【沖縄戦:1945年4月9日】「いまいましい丘」─嘉数高地の戦いはじまる 「爾今沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」─沖縄戦とスパイ
「いまいましい丘」─嘉数高地の戦い
昨夜の第62師団の夜襲は、特別の戦果もなく、この日朝から米軍は、第32軍主陣地帯全線で攻撃を継続し、激戦が展開された。
米軍第96師団第383連隊を主力とする米軍部隊はこの日払暁、第32軍の主陣地帯である嘉数高地へ接近してきた。
嘉数高地は、文字どおり高台であり、米軍が展開している普天間方面を広く見渡せるとともに、正面に比屋良川が流れて堀となっているなど、天然の要害であった。さらに第32軍は、そうした地の利のある嘉数高地に堅牢なトーチカや地下陣地を構築し、米軍の首里方面への南下を防ぐ第一線陣地の主陣地としていた。
この方面を守備する第32軍部隊は、第62師団独立歩兵第13大隊(原宗辰大隊長)であったが、米軍が常用戦法である準備射撃を行わず突如進出してきたため、朝6時ごろ同大隊が米軍の来襲を知った時には、既に米軍は嘉数北側および嘉数高地西側70高地(現在の嘉数4丁目の高地)の頂上付近に進入しており、同大隊と米軍はただちに激烈な接近戦となった。
原大隊長は、迫撃砲の支援の下に果敢な反撃を行い、10時ごろには米軍を撃退し、夕刻には嘉数北側高地を確保した。嘉数西側70高地に進出した米軍も撃退し、同高地を奪回した。
歩兵第63旅団中島徳太郎旅団長は、棚原高地付近に配置されていた独立歩兵第272大隊(下田直美大隊長)を嘉数高地の同第13大隊に増援として配属し、大隊は翌9日昼間嘉数付近移動し嘉数の戦いに参加した(旅団司令部は仲間にあり、仲間北側高地から嘉数付近は眼下に見ることができた)。
この戦闘において独立歩兵第13大隊の第1中隊は、青木中隊長以下戦死傷し、中隊の戦闘力はなくなった。また、これまでの戦いで大隊の戦力も極度に低下していた。
嘉数高地一帯には、独立歩兵第13大隊のみならず、同第14大隊や迫撃砲部隊なども配置され、全方位から米軍を攻撃した。特に第32軍は「反斜面陣地」といわれる戦法を採用し、米軍を苦しめた(高地の斜面のうち敵に面していない斜面に陣地を構築し、敵から見えない状況で敵を攻撃する戦法)。嘉数高地の戦いは以降約2週間にわたり繰り広げられ、米軍は1日に1メートルしか前進できない日もあったといわれ、嘉数高地を「いまいましい丘」と呼ぶなど、嘉数高地の戦いは沖縄戦の最激戦の一つとなった。
嘉数高地で戦い、苦しめられたのは米軍だけではない。米軍の猛烈な火力の前に、第32軍各隊も壊滅していったし、防衛隊や民間人も戦闘に巻き込まれ、急造爆雷を背負って戦車に飛び込む自爆攻撃を強制させられた。また嘉数周辺には多くの住民が取り残され、戦闘に巻き込まれ犠牲となっていった。嘉数高地の戦いについては、これから少しずつ記していくことになるだろう。
嘉数高地の戦いを経験した渡部真信さん:NHK戦争証言アーカイブス
その他の主陣地帯の戦況
独立歩兵第14大隊に配属された独立歩兵第12大隊正面の142高地(棚原北東)は、この日米軍の猛攻をうけたが、激戦ののち撃退した。
我如古正面では、前進してきた米軍を我如古南東の陣地、および西原高地陣地からの攻撃により阻止した。
和宇慶北西1キロの155高地(下図には和宇慶北西に165高地と記されているが、あるいはそこが155高地ではないだろうか)はこの日朝から艦砲、迫撃砲などの集中火と戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけ、激戦を繰り返した。同高地付近の陣地には独立歩兵第14大隊の第5中隊主力が配備されていたが、この日夜までに独立歩兵第12大隊第4中隊、同第5大隊が増強されていた。激戦の末、高地頂上は米軍に占領されたが、部隊はなお高地斜面の墓地などに籠り頑強に抵抗を続けた。
