【沖縄戦:1945年3月17日】「敵ハ近ク南西諸島方面ニ上陸ヲ企図シアル算大ナリ」─連合艦隊司令長官、南西諸島方面への米軍来攻間近と判断
「南西諸島方面ニ上陸ヲ企図シアル算大ナリ」
連合艦隊豊田副武司令長官は17日、九州から沖縄にかけての南西諸島方面への米軍来攻が間近であると判断し、以下の連合艦隊作戦要領を電令した。
沖縄方面作戦の背景と海軍航空隊の哨戒
海軍航空部隊の沖縄方面作戦の一つとして、第2次丹作戦が存在した。海軍航空部隊は、台湾沖航空戦などで相当の消耗をしており、少しでも米機動部隊の来攻を遅らせるため、ウルシー環礁に集結中の米機動部隊を航空特攻で損害を与える作戦が第2次丹作戦である。ウルシー環礁とは、現在のミクロネシア連邦の一つの島(環礁)で、パラオ島の北東約600kmに位置する。
第5航空艦隊(宇垣纏司令長官)で編成された爆撃機「銀河」24機を主力とする梓特別攻撃隊は1945年3月11日9時前後、鹿児島の鹿屋航空基地を発進し、同日19時前後ウルシー環礁に集結中の米機動部隊に航空特攻を実施した。これにより米空母「ランドルフ」に損害を与えるなどしたが、全体として大きな成果はなく、第2次丹作戦は失敗した。
翌12日もウルシー環礁への偵察がおこなわれ、米機動部隊が同環礁に停泊していることが判明したが、15日になり通信諜報により米機動部隊が既にウルシー環礁を出撃したとの情報を得たことから、第5航空艦隊は17日、警戒を厳重にし夜間哨戒を展開していたところ、同日23時ごろ、哨戒機の電探により宮崎県都井岬の南南東約170カイリ付近に米機動部隊を探知した。
大本営の航空兵力温存問題と第5航空艦隊
大本営海軍部は17日、米機動部隊の来攻に対し、九州・南西諸島の航空作戦を担う第5航空艦隊をもって全面的に攻撃をおこなうか、本格的な上陸まで兵力を温存するべきか検討した結果、米機動部隊が攻略部隊を伴っていることが明らかでなければ航空兵力を温存するよう連合艦隊に指示した。
これをうけて連合艦隊は、第5航空艦隊に米機動部隊が攻略部隊を伴う場合は攻撃を実施するが、そうでなければ兵力を温存せよと伝えるものの、米機動部隊が攻略部隊を伴っているかの確認は困難な上、空襲の被害により九州に航空部隊を配置したまま兵力温存は現実的でなく、第5航空艦隊は積極攻勢を実施するよう連合艦隊に意見具申した。
こうしたことから連合艦隊は、大本営とも協議の上、兵力温存が不可能な場合は宇垣司令長官の判断により積極攻勢を実施してもいいと指示したが、この指示が宇垣司令長官に到着する前に、既に宇垣司令長官は自身の責任で積極攻勢を部隊に命じ、翌18日未明から米機動部隊との戦闘がはじまる。
海軍第19震洋隊、川平湾の遮蔽を住民に命じる
石垣島の川平湾周辺に配備されていた海軍特攻艇部隊第19震洋隊(大河原茂美隊長)はこの日、特攻艇が秘匿されている川平湾を見えなくするよう遮蔽垣の構築を住民に命令する。川平には陸軍部隊も駐屯していたが、特に海軍部隊(大河原部隊)の横暴は目に余るものがあり、特攻艇秘匿壕の構築作業に朝鮮出身者とともに住民が駆り出された他、食糧の供出を強制させられなどしている。また大河原部隊のリンチはすさまじく、兵士を木に逆さづりして数人がかりで暴行する場面を住民が目撃している。
硫黄島の戦い
硫黄島では、北拠点を中心に栗林兵団長以下の守備隊が抵抗を続けていたが、すでに3月14日の時点で残存兵力は約900名となっていた。
16日午後1時30分ごろ、米軍の一部は温泉浜に突進、この日正午過ぎには北ノ鼻に進出、同日夕方には為八海岸西端ー北集落ー天狗岩の線を連ねる米軍の重包囲下に入った。
そしてこの日夜10時ごろ栗林兵団長および市丸少将以下海軍司令部は、日付がかわり18日0時を期して大本営に宛てて打電すべき訣別の電文を残し、軍旗を奉焼した歩兵第145連隊本部に向かって出撃、池田連隊長らと合流した。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・同『中部太平洋陸軍作戦』
・宇垣纏『戦藻録』下(PHP研究所)
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
トップ画像
第二次丹作戦での梓特攻隊の攻撃により損傷をうけ、ウルシー環礁にて修理される米空母ランドルフ 甲板後部に大きなダメージを受けているのが確認できる:Wikipedia「ランドルフ(空母)」