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【沖縄戦:1944年7月11日】「本島ニアル患者ヲ収容所ヘ退避セシメアリ」─第9師団の沖縄上陸とハンセン病患者の強制収容

第9師団各隊、沖縄に到着

 白根山丸、第十二多聞丸、南嶺丸、大威丸などに乗船し9日に鹿児島を出港した第9師団の各隊はこの日、那覇に入港した。また独立速射砲第3大隊、同第7大隊、戦車第27連隊、野戦重砲兵第1連隊なども同船団で沖縄に到着した。このうち戦車第27連隊の第3中隊、および野戦重砲兵第1連隊の第1大隊は第28師団長に配属され、17日宮古島に上陸した。なお第9師団司令部は、すでに沖縄に空輸されたことは以前触れた通りである。
 第32軍渡辺正夫司令官はこの日、各隊に防衛任務を付与し、第9師団が島尻地区の防衛、独立混成第44旅団が中頭以北の防衛を担任することになった。このころ軍司令部は那覇にあった。
 以下に戦史叢書より第9師団が到着した44年7月11日から第24師団到着以前の同年8月上旬までの沖縄島の部隊配備図を掲げる。

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第9師団上陸以降第24師団上陸までの44年7月11日から同年8月上旬の沖縄島の部隊配備図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

第32軍の沖縄配備とハンセン病

 癩菌により末梢神経や皮膚がおかされるハンセン病(癩病やレプラともいわれる)は、当時、「国辱」ととらえられ、患者の隔離収容が行われていた。当時の沖縄は「らい濃厚地」などと呼ばれ、比較的ハンセン病患者が多く、沖縄島の療養施設「国頭愛楽園」や宮古島の療養施設「宮古南静園」は入所者が定員オーバーの状態であった。そのため入所できない、あるいは入所しない患者は各家庭の離れなどで生活していたが、第32軍の沖縄配備とこれにともない軍民が混在するなかで、軍はハンセン病を異常なまでに警戒し、それにより静かに暮らしていた患者たちがあぶり出されていった。
 このころの軍の各部隊の日誌には次のような記述がある。

陣中日誌
 独立混成第十五連隊第二機関銃中隊

 七月七日 曇 金曜日
  [略]
三 会報
 (一)住民ニ癩患者アルニ付外出ニハ住民特ニ子供等ニ手ヲフレザルコト、外出先ヨリ帰営セル時ハ手ヲ洗ヒウガヒスルコト
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

陣中日誌 
 第二号独立混成第十五連隊 第一中隊

 七月九日(日曜日) 晴 宿営地 嘉手納農林学校
  会報 
一、住民癩病患者アルニ付外出時住民特ニ子供ニ手ヲ触レサル事、外出帰隊セルトキハヨク手ヲ洗フ事
  [略]

(同上)

 以上は第9師団司令部とともに沖縄に空輸された独立混成第15連隊の各隊の陣中日誌の一部であるが、住民の内にハンセン病患者がいるので、住民なかでも抵抗力が弱く感染している可能性の高い子どもとの接触を禁じ、衛生管理をするよう求めている。その他にも、

波平分駐第一小隊日誌(宿営、波平部落事務所)
 七月一一日
 晴 火曜日
  [略]
四、第六中隊長田中中尉ノ注意事項左ノ如シ
 (イ)軍紀風紀ノ厳正
 (ロ)衛生ニ注意(特ニレプラ患者多数ヰルニツキ住民ニ接セヌヤウニセヨ)
  [略]

(同上)

といった記述がある。
 またハンセン病患者のいる家庭に赤旗を立てて(赤い布を吊るして、という証言もある)将兵に接近しないよう警戒を呼びかけることもあった。

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愛楽園と思われる施設で顕微鏡をのぞき込む早田園長らしき人物 45年撮影:沖縄県公文書館【写真番号02-38-1】

第9師団日戸軍医による「日戸収容」

 こうしたなかで第32軍はハンセン病患者の調査と療養所への強制収容をおこなう。例えば44年8月、今帰仁の第27魚雷艇隊の日誌には

 第二十七魚雷艇隊戦時日誌
  [略]
七、寄泊地、舎営地、占領地ノ衛生状況
 当地ハ目下伝染病患者ナキモ結核患者一七名癩患者九名アリ家庭ニ於テ治療中ナリト依テ癩患者ニ付テハ村当局ト折衝ノ上速ニ隔離シ国立癩収容所ヘ収容スベク準備ヲ喚起セリ[略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

などとある。
 また飛行場建設が進む読谷村では44年5月、伊江島では7月、ハンセン病患者の強制収容がはじまっている。独立混成第15連隊第3大隊の陣中日誌には、伊江島地区警備隊の警報として、

 昭和十九年七月二十七日 伊江島地区警備隊
警備状況報告
 [略]
五、衛生
 [略]
5、本島ニアル「レプラ」患者約十名ヲ収容所ヘ退避セシメアリ

(同上)

と記されており、ハンセン病患者約10名の「収容所」(愛楽園のことだろうか)への強制収容が開始されていることが読み取れる。
 もっとも大規模な強制収容は、この日上陸した第9師団の軍医日戸修一が44年9月以降に指揮して実施された患者の収容である。日戸軍医の名をとって「日戸収容」、あるいは「軍収容」などといわれる。この強制収容においては、軍が車両を出して患者を愛楽園まで連行した他、なかには兵士が抜刀して患者を脅して拉致するかのように連行したという目撃証言も残っている。
 こうして愛楽園に強制収容された患者たちだが、そこで適切な療養生活を送れたかというと、けしてそうではなかった。愛楽園では入所者が急増し、患者たちは食糧不足に悩まされ体力を低下させていった。また愛楽園二代目園長の早田皓医師の命による防空壕掘りなど強権的な戦時態勢準備により、比較的軽度の症状の患者たちも体を痛めていった。
 戦時下の愛楽園については、以下の記事を読んでいただきたい。

 こうした軍によるハンセン病患者の強制収容の背景には、沖縄に突如として大兵力が送り込まれ、軍民混在が発生したということだけではなく、当時のハンセン病への無理解と患者への蔑視や偏見があることはいうまでもない。さらに軍がことあるごとに「衛生思想極メテ幼稚」「村民ノ衛生思想ハ皆無ナリ」などと沖縄住民に衛生観念がないかのようにいっているところから見ると、沖縄そのものへの蔑視や偏見も強制収容を助長したと思われる。

早田園長が死亡した愛楽園入所者を解剖する様子を米軍が撮影している 撮影意図は不明 またなぜ解剖がおこなわれたのかも不明だが、解剖そのものは80年代頃までおこなわれていたといわれる 映像だけでなく解剖の様子を撮影した写真なども残されている:ハンセン病国立療養所「沖縄愛楽園」 展示資料/神奈川新聞(カナロコ)

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
・吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」上(『季刊戦争責任研究』第40号、2003年夏季号)

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早田医師の著書に掲載されている日本軍によるハンセン病患者の収容の様子:吉川由紀「逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦」シノドス2015.8.27