沖縄北部の戦況
沖縄北部ではこの日、空と海からの攻撃の支援をうけながら米軍が本部半島に進出してきたが、護郷隊と思われる部隊が伊豆味付近に進出してきた米軍に対し猛射をくわえて前進を阻止した。また有力な米軍部隊が乙羽岳北東の仲宗根付近にも進出するとともに、一部の米軍が運天港に上陸した。
牛島司令官はこの日、沖縄北部の戦況を次のように大本営に報告している。
米軍偵察隊はこの日、第3遊撃隊(第1護郷隊、村上治夫隊長)が拠点としている沖縄北部タニヨ岳にも進出してきた。このため午前9時ごろ、第3遊撃隊第1中隊の第1小隊(松田小隊長)はタニヨ岳北北東1.5キロの喜納股付近に進出してきた米軍約30名を攻撃した。これにより志伊良分隊長が戦死し、小隊はタニヨ岳の後方拠点に撤退した。村上隊長はただちに現場まで急行したが、米軍の兵員が約100名ほどまで逐次増加しているのを見て、攻撃を断念し部隊位置の秘匿に努めた。
また同じく9時ころ、タニヨ岳北北西2キロを警戒中の第2中隊の山川小隊は、仲尾次方面から侵入してきた米軍約50名と交戦し、山川小隊長が負傷、2名が戦死した。
名護岳の第1中隊の拠点もこの日、米軍約30名と交戦し3名が戦死した。村上隊長は名護岳の拠点は名護町に近いため秘匿が困難であるとし、第1中隊をタニヨ岳南西1キロの川上開墾付近に移動させた。
また、この日、大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊(特務隊)のうち、沖縄島に配備された部隊(剣隊)の北一郎隊長がタニヨ岳北北東4キロの源河付近で負傷した。北隊長はその後回復するが、再び負傷し戦死した。
特務隊(剣隊)は、文字通り大本営陸軍部直轄で沖縄各地に送り込まれ、防諜、諜報などをおこなうとともに、沖縄の戦況を常に大本営に無線通信し、万一の際には遊撃戦を展開する部隊である。北隊長以下メンバーは陸軍中野学校出身の諜報要員であり、米軍に占領されてなお諜報活動をおこなうことを予定していた。そして護郷隊同様、ここにも少年兵たちが動員されていた。
元護郷隊少年兵東江平之さんの証言 4月9日の戦闘の証言も出てくる:NHK戦争証言アーカイブス
「沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」
この日の第32軍の「球軍会報」には、炊事場への出入り、食事の配給時間、トイレの使用など壕内生活の細かい決まりごとを記すとともに、次のように記す。
と発した。
第32軍は、「スパイ」(以降、煩を避けカッコを外す)を極度に恐れ、防諜について異常なまでに注意警戒していたことは何度も触れ、部隊の陣中日誌などに見えるスパイへの恐れや住民スパイ視について取り上げてきた。
そもそも牛島司令官が着任時の訓示で「防諜ヲ厳ニ注意スベシ」と説いており、各部隊でも「管下ハ所謂『デマ』多キ土地柄ニシテ又管下全般ニ亘リ軍機保護法ニ依ル特殊地域ト指定セラレアル等防諜上極メテ警戒ヲ要スル地域」などの注意がなされている。
こうした防諜の徹底の背景には、1944年以降、沖縄に急速かつ大規模に部隊が送り込まれ、民家が将兵の宿舎となるなど軍民の距離が異常に近くなったことや、住民を軍事動員したことにより軍事機密に住民が触れる機会が多くなったことなどがある。
また沖縄への歴史的な蔑視、偏見も防諜の徹底に結びついていった。すなわち軍は、明治以降、沖縄について「本県下一般ノ軍事思想ハ不充分ナリ」「国家思想ノ薄弱ナル」「皇室国体に関する観念徹底しからす」「排他的」「猜疑心を増し」などと分析しており、こうした歴史的な沖縄への蔑視・偏見が住民スパイ視を生んでいった。あるいは沖縄では移民が活発で、ハワイ帰りの移民経験者などが多かったことも防諜の警戒につながったと考えられる。
