【沖縄戦:1945年6月23日】第32軍の壊滅─牛島司令官と長参謀長の自決 訣別のウイスキー「キング・オブ・キングス」 沖縄戦の終結と「慰霊の日」について考える
第32軍の壊滅─両将軍の自決
この日午前4時30分、摩文仁司令部壕の海岸側出口において、第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は古式にのっとり切腹、坂口勝大尉の介錯をもって自決した。享年牛島司令官57歳、長参謀長49歳であった。死後、牛島司令官は大将に特進し、日本陸軍最後の大将となった。
自決の際、牛島司令官は略綬を着用した通常の礼装、長参謀長は「義勇奉公 忠則尽命」と墨書した白いYシャツを着用し(襦袢のことをいうのか、白い日本式肌着に「忠則盡命 盡忠報國」と記されていたともいわれる)、静かに「八原! 後学のため予の最期を見よ!」と八原高級参謀にいって最期を迎えたそうだ。
なお牛島司令官と長参謀長の自決には、第32軍司令部経理部長佐藤三代治主計大佐も同道し、両将軍にわずかに先立ち拳銃自決している。佐藤経理部長は長参謀長と陸士の同期であり、二人は非常に仲が良かったことは既に述べた通りである。
自決の後、両将軍の遺体は付近に埋葬されたといわれる。戦後、米軍の捕虜になった沖縄憲兵隊分隊長萩之内清大尉(中尉とも)が両将軍の「首実検」に立ち会わされた際、埋葬された遺体を確認したそうだ。八原高級参謀たちは摩文仁の海岸から水葬することを内々に計画していたようだが、坂口大尉が埋葬したと思われる。坂口大尉は両将軍の墓標まで事前に作っていたといわれるが、おそらくトップ画像の両将軍の墓標は、その際の墓標と考えていいのではないだろうか。
一説によると、両将軍は青酸カリで服毒自決をはかったともいわれるが、多くの目撃証言から考えて、その可能性は低いように思われる。ただし第32軍の最末期、摩文仁司令部壕が米軍に直接攻撃されはじめたことにより、軍医が重傷者に青酸カリのような毒を注射したことを八原高級参謀が回想していることは以前にも述べた。そうした遺体と両将軍の最期を混同している可能性はあるかもしれない。また両将軍の遺体といわれる画像もあるが、こちらも両将軍の自決に立ち会った人々の多くの目撃証言と異なるものであり、両将軍の遺体の画像ではないと考えていいだろう。
米軍側から見た両将軍の自決
両将軍の最期については、日米で認識の差がある。米第10軍情報部が作成した報告書によると、両将軍の自決は6月22日午前3時40分ごろと記されており、自決の日が1日早まっている。
この米軍の報告書は、第32軍司令部の料理人を含む捕虜の証言を総合して作成され、米軍は捕虜の証言から両将軍の遺体を捜索し、発見したという。上述の萩之内憲兵大尉の「首実検」はこのことである。
米軍の報告書によると、専属料理人は21日の夜に米のごはん、缶入り肉、ジャガイモ、干し魚、サケ、キャベツ、豆腐汁、パイナップル、茶、酒など特別に豪勢な食事を提供した。これが両将軍の最後の晩餐となった。その後、午前3時ごろ、料理人が食事を片付けていると、牛島司令官付の将兵がやってきて、両将軍が切腹することを伝えてきて、午前3時40分ごろ両将軍は勲章がついている通常礼装に身支度し洞窟をぬけ、壕の外に座布団を敷き白い布をかけ、そこに着座し切腹、介錯がおこなわれたという。
なおトップ画像の摩文仁に建立された両将軍の墓標の写真に写る男性は、日本軍捕虜だという。そして、この写真自体は米軍心理作戦部隊の依頼で撮影されたという。撮影の経緯や撮影の意図は不明ながら、心理作戦としては「日本軍の司令官と参謀長の墓標と、そこに立つ(案内する)日本兵捕虜」という構図は、日本兵の戦意を喪失させるために役に立つものであろうことは想像がつく。この写真は、あるいはそうした米軍の心理戦の一環で撮影されたものかもしれない。
