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【沖縄戦:1945年6月30日】御真影奉護隊、昭和天皇の御真影を奉焼 「家族のことよりも御真影のことを考えていた」─御真影と沖縄戦
沖縄と御真影
この日、沖縄各地の教員たちにより結成された御真影奉護隊は、沖縄各地の学校に下賜された昭和天皇の写真である「御真影」(以下、煩を避けてカッコをはずす)を、戦災からの避難先である東村の有銘国民学校手前を流れる小川付近で奉焼(焼却)した。
そもそも沖縄には1887年(明治20)、他県にさきがけて特別に沖縄県尋常師範学校に御真影が下賜され、教育勅語が渙発された年の1890年には那覇高等尋常小学校、中頭高等尋常小学校、国頭高等尋常小学校へ下賜され、翌年の1891年には宮古高等尋常小学校、石垣高等尋常小学校へ下賜されるなど、沖縄各地へ下賜されていった(なお、こうした学校への御真影下賜以前に琉球王尚泰への御真影下賜があった)。
また御真影が下賜された学校では御真影奉迎式がおこなわれ、いわゆる明治節や天長節など四大節では御真影へ敬礼する拝賀式を中心とする行事がとりおこなわれた。
戦跡と証言 名護市 御真影奉護壕 2008年10月15日放送:NHK戦争証言アーカイブス
Qプラスリポート「御真影守った男性の思い」(QAB琉球朝日放送、2018年3月27日)
空襲と御真影
米軍による日本各地への空襲がはじまっていった43年、文部省は「学校防空指針」を各学校に通達したが、そこでは
(一) 御真影、勅語謄本、詔書訳本ノ奉護
(二) 学生生徒及児童ノ保護
(三) 貴重ナル文献、研究資料及重要研究施設等ノ防護
(四) 校舎ノ防護
と定められていた。すなわち学生生徒および児童の保護よりも御真影や勅語の奉護が先んじており、御真影は人命よりも優先するべきものとして位置づけられていたのである。
実際に沖縄全土を襲った米軍による44年10月の十・十空襲では、各学校の校長らは御真影を抱えて民家やガマ、避難壕に逃げ込んだ。当時の稲嶺国民学校(名護)の教員島袋庄太郎の様子について、娘の木村敬子は「父は寝ても覚めても家族のことよりも御真影のことを考えていた」と回想しており、御真影の奉護が最重要任務として教員も認識していたのである。一方で、避難壕の天上からしずくが御真影に垂れ落ち、しみがついてしまい、これを見た警察が叱責するといった出来事もあり、校長はじめ教員らは御真影の奉護に非常に神経を使った。また御真影を避難させる際に米軍の銃撃にあい死亡する教員もいた。
この十・十空襲をきっかけに、沖縄県は御真影を一ヵ所に集め奉護させることとし、沖縄島とその周辺離島の御真影は名護の稲嶺国民学校に集められた後、名護市源河の奥深くにある大湿帯(おおしったい)集落近くに移動させられ、そこに設置された奉護施設に保管された。
また宮古支庁域では野原岳の野原越に、八重山支庁域では於茂登岳の白水山中に奉護施設が設けられ、そこで保管されたといわれるが、稲嶺国民学校にはおそらく120くらいの御真影が集められたといわれている。
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御真影奉護隊と奉護施設
御真影を奉護施設に移動させたり、奉護施設で管理する役割を負ったのが御真影奉護隊である。御真影奉護隊は、隊長に那覇国民学校長、副隊長に瀬底国民学校長、隊員に県立一中教諭など各学校の教員で結成され、県立三中生などが補助員として加わっていた。
それ以外にも奉護隊員の家族や補助員である三中生の家族、国頭地方の視学(教育行政を担う役人)、後に任命知事となる開南中学校長の志喜屋孝信、有銘国民学校の教員、警察官など、相当数の人たちが入れ替わりながら、奉護隊に関わっていた。また奉護隊副隊長である瀬底国民学校長の新里清篤の兄は、奉護隊に資金援助をしていた他、救急薬品やハブ血清などを差し入れるなど支援をしていたという。
奉護隊は、一度大湿帯の奉護施設に集められた御真影を戦況を見ながら稲嶺国民学校に戻し、3月に入って再び空襲が激しくなると大湿帯の奉護施設に移動させた。大湿帯の奉護施設は毛乳輪事務所を改装した奉護所と人工壕の奉護壕からなり、昼間は米軍の攻撃を避けるために奉護壕に、夜は奉護壕から運び出して奉護所に移動させることを繰り返したという。壕のなかは湿気がひどいため、御真影にシミをつけないための気遣いだったそうだ。
改装された奉護所は白い布で壁が覆われ、畳が敷かれ、当時にあって立派なしつらえであったそうだ。また奉護壕は男性教員が男性生徒を中心に建設され、奉護壕までの道路建設には旧羽地村の子どもが動員されることもあったという。
ただし、全ての御真影が大湿帯の奉護施設に運び込まれたわけではなく、学校やその近辺の避難場所へ避難させ、そのまま奉安された事例もあれば、奉護中に爆撃にあったり行方不明となったものもある。
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御真影の最後