事実、国頭支隊秘密戦機関「国士隊」が「外国帰朝者特ニ第二世、第三世ニシテ反軍、反官的言動ヲ為ス者ナキヤ」と移民者やその家族を要警戒人物と見ていたわけだが、これについては既に触れたとおりだ。
そして何より、島嶼戦などにおいて住民を利用し、またそのために防諜に気をつけるように様々な教令が存在していることも忘れてはならない。住民を利用し、また住民を警戒し、防諜を徹底することが軍の「マニュアル」だったのである。
こうした背景のなかで、戦況が緊迫していくと、住民スパイ視が徹底していき、「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」との命令につながっていったと考えられる。
摘発、処刑された「スパイ」
住民がスパイとして摘発され、なかには処刑された事例も存在している。以下、すでに触れた部分と重複しているところもあるが、あらためて述べたい。
米軍情報部は常々、日本軍の暗号通信を解読し、それを分析して各隊に配信していた。この配信は「マジック」といわれるのだが、前日8日付の米マジックには、沖縄の海軍部隊である海軍沖縄方面根拠地隊の7日の発電として、次のように記されている。
沖縄戦直前、米軍は、沖縄出身者を米軍上陸日に地上軍とともに道案内をかねて上陸させてはどうかという案もあったようだが、危険が大きすぎるとして見送られている。つまり米軍は沖縄でスパイ活動やこれに類似する情報収集、偵察活動を行っておらず、ここで摘発されたスパイは、おそらく一般の住民だったと思われる。米軍を迎え撃つ日本軍の住民スパイ視は、戦況の緊迫も相まってピークに達しており、住民が避難のために移動したり、あるいはよくわからず陣地内部を見るなど軍事機密に触れてしまったことをもって、スパイとして摘発、そして処刑していったのだと思われる。
その他、沖縄南部に配備され、湊川方面からの米軍上陸を警戒していた第24師団歩兵第89連隊第5中隊の陣中日誌にも次のようなスパイ情報が記されている。
こうしたスパイ摘発は、ある種のパニック状態に陥った末端の兵士による突発的な事象としてすまされるようなものではなく、第32軍司令部においてもスパイの摘発と処刑がおこなわれている。八原高級参謀の戦後の回想には、次のようにある。
「女スパイ」は沖縄戦におけるスパイ像の一つの典型であり、若い女、あるいは外国人で、何か派手な外見的特徴(例えば「赤いスカーフをしている」など)をしている、そして恥毛を剃っているなど性的な話題も盛り込まれたりしているのが特徴である。
その他、沖縄各地で様々なスパイの摘発、処刑が繰り返される。国頭支隊の敗残兵による渡野喜屋事件や久米島の鹿山隊による住民虐殺など、事例はつきない。これらについては、またあらためて触れることになる。
沖縄を守るための戦いではない沖縄戦にかり出された沖縄の人々が、日本兵によりスパイとされ処刑されていったことを思うと、やりきれなさと贖罪の思いで胸がつまりそうである。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)
・地主園亮「沖縄戦における住民と日本軍の関係についての一考察─住民のスパイ視における兵士の対応を中心に─」(『史料編集室紀要』第30号)
・同「沖縄県民の戦場動員と第三十二軍の防諜対策」(同26号)
・我部政明「沖縄戦争時期のスパイ(防諜・間諜)論議と軍機保護法」(『沖縄文化研究』第42号)
・三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
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地下の砲床を発見した戦車と海兵隊員:沖縄県公文書館【写真番号86-25-2】(siggraph2016_colorizationにてカラー化)