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【沖縄戦:1945年5月25日】沖縄県庁および沖縄新報が南部撤退 「禁闕御守護の局限的任務」─皇居炎上と阿南陸相の辞意

25日の戦況

 24日夜間、義烈空挺隊による義号作戦がおこなわれ、25日未明から朝方にかけて米軍は混乱が続き、北、中飛行場は使用不能に陥っていたが、首里