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【沖縄戦:1945年4月30日】第32軍、5月4日を期しての総攻撃計画を策定 ヒトラーの自殺、ナチス・ドイツ降伏へ

総攻撃計画と戦略持久

総攻撃計画
 第32軍牛島司令官の総攻撃の裁可をうけて、八原高級参謀は総攻撃計画を策定した。総攻撃の日は5月4日と予定された。
 総攻撃計画は、まず3日夜に特攻艇部隊が東海岸の津覇、西海岸の大山沿岸付近に逆上陸をはかり、米軍占領地帯を襲撃し後方を攪乱する。
 その上で軍砲兵隊と第24師団は4日黎明より米軍陣地に向けて攻撃準備射撃を実施し、その後に第24師団が南上原を攻略し普天間東西の線に進出する。
 独立混成第44旅団は3日夜には首里方面へ移動し、第24師団の攻撃の進展に乗じて第24師団と第62師団の戦闘地境をすり抜けるかたちで大山方向に突進し、第62師団の左翼で対峙している米海兵隊の背後を襲う。
 その間、第62師団は現在の陣地、特に前田および仲間高地を保持し、総攻撃を支えるため米軍の進出を阻止するとともに、陣前で米軍を撃滅する、というようなものであった。なお軍砲兵隊は攻撃準備射撃後は、さらに主力をもって第24師団の攻撃に協同し、海軍部隊は精鋭四個大隊を編成し、場合によっては前線に投入できるよう現在地で準備をすることになっていた。

攻撃計画の腹案
 攻撃策定当初、八原高級参謀は独立混成第44旅団の首里への転進を4日夜としていた。あくまで戦略持久を説く八原高級参謀にとって、総攻撃の失敗は自明であり、少しでも軍の損害を減らし、兵力を温存しておきたかった。そのため総攻撃が開始された4日の夜に独立混成第44旅団を首里に転進させれば、万一4日の昼間に総攻撃が失敗したとして、軍司令部もわざわざ4日の夜に首里に到着した同旅団を失敗中の総攻撃に投入せず、同旅団の兵力の温存をはかり戦略持久に移転できると考えていたのであった。
 攻撃計画を策定した参謀の讒言なのか長参謀長が見抜いたのかは不明ながら、長参謀長は八原高級参謀の攻撃計画に潜む戦略持久の方針を批判し、独立混成第44旅団の首里への転進の日時を訂正させたといわれる。これと前後し牛島司令官は八原高級参謀を叱責するが、そこにはこうした八原高級参謀と長参謀長以下参謀たちとの食い違いがあったそうだ。

[略]「八原! 攻撃計画書第六項において、混成旅団は五月四日夜、首里東北地区に機動するようになっているが、これは五月三日夜に改めねばならぬ。いやしくも攻撃に決した以上は、すべての兵力部署が、首尾一貫し、必勝の一途に透徹集中すべきである。旅団は、一夜でも早く攻撃正面に移動させ、少しでも多く攻撃準備の余裕を与えるべきである」と申し渡された。
  [略]
慧眼にも──あるいは攻撃計画に参加した長野、薬丸らがしゃべったかも知れぬ──参謀長は、私の腹中を見抜かれたのである。
 私は「三日夜、首里東北地区は、第二十四師団砲兵や、後方部隊が錯綜している。そこへ、さらに混成旅団を投入すると、混乱が激化する。師団の攻撃は近代戦史にも鑑み、線香花火式に進展するはずはない。旅団は四日夜機動しても十分機に合する」と申し開きしたが、将軍は頑として許容されない。軍司令官が、私を抽象的な言葉で叱責された裏には、かかる具体的な問題が伏在していたのだ。攻撃、攻撃。いつの世でも、攻撃論者は英雄であり、勇者である。彼らは有頂天の喜びかただ。最後の希望をかけた私の処置は、水泡に帰した。混成旅団は三日夜転進に決したのである。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

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日本軍のガスマスクをテストする米軍 壕内に籠る日本軍は米軍による毒ガス使用を恐れていた 沖縄戦と毒ガスなど化学兵器の使用は重要なテーマである 45年4月30日:沖縄県公文書館【写真番号05-06-1】

菊水五号作戦

 第32軍はこの日、5月4日を期しての総攻撃に関連し、航空攻撃の協力を関係方面に要請した。

一 従来ノ絶大ナル航空協力ヲ深謝ス 軍ハ五月四日ヨリ北方ニ対シ攻勢ニ転スルニ決ス 就テハ航空攻撃ノ目標ヲ左ノ如ク限定実施シ軍ノ攻撃ニ直接協力方切ニ配慮アリ度
 1 二日、三日両日嘉手納沖、中城湾ノ戦艦、巡洋艦ナシ得レハ駆逐艦ノ徹底的壊滅
 2 攻撃開始前北、中飛行場ノ強度制圧
 3 攻撃開始後モ右ニ準シ直接的攻撃ノ持続
  [略]

