【沖縄戦:1945年4月8日】米軍、嘉数高地北方に進出 波照間島から西表島への強制疎開はじまる─離島残置諜者「山下虎雄」という男
嘉数高地北方の激闘
米軍は、第32軍の主陣地帯に迫り、主陣地帯のうち特に堅牢で名を馳せ、後に日米が激戦を繰り返す主陣地帯左翼独立歩兵第13大隊が守備する嘉数高地の北方に進出する。同高地の陣地は米軍の猛攻をうけるが、善戦しこれを撃退した。
主陣地帯左翼の独立歩兵第14大隊正面では、我如古北側陣地に位置する同大隊第4中隊は混戦を避け、我如古東側および南側陣地を保持して米軍の進出を阻止した。同大隊第5中隊が守備する南上原陣地の一角(142高地の東800メートル付近)では、激戦の末に米軍に占領された。
和宇慶北西の155高地陣地は多大な損害をうけたが、独立歩兵第12大隊第4中隊の支援もあり、陣地を確保した。また東海岸の津覇付近には米軍が進出してきたが、活発な行動は見られなかった。
第32軍はこの日18時、次のように戦況を報告した。
湊川方面からの米軍の上陸に備えて沖縄南部に配置されていた軍砲兵隊主力は、この日朝までに北正面への配置転換を完了し、独立臼砲第1連隊(入部兼康中佐)もこの日から射撃を開始した。同連隊の砲は98式臼砲で開戦当初のシンガポール攻略戦や硫黄島の戦いでも使用され、威力を発揮している。
第62師団の夜間攻撃の失敗
昨日、米軍が浦添方面に上陸する可能性が高いと見込まれ、8日夜を期しての総攻撃は中止となり陣前出撃に縮小変更され、この日夜第62師団の一部をもってこれまでに攻略された第一線陣地の主陣地の奪回をおこなうことに決定した。また長参謀長はこの日午後、数時間後におこなわれる陣前出撃実施後の方策として、4月12日ころから第62師団、第24師団を並列して大規模な夜襲により殺傷攻勢を実施することを提案した。
八原高級参謀は軍参謀長の攻勢案に対し、絶対反対を表明した。しかし軍参謀長は高級参謀の反対を退け、攻撃計画の策定を命じた。八原高級参謀は戦後、「軍司令官、軍参謀長は、四月八日の総攻撃中止の関係もあり、成敗利鈍を超越し、軍の名誉にかけて攻撃を強行されるかに思えた」と回想している。
こうした経緯のなか、第62師団長はこの日夜、隷下の歩兵第63旅団長に陣前出撃を命じるとともに、独立歩兵第272大隊と同273大隊を指揮下に入れた。そして歩兵第63旅団長はこの日夜、独立歩兵第12大隊、第13大隊、第14大隊に夜間攻撃を命じた。
これをうけて各隊は夜間攻撃を敢行したが、大きな戦果もなく、逆に中隊長クラスの戦死が相次ぐなど大きな被害をもたらした。
神山島への斬込みと海上挺進第26戦隊の出撃
米軍は3月31日、那覇沖の神山島を占領し砲撃拠点としたが、神山島からの砲撃は第32軍の作戦行動を妨害した。軍司令官はかねてより軍船舶隊に神山島への斬込みを命じていたが、この日夜10時ごろ、船舶工兵第26連隊(佐藤小十郎中佐)の西岡健次小隊長以下78名がクリ船で神山島へ接近し、奇襲攻撃をおこなった。西岡隊は多くの損害を出したが、西岡少尉以下22名が翌9日朝4時ごろ帰還した。戦果は火砲3、機関銃2を破壊、人員殺傷10と報告された。
糸満周辺に配備されていた海上挺進第26戦隊はこの日、神山島への斬り込みに呼応して嘉手納沖の米輸送船団への攻撃命令をうけた。足立睦生戦隊長はこの日夕、出陣式をおこない、泛水作業にとりかかった。しかし干潮時のため泛水作業に時間がかかり、出撃した特攻艇は限定的であったが、米船団に一定の損害を与えたと報じられている。
場天港に配備されていた海軍射堡隊(海岸から魚雷を発射する)は、この日朝、中城湾に侵入した米艦艇に対して魚雷5本を発射し、戦果は駆逐艦一隻轟沈、掃海艇一隻大破と報じられた。
沖縄北部の戦況
沖縄北部ではこの日、米軍が名護から本部半島に接近してきた。これをうけて国頭支隊第2大隊長は全員戦闘配備につくことを命令した。
この日朝、渡久地南4キロの崎本部付近に配備されていた船舶工兵第26連隊第1中隊の山形小隊が第2大隊本部に到着し、大隊長の指揮下に入った。第2大隊長は山形小隊を第5中隊長に配属し戦備を強化した。
この日午後、伊豆味東側ナリシ堂付近に進入してきた米軍に対し、第3遊撃隊(第1護郷隊)第3中隊と思われる一隊が猛射をくわえた。米軍は三ッ堤南方に後退した。
国頭支隊歩兵砲中隊蔦井小隊(連隊砲2門)は、崎本部付近に進出して陣地を構築中の米軍に対し、約150発の砲撃をくわえて撃退した。
恩納岳の第2護郷隊岩波隊長は恩納、金武の集落の情報を収集し、この日第1中隊に金武、第2第3中隊に恩納への奇襲攻撃を命令した。
恩納襲撃部隊はこの日薄暮、恩納集落の米軍を奇襲し、戦車3、装甲車1、トラック5、ドラム缶10本などを破壊し、弾薬集積所を爆破、人員殺傷約50との戦果が報じられた。金武襲撃部隊は準備不充分のため不成功だった。
こうした護郷隊のゲリラ戦には、多くの少年護郷隊員が動員されていたことを忘れてはならない。護郷隊については、またあらためて触れることになる。
第32軍のプロパガンダ
沖縄南部に配備されていた歩兵第89連隊第5中隊のこの日の陣中日誌には、「撃滅」という連隊の新聞(情報紙)の第4号がおさめられている(画質が鮮明であるので、画像としては4月6日の「撃滅」第2号を掲げた)。
