18日の戦況
摩文仁司令部右翼では、独立混成第44旅団は組織的戦闘の終焉を迎えていたものの、混成旅団司令部はじめ残存部隊は米軍に包囲されながらも必死の抵抗を続け、独立歩兵第12大隊および第13大隊も多大の損害を生じながらも米軍の摩文仁方面への突進を阻止するため奮闘したが、戦力はほぼ尽きていた。
6月15日の時点で独立歩兵第12大隊の戦力は1個中隊約30名程度で2個中隊、大隊本部などを含め大隊長以下約100名というものであり、その上まともな兵器もないなかで、米軍の突進を防ぐことなど到底不可能であった。
摩文仁司令部中央では、第24師団が防戦に努めていたが損害続出し、米軍は新垣北側高地、真栄平北東地区、158高地南側に進出してきた。
摩文仁司令部左翼では、歩兵第22連隊が真栄里、歩兵第32連隊第1大隊が国吉、歩兵第32連隊本部ならびに同第3大隊が真栄里東方台地で孤立無援の状態のなかで抵抗を続けていた。
第32軍は八重瀬岳を拠点とする司令部東部方面の防衛線を維持するため第62師団を投入するなど努力を続けたが、既に戦力の尽きた第62師団ではどうすることもできず、八重瀬岳を放棄し第62師団藤岡師団長の意見具申通り、与座岳を拠点に現在の戦線を抵抗線とせざるをえなかった。
藤岡師団長が命じた部署要領は具志頭ー米須の線の右に歩兵第63旅団の二個大隊(独立歩兵第12大隊ならびに第14大隊)を、左に歩兵第64旅団の三個大隊(独立歩兵第15大隊、第21大隊、第22大隊)を配置し、独立混成第44旅団は与座、仲座を拠点に、全滅するまで防戦するというものであった。
この日夜、第62師団藤岡師団長は摩文仁司令部へ移動し、隷下の各隊を司令部周辺に配置した。
八原高級参謀はこの日の戦況を次のように回想している。
第32軍司令官の訣別電
第32軍牛島司令官はこの日、参謀次長および第10方面軍司令官宛てに次の通り訣別電を打電した。
バックナー司令官の戦死
この日、現糸満市真栄里の小高い丘の上から島尻方面の戦況を視察していた米第10軍バックナー司令官が戦死した。日本軍の砲撃が直撃したとも、砲撃の衝撃で飛んできた岩に当たったともいわれる。
バックナー司令官の戦死について、米軍の公式の戦史では次のようにある。なお[ ]内は引用者による注記、補足である。
バックナー司令官は19日には埋葬されたが、日本側も19日にはバックナー司令官の戦死を把握する。第32軍司令部には21日ごろにバックナー司令官の戦死の情報がもたらされ、司令部は一時、戦闘に勝利したかのように明るい雰囲気になったという。
またバックナー司令官の戦死の報は本土にも19日にはもたらされ、第5航空艦隊宇垣司令長官も同日の日誌に「沖縄陸上最高指揮官中将バックナー、十八日我が砲弾に見舞われめでたく成仏せりと言う。喜ぶは三二軍のみにあらざるべし。沖縄の敵出血大なるに鑑み実情調査の要を説く米人も出でニミッツとの間に泥仕合を演ずとも伝える」と記している。
このように現地軍も本土の航空隊も敵司令官の戦死に欣喜雀躍したが、牛島司令官だけはバックナー司令官戦死の報に喜ばなかったという。
バックナー司令官は米ケンタッキー州生まれ。1908年米陸軍士官学校を卒業し、アリューシャン列島作戦などを指揮した。44年8月に第10軍司令官に着任し、沖縄戦の総司令官であった。父は南北戦争時に南軍の将軍を務め、後にケンタッキー州知事も務めた人物といわれる。
バックナー司令官を失った米軍部隊は日本側への憎悪を募らせ、この日より数日にわたり、民間人を壕から押し出した上で射殺するなどの虐殺行為を働いている。憎悪、復讐、報復のための住民虐殺であったといわれる。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・宇垣纏『戦藻録』下巻(PHP研究所)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
トップ画像
前線で戦況を視察する米第10軍バックナー司令官 この写真が撮影された数分後に戦死したといわれる 45年6月撮影:沖縄県公文書館【写真番号99-13-3】