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 これをうけて第5航空艦隊宇垣司令長官はこの日夜、第32軍の総攻撃に呼応し航空総攻撃(第五次菊水作戦)の実施を第32軍に電報した。なお5月2日には第6航空軍および第8飛行師団からも航空協力の通報が到着した。
 宇垣司令長官はこの日の日誌に次のように記している。

 四月三十日 月曜日 〔晴〕
  [略]
 陸軍は四日総攻撃を以て南部の敵主力の撃破を期するの次長電により我が航空部隊を以て同日第五次菊水作戦実施のこと命令を発したり。この頃敵は積極性を欠き、何か考えあるごとき有様なり。
 攻撃資材の取り揃わざればなかなか手を出さざる彼なり。今のうちに大打撃を加えるは現下執るべき策なりと認む。糧は敵に求むるに事欠かず。軍令総長昨日軍状奏上の際、
「連合艦隊指揮下の航空部隊が天号作戦に逐次戦果を挙げつつあるを満足に思う。今後ますますしっかりやるように」
の御言葉を賜り、豊田長官はこれに奉答せり。もとより他方面に対する敵の進攻に対しては充分なる用意あるべきも、天号は決号に密接不可分に結合せられある所以を了得して作戦指導部の頭が天号に集中せられつつあるは大に可なりとす。
  [略]

(宇垣纏『戦藻録』下巻、PHP研究所)

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機関銃手と共に前線へと移動する海兵隊員 45年4月30日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-26-4】

30日の戦況

 昨夜、伊東大隊と交代した小波津地区の歩兵第89連隊第1大隊(丸地大隊)の陣地は、この日未明から米軍の攻撃をうけ、小波津西側高地の第一線陣地は米軍に占領された。丸地大隊長は夜間斬込みをおこない第一線陣地の奪回をはかったが成功しなかった。
 幸地付近ではこの日朝から米軍の攻撃をうけたが、抵抗を続け陣地を保持した。幸地西側の146高地は昨日以来米軍に占領され、同地を守備する歩兵第22連隊第2大隊はこの日夜、146高地および北方の120高地を奪回するため攻撃を準備していた。
 小波津付近の防衛を丸地大隊に移譲した伊東大隊はこの日朝、首里北側の平良町付近に到着した。伊東大隊長は146高地への米軍の進出を見て、同高地の奪回の必要性を感じ、おそらく同高地への夜襲を命じられるであろうと予測し準備した。
 午後になり伊東大隊長が第24師団司令部に電話連絡したところ、案の定146高地奪回の命令をうけた。また第24師団長は、歩兵第32連隊長に対し「歩兵第22連隊との戦闘地境に関わらず、120高地および146高地の米軍を撃攘して同地を確保すべき」旨を命令した。
 こうしたなかで歩兵第32連隊長は、伊東大隊に146高地奪回を、同連隊に配属中の歩兵第89連隊の第2大隊(深見大隊)に120高地の奪回を命じた。
 この日の夜、伊東大隊は第1中隊を第1線とし石嶺付近から146高地を攻撃し奪回に成功するが、勝山から120高地を攻撃した深見大隊は左側背から米軍の攻撃をうけ、奪回に失敗した。
 前田高地では終日接近激闘がつづき、守備隊は多大な損害を生じながら同高地を確保するとともに、前田集落付近の米軍の南下も阻止した。
 歩兵第63旅団長はこの日、旅団予備の独立歩兵第273大隊を前田洞窟に進出させ、歩兵第12大隊長の指揮下とした。
 前田高地の戦いに従軍した外間守善氏は、この日の戦闘を次のように振り返っている。

 四月三十日昼頃、志村大隊は連隊本部から二十八日に米軍に占領された台地(魔の高地、為朝岩の右側・南東)への攻撃を命じられた。日が暮れると為朝岩南東側台地敵情を探る斥候に行かされたが、照明弾がひっきりなしにあがり、為朝岩に向かう崖の周辺に機関銃弾が集中してそこから先への進入は無理だった。崖下にへばりついたまま数時間をすごし、「敵情不明」と報告した。私がへばりついた崖下には無数の屍が無残な姿で転がっていた。数日来の、特に、前田の激戦の犠牲者たちだった。転がっているのは日本兵ばかりだった。
 夜、第五中隊(中隊長大場中尉)が夜襲攻撃に出動した。第五中隊は全員勇敢に突入して一時為朝岩南東台地を占領したが、夜が明けると米軍の猛烈な砲撃と戦車の攻撃を受け、援軍を出すこともできず遂に全滅した。歩兵と戦車による待ち伏せ攻撃だったようだ。まさに「魔の高地」だった。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫)