この日の「撃滅」には昨日7日に鈴木貫太郎内閣が成立し、宮中で親任式がおこなわれたことや、主要閣僚、軍首脳の人事などの時事情報が掲載されている他、大本営発表や沖縄周辺の戦況が掲載されている。激戦下であるが、連隊はリアルタイムで中央の情報を入手し、部隊に通知していたことが理解できる。
こうした連隊や師団単位での新聞は他の師団も発行しており、例えば宮古島の第28師団は「神風」、石垣島の独立混成第45旅団は「驀進」という新聞を発行していた。
また同じくこの日の陣中日誌には、部隊長の「布告」がおさめられている。この布告は右端に「洞窟内ノ住民ニ読ンデヤツテ下サイ」と記されているように、住民に対して軍が対米軍の敵愾心を煽るものであり、共生共死を求めるものである。端的にいえば軍のプロパガンダといえる。
こうした軍の宣伝活動には、鉄血勤皇隊の学徒により結成された千早隊という部隊が関わり、千早隊の学生たちが各地の壕やガマに赴き、戦況や各種の情勢を住民に説いてまわったともいわれている。
波照間島住民の疎開と離島残置諜者「山下虎雄」
この日、波照間島住民の西表島への強制疎開がおこなわれた。
米軍の慶良間諸島上陸後、八重山諸島を守備する独立混成第45旅団(宮嵜武之旅団長)の指示で波照間島住民の西表島への疎開が命じられたが、住民は西表島がマラリアの有病地帯であることや波照間島へ米軍が上陸する可能性は低いことから、疎開に強く反対していた。
住民の疎開反対の声が高まると、1945年2月ごろから波照間島に青年学校教員として島に赴任していた山下虎雄(本名:酒井喜代輔、酒井清とも)が、突如として軍服を着用し軍刀をふりかざして住民を威嚇し、強制的に疎開を決めた。山下虎雄すなわち酒井喜代輔軍曹は陸軍中野学校出身の諜報要員であり、第32軍司令部の命令で波照間島に配置されていた離島残置諜者であったのだ。以降、酒井軍曹が島と住民を恐怖支配することになる。
酒井軍曹は疎開にあたり、住民が疎開地に持っていけない牛や豚、鶏などの家畜は軍がすべて処分するとして、食肉処理業者を呼び寄せ、島のあちこちで家畜を処理し石垣島に送ったのであった。戦時において、波照間島から船で西表島まで家畜を移動させることは事実上不可能であり、島の家畜はほぼすべて軍が接収したことになる。さらに酒井軍曹は疎開にあたって家はすべて焼き払い、井戸には毒を入れるなどとも放言し、酒井軍曹の命令による暴行によって死亡した住民もいる。
波照間島住民のマラリア被害と戦後の苦しみ
結局、西表島への疎開により、波照間島住民1590名は、ほぼ全員が西表島でマラリアに罹患し、そのうち477名が亡くなったといわれている。一家全滅の世帯もあり、また子どもも多数亡くなった。
沖縄戦の組織的戦闘が終結後、西表島に疎開している波照間島住民が帰島したいと酒井軍曹に伝えると、酒井軍曹はなお強硬に西表島に留まるよう住民に命令した。そのため住民が酒井軍曹の目を盗んで石垣島の旅団本部へわたり状況を説明して帰島の許可を得たが、酒井軍曹はそれでもなお住民を脅して帰島に反対したのであった。
ここまでくると、もはや酒井軍曹は軍命を忠実に実行しているのではなく、住民を暴力で屈服させ服従させることだけが目的となっていたともいえるだろう。
酒井軍曹は波照間島に派遣される前は西表島にいたが、そこでは非常におとなしい性格だったといわれている。また波照間島で酒井軍曹が豹変し住民を脅し始めた時でも、旅団本部から上級の軍人が来ると、酒井軍曹はおどおどしていたともいわれる。パーソナルな問題に全てを還元するのは気をつけなければならないが、本来は気弱な人物が絶対権力者として離島に配置されたことにより、一気に自己の内面の暴力性が発動されたという部分もあるのではないだろうか。
波照間島に帰島した住民は、それ以後も罹患したマラリアで苦しみ、また家畜が処分されたことにより食糧難で苦しんだ。
こうした戦争マラリアについては、最近では大矢英代氏が『沖縄「戦争マラリア」 強制疎開死3600人の真相に迫る』で住民の証言をあらたにまとめるなどしている。
酒井軍曹と波照間島の悲劇については、これ以降も随時取り上げることになる。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県史』各論編9 沖縄戦記録2(旧県史)
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍資料 沖縄戦6
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)
・石原ゼミナール・戦争体験記録研究会『もうひとつの沖縄戦 マラリア地獄の波照間島』(ひるぎ社)
・石原昌家「沈黙に向き合う 沖縄戦 聞き取り47年」〈30〉離島残置謀者たち 身分隠し島々に潜入(「琉球新報」2018年11月29日)
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琉球新報による酒井喜代輔のインタビュー記事(1989年8月9日):大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)より