21日に沖縄占領を宣言し、22日に沖縄戦勝利を記念する国旗掲揚式をおこなった米軍にとって、この日は特別なにという日ではなかった。むしろこの日から米軍にとって沖縄戦は攻略戦から掃討戦の段階に移っていく。
訣別のウイスキー
長参謀長は自決の直前、ウイスキーをかたむけながら映画の話などをしていたようだ。22日の夕刻、八原高級参謀が摩文仁司令部の頂上である89高地の奪回を断念する旨を報告したところ、もうすでに酒がまわり、上機嫌だったという。
長参謀長と八原高級参謀は先の大戦の開戦直前、一方は南方軍司令部付として、一方は駐タイ日本大使館付武官補佐官として、それぞれ南方の各地を転々としており、サイゴンで一緒に映画「ダニューヴの漣波」を鑑賞し、近くの日本人が経営しているすき焼き屋で酩酊するまで酒を飲んだことがあったという。長参謀長はそのことを八原高級参謀に思い出話として語ったのだろう。
そんな二人の話が一通り終わり、しばらくのあいだ両将軍は睡眠をとったようだ。そして23日午前3時ごろ、牛島司令官の命で八原高級参謀が牛島司令官のもとへ行くと、長参謀長はすでにウイスキーのキング・オブ・キングスを飲んでいたという。八原はその時の上掲を次のように回想している。
とのことである。まさしくウイスキーは長参謀長にとっても八原高級参謀にとっても訣別の酒であった。
八原高級参謀によると首里司令部には長参謀長のとっておきのオールド・パーやジョニー・ウォーカーなどのウイスキーがあり、長参謀長は日々司令部でちびりちびりとウイスキーを傾けていたそうだ。4月の地上戦開戦当初の攻勢移転計画においても、長参謀長は幕僚を集めてよく酒を飲んでいたというが、おそらくその時の酒もウイスキーであったことだろう。そして首里司令部から摩文仁司令部への撤退にあたっても、ウイスキーを運び出したという。
攻勢も敗退も、そして今生の別れも、ウイスキーとともにあった第32軍は、ここに壊滅したのであった。
沖縄戦の「終結」はいつか、「慰霊の日」はいつであるべきか
「慰霊の日」をめぐって
沖縄では米軍施政権下のころより、6月23日を「慰霊の日」とし、摩文仁の平和祈念公園における戦没者追悼式を中心に全県下で様々な慰霊祭や追悼式、平和を祈念する行事などが開催され、今日に至る。
その慰霊の日だが、もともとは牛島、長両将軍の自決の日が6月22日と考えられていたため22日とされていたが、後に両将軍の自決の日が23日であると考えられるようになったことから、23日にあらためられた経緯がある。つまり両将軍の自決が沖縄戦の組織的戦闘の終結した日という前提があり、その日が沖縄戦の一つの節目として「慰霊の日」とされているわけである。
しかし第32軍の組織的戦闘の終結の日は、21日(19日という見方もある)と考えるべきだという指摘が我部政明氏、玉木真哲氏、大城将保氏など沖縄戦研究者からもたらされている。おそらくその指摘が妥当なのではないか。
そうであれば23日は組織的戦闘が終結した日ではなく、あくまでも両将軍が自決した日であり、両将軍の自決による第32軍が壊滅した「軍壊滅の日」と考えるべきであろう。
牛島、長の自決はいつか
他方、先ほども若干触れたように、牛島、長両将軍の自決の日が、そもそも23日ではない可能性も否定できない。両将軍の「首実検」をした萩之内憲兵大尉は戦後、両将軍の自決は22日であると回答している。旧防衛庁防衛研修所が編纂した事実上の公的戦史である「戦史叢書」は、萩之内氏の回想記録に基づき両将軍の自決は23日未明と記しているが、その萩之内氏が22日と回答し、さらに防衛庁側が根拠とした23日未明自決という自身の回想記録は、自分が書いたものでないとまでいっているのである。
これは全くの想像でしかないが、戦史叢書の編纂にあたり、萩之内憲兵大尉に無断で、八原の23日未明自決という回想と萩之内氏の回想記録をすりあわせたのかもしれない。以前にも述べたが、八原の回想は全体的に若干日付がずれており、可能性はありえる。