 仲間付近の陣地は戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけたが、独立歩兵第23大隊を基幹隊とする守備隊は、安波茶東西の線を確保して米軍の南下を阻止した。
 西海岸道方面においては、宮城以西の南飛行場南端付近に米軍が進出してきたがこれを撃退した。この日(もしくは29日)夜、歩兵第64旅団長は独立歩兵第21大隊(残存者約100名)を安波茶南の経塚の西方高地に転進させ、同地の守備につかせた。
 第32軍司令部はこの日の戦況を次のように報告した。

一 幸地以東変化ナシ 幸地以西首里飛行場ニ敵ノ一部(戦車二〇、歩兵三〇〇)侵入一三〇高地[前田南側高地]側背ヲ攻撃シ来ルモ砲兵火力ニ依リ阻止シアリ
  城間附近ノ我カ一部八四高地[沢岻西北側]ニ転進ス
  其ノ他依然現戦線ヲ確保敢闘中ナリ
二 敵機ノ来襲 本島延二五〇機
三 〇八〇〇艦船状況 計一四二隻

(上掲戦史叢書)

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射爆撃により破壊された街 首里だというがその面影はない 45年4月30日撮影(なお、この時期に米軍は首里に到達していないので、撮影日については若干疑問がある):沖縄県公文書館【写真番号74-30-1】

ヒトラーの自殺とナチスの降伏

 ヒトラーはこの日、ベルリンの総統官邸地下壕で自殺した。ヒトラーの自殺ならびにムッソリーニの逮捕と処刑は5月1日には日本に伝わった。また、すでに4月29日、上海発電でナチス・ドイツの降伏説が流れていることと、ムッソリーニが逮捕されたことが報じられており、世界情勢なかでも欧州情勢は風雲急を告げていた。

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ヒトラーの死とムッソリーニの刑死を記す45年5月1日の大本営の機密戦争日誌:アジア歴史資料センター Ref.C12120327500 「機密戦争日誌」其10

 この日開催された最高戦争指導会議は、「独屈服ノ場合ニ於ケル措置要綱」を決定した。そこでは

一 方 針
 独屈服ノ場合ニ於テハ国内的動揺ヲ抑制スル如ク指導措置スルト共ニ愈一億鉄石ノ団結ノ下必勝ヲ確信シ皇土ヲ護持シテ飽ク迄戦争ノ完遂ヲ期スルノ決意ヲ新ニスルモノトス

(戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉)

などとされ、あくまで日本一国でも戦争を継続するとことと、国内あるいは東アジアにおける動揺を防ぎ、米英とソ連を離間させるなど連合国内の対立を煽るなどと決定した。
 特に軍中央はソ連の動向、すなわち対日参戦の有無について神経をとがらせていたが、それとともに国民の世論や不満などにも軍は関心を抱いており、「独屈服ノ場合ニ於ケル措置要綱」には

(四) 治安維持
 (イ) 反戦乃至和平的気運擡頭ノ虞アルヲ以テ此際言論及策動ニ対スル取締ヲ強化スルト共ニ其他不穏策動ヲ防遏スルタメ機宜ノ措置ヲ構ズ
 (ロ) 海外ヨリノ各種謀略策動ニ対スル警戒取締ヲ厳ニス
 
(同上)

などとも記されている。どことなく沖縄戦の秘密戦的な雰囲気が漂っており、おそろしいことだ。
 なお、ヒトラーの後継となったデーニッツ元帥は「対ソ抗戦、対英米降伏」を声明したが、米英は対ソ同一歩調でなければならないとした。結局ナチス・ドイツは5月8日に降伏する。こうしたドイツの情勢については、「琉球週報」などで米軍が取り上げ、心理戦の材料にしていった。

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藪の中から現れ、米第10陸軍の歴戦の軍人に食べ物と薬を求める伊江島の農民の家族 45年4月30日撮影:沖縄県公文書館【写真番号09-01-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・宇垣纏『戦藻録』下(PHP研究所)
・外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川ソフィア文庫)

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ヒトラー青年団を謁見する晩年のヒトラー この謁見からしばらくしてヒトラーは自殺する ドイツでも沖縄でも少年や青年が戦場に送られ、何も知らないまま命を落とす:写真で巡るヒトラーの人生(動画あり)