【沖縄戦:1945年8月18日】久米島の海軍鹿山隊、島民3名を「スパイ」として虐殺し、遺体もろとも家に火を放つ
鹿山隊の「住民殺し」つづく
海軍兵曹長(鹿山は沖縄戦中に兵曹長から少尉に昇進していたようだが、戦時下であるため鹿山にその旨伝達されていなかったともいわれる)鹿山正ひきいる久米島の海軍部隊(鹿山隊)はこの日、島の西銘出身の仲村渠明勇さんとその妻子の3名を殺害した上、遺体もろとも家に火をつけ焼き払った。
事件の翌日の久米島警防団の警防日誌には、次のように記されている。
仲村渠さんは防衛召集で現在の那覇の海軍小禄飛行場に配属されていたが、6月はじめに米軍の捕虜となった。その後、久米島出身ということからか久米島攻略の案内人として米軍に連れられ、山中に避難している久米島住民へ投降を呼びかけるなどした。
仲村渠さんは米軍に久米島が無防備であることを訴え、艦砲射撃をやめさせた。また多くの住民が仲村渠さんの呼びかけで投降保護された。仲村渠さんは、いわば島民を救った人物であった。
島の具志川村農業会の会長を務めた吉川智改さんの「戦時日記」には、沖縄戦における仲村渠さんの活躍について次のように記されている。
他にも、「とにかくね、アメリカーは、もう上陸になったからね。銭田から上陸してよ。その時にね、あの、仲村明勇(仲村渠明勇)さんは、捕虜にされて帰ってきた話をね、僕たちも聞いていたわけ。久米島には何名の兵隊しかないから、とにかく艦砲射撃はやるなと言って。やってくれるなと言ってね。その明勇さんはね、とにかく、久米島のね、話やったわけよ」、「もう、仲泊のみんなね、もう帰っていいよーって(仲村渠明勇さんに言われて)。久米島の人はみんな、明勇さんに助けられているよ」といった住民の証言が残っており、仲村渠さんがどれだけ島の人の命を助けるのに役立ったか、身を挺したか、よく伝わってくる。
こうして米軍の先導役を務め住民の投降保護に一役買った仲村渠さんだが、鹿山隊は仲村渠さんを「スパイ」と見なし、兵士たちは仲村渠さんの出身地である西銘などで仲村渠さんを探し回った。仲村渠さんの消息を日本兵に聞かれた住民が「見ていない」と兵士に答えたという証言も残っている。仲村渠さんはクバガサをかぶって顔を隠し、なるべく夜間に行動するなど鹿山隊の目を避け、実家にも戻らずイーフ浜の仮小屋で暮らしていた。
しかし、ついにこの日、仲村渠さんは鹿山隊に見つけ出されてしまった。農民に変装した鹿山隊の兵士は仲村渠さんの小屋を包囲し、妻のシゲさんと子の明広ちゃんとともに刺殺し、遺体もろとも小屋を焼き払ったという。「三人の遺体はヤギを焼いたように真っ黒で頭がなく、誰か判別できなかった」と隣家の住民は回想している。
また仲村渠さん一家の最後について、当時10歳だった吉永安扶の次のような証言がある。
吉永さんの証言によると4人の遺体があったということでこのあたりはばらつきがあるが、ともかく仲村渠さん一家が日本軍に殺害され放火されたという全体の状況に間違いはない。
戦後、住民は「義人仲村渠明勇」と題する村芝居を上演して仲村渠さんを偲んだが、客席は鹿山隊への憎しみと受難を思い出し、嗚咽で埋まったそうだ。
他方、鹿山は戦後、雑誌や新聞などのインタビューで「記憶にない」とごまかしてみたり、あるいは「(殺された住民は)スパイ行為をした」、「間違いがあったとは思わない」、「軍人としての誇りがある」、「私たちは当時、住民に感謝されていた」などと開き直るなどしたため、沖縄全域で鹿山糾弾の気運が盛り上がり、鹿山糾弾の決議や鹿山を刑事告発するなどの議論もなされ、国会でも追及されるなどした。
鹿山隊は、これ以降も虐殺に手を染めていく。なお鹿山隊の凶行については、次の note の記事も参照していただきたい。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第13号(琉球新報2005年8月15日)
・「サンデー毎日」1972年4月2日号
・『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録
・内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】:久米島
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琉球新報の取材にこたえる鹿山正:琉球新報1972年3月25日