真相は不明ながら、いずれにせよ萩之内氏がそこまでいう以上、23日未明自決説には注意が必要である。むしろ萩之内氏の回答や米軍側の記録、22日と命日を記した墓標の存在などを考えれば、自決は23日未明ではなく22日未明であったと考える必要があるのではないだろうか。
沖縄戦の「終結」はいつか
それでは沖縄戦の「終結」はいつなのだろうか。
正確にいうならば、9月7日の沖縄戦の降伏調印式の日が沖縄戦の終結の日というべきであろう。実際、沖縄市は9月7日を「平和の日」と定めているし、およそそのころまで沖縄では散発的な戦闘が続き、日本軍の投降も続いた。
しかし、降伏調印式も含めこれまで述べてきたような軍の組織的戦闘の終結や軍首脳の自決による軍の壊滅といった軍の論理、軍にとっての戦争の節目が、住民にとってどれほど意味のあることだろうかと疑問にも思う。川平成雄氏の指摘する通り、住民にとっては米軍に保護された日、あるいは収容所に収容された日がそれぞれの沖縄戦の「終結」であり、戦後のはじまりともいえる。また沖縄戦により家族がいまだ行方不明となったり、肉体的・精神的な傷を負ったり、孤児となり自分の本当の名前も家族もわからないままであったり、米軍に土地を接収されたものにとって、いまだ沖縄戦は終結していないともいえる。
「慰霊の日」はいつであるべきか
以上のことを考えると、6月23日を慰霊の日と考えてよいのか疑問がわく。実際、沖縄では慰霊の日をいつと考えるべきか今なお議論がつきない。
そもそも組織的戦闘の終結を19日ないし21日と考える有力な指摘もあり、そうだとするならば23日を慰霊の日とするのはふさわしくない。牛島、長両将軍の自決の日が23日であるからという見方もあるかもしれないが、両将軍の自決の日は22日とも考えられており、その点でも23日が慰霊の日であるというのは落ち着きが悪い。
仮に23日が両将軍の自決の日であり、また組織的戦闘の終結の日だとしても、そうした軍の論理、軍の節目と県民の慰霊の日を紐づける必要もないはずだ。軍にとっての沖縄戦と住民にとっての沖縄戦は全く異なり、当然その終結の意味合いも異なってくる。
他方で戦後長く慰霊の日とされ、多くの沖縄の人々が祈りを捧げてきた6月23日の慰霊の日を軽々に否定することはできない。この日を慰霊の日と定め県民が思いを寄せてきた事実は尊重しなければならない。
あえていうのならば、6月23日とは、19日ないし21日の組織的戦闘の終結と22日の両将軍の自決という軍にとっての沖縄戦の一つの終結の「その後」の日であり、軍の論理や軍の節目とは異なる住民にとっての沖縄戦とその終結を象徴する日であると解釈しなおすこともできる。それならば6月23日が引き続き慰霊の日であってよいだろう。
あらためて6月23日慰霊の日において慰霊と平和の祈りを捧げた上で、この日がどういう日なのかあらためてよく考えたり、この日だけでなく折に触れ、いつでも、沖縄戦と戦争犠牲者、そして沖縄と日本、世界の平和について思いを致すことができたらなおよいのではないだろうかと思い、付言した次第である。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・川平成雄「沖縄戦終結はいつか」(『琉球大学経済研究』第74号、2007年)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・原剛『沖縄戦における住民問題』(錦正社)
トップ画像
摩文仁89高地に立つ牛島、長両将軍の墓標 米軍心理作戦部隊の依頼で撮影 45年6月28日撮影:沖縄県公文書館【写真番号02-03-3】( https://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/?lang=ja でカラー化)