地上戦から間も無くの4月7日頃、米軍は名護市街まで進出した。こうした戦況を鑑み、奉護隊は9日頃、御真影の台座をはずし、台座を奉護壕の上の祠の境内に埋めた上で、明治天皇・皇后、大正天皇・皇后の御真影を奉焼した。
奉焼は極秘とされ、大湿帯の奉護壕内でおこなわれたが、壕内は空気の流れが悪く全てを奉焼するのに大変な時間がかかったという。また奉焼にあたった奉護隊員も煙で息苦しくなり、壕の外に出て息を吸い、また壕に戻っていったそうだ。三中生による奉護隊補助員は壕付近の見張小屋にいて壕内への立ち入りを許されていなかったが、そのため奉護隊員が壕から出て呼吸をしたり、奉護壕から煙が立ち上る様子など奉焼時の様子を目撃している。実際に奉護壕には奉焼した際のススと考えられるものが附着しているが、一方でこのススをはぎ取ろうとした跡も残っている。奉焼という行為が徹底的に秘匿されていたことがわかる。
そして奉護隊は、残った昭和天皇の御真影を背負い、大湿帯の奉護施設を放棄し、さらに一山越えた山中に分け入り、有銘国民学校の御真影を奉護する避難小屋を拠点に、80日間にわたってやんばるの山中で逃避行を繰り返すことになる。
一方で、付近には村上隊長率いる第1護郷隊が拠点を構えた多野岳があるため、奉護隊は護郷隊を通じて南部を中心とした沖縄戦の戦況をある程度把握していた。また奉護隊に同行した北部山中の警察官らが軍と情報交換するなどもしていたそうだ。そうしたなかで6月29日、第32軍の壊滅が奉護隊に伝わり、翌30日を期して残る昭和天皇の御真影を焼却することになった。
奉焼場所は東村の有銘国民学校の御真影奉護所の前を流れる小川沿いとされ、ついにこの日、全奉護隊員と一部隊員の家族も集まり、皇居遥拝・国歌斉唱後、御真影を奉焼した。ある奉護隊員は「全奉護員のむせび泣く声と、頬を伝わって流れる悲痛の涙は、今も私の脳裡に深く鮮烈に、ありありと刻み込まれている。一生涯忘れることが出来ない」と回想している。
こののち奉護隊は解散となり、それぞれ山を下り、米軍に保護されていった。また宮古、八重山支庁域の御真影も最終的には奉焼された。その他、何らかの事情で大失帯に集められなかった御真影も一部あったが、それも最終的には奉焼されたと考えられる。唯一、北大東島の北大東国民学校の御真影は潜水艦で本土に移されたとも伝わっているが、本土の御真影も秘密裏に奉焼されていることから、北大東島の御真影も奉焼されたとのだろう。
1945(昭和20)年、15年戦争の最終決戦となった沖縄戦には、「御真影」を命がけで奉護した学校長はじめ教育関係者らがいた。そして県立三中生らもそのために山中をさまよい、旧羽地村の子どもたちは道普請に何日間も駆りだされた。
戦前から戦中にかけた日本の教育、特に沖縄県の教育は「御真影」を中心に動き、「御真影」に翻弄されたといっても過言ではないだろう。名護市源河の奥深く、大湿帯の山中にひっそりと眠る御真影奉護壕は、そのことを体験した「唯一の証言者」である。
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御真影奉安殿と沖縄の戦後
こうして沖縄戦において御真影はやんばる山中をさまよったわけだが、平時では御真影は学校内の一角に建てられた奉安殿(奉安室)に安置されていた。多くの奉安殿は戦災により学校とともに破壊されたが、いくつかの奉安殿が戦災を被ることのなく沖縄戦を生き延びた。興味深いことに、こうした戦禍を逃れた奉安殿について、軍政府が「芸術的」として博物館の資料にしたいと要請している。しかし民政府の側がこれを拒否し、県は46年には奉安殿の撤去を各学校に指示した。
それでもなお破壊、撤去されることなく、本部町の旧謝花小学校跡、沖縄市の旧美里小学校跡、さらに石垣市の登野城小学校内、宮古島市の池間小学校内に奉安殿が残されている。
近年、中野毅氏が戦前期の日本の宗教団体法が沖縄では72年の本土復帰まで存続していたと論文で取り上げているが、それと同様、GHQを通じた間接統治という本土とはまた異なる米軍の直接統治や施政権下にあった沖縄では、だからこそこうした奉安殿も不思議な運命によって現在まで生き延びたと思われる。
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戦跡と証言 沖縄市 美里の奉安殿 2008年4月9日放送:NHK戦争証言アーカイブス
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・川満彰「『御真影』たちの沖縄戦─御真影奉護壕からみえる戦前教育の末路」上(『季刊戦争責任研究』第69号、2010年秋季号)
・川満彰「『御真影』たちの沖縄戦─御真影奉護壕からみえる戦前教育の末路」下(『季刊戦争責任研究』第70号、2010年冬季号)
・中野毅「沖縄占領と宗教法人─宗教団体法は生きていた」(『ソシオロジカ』第37巻第1・2号、2013年)
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