(八原高級参謀の回想に従うと昨日中飛行場から出撃した航空部隊の残部)が出撃し航空特攻を敢行、大型艦5撃沈、大型艦5撃破と戦果が伝えられた。
一方、本土では、この日昼間、沖縄での米軍の作戦に呼応するようにマリアナのB-29約150機が九州に来襲した。この日夜にも約60機が来襲し北九州を襲った。
イギリス軍の沖縄攻略作戦
あまり知られていないことだが、沖縄戦にはイギリス軍も参戦している。英国太平洋艦隊は先島諸島方面に到着した26日、艦載機で宮古・八重山を空襲しているが、軍はこの日、英国太平洋艦隊を発見した。
英軍の参戦は、1944年9月のチャーチルとルーズベルトの会談で決定されていた。チャーチルは、アジアの植民地を取り戻すため、対日戦で一定の役割を果たし、今後の発言権を確保しようとしたものと思われる。
沖縄戦に参戦した英国太平洋艦隊は、旗艦「キングジョージ5世」以下空母「インドミタブル」や巡洋艦・駆逐艦・補給艦など計22隻、ならびにアベンジャーやシーファイヤなど200機以上の艦載機からなる。作戦上は第57任務部隊と呼称され、米軍の指揮のもとで先島諸島の空襲などを任務とした。また、「アイスバーグ・ウーロン」作戦といわれる、台湾への空襲も行っている。
ただし、英国太平洋艦隊には、補給上の問題があったといわれている。米軍指揮下といっても補給は英軍独自で行う必要があったが、英軍の補給態勢は米軍ほどの完成度にはなく、英国太平洋艦隊は2日間攻撃を行うと前線を少しさがり補給をうけ、補給が完了すると前進し攻撃を再開、その後に再び補給のため前線を下がるという作戦行動を繰り返した。
新聞報道より
この日の大阪朝日は、沖縄戦について次のように報じている。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『座間味村史』上巻
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
トップ画像
3月27日、渡嘉敷島に上陸する米陸軍第77師団:沖縄県公文書館【写真番号108-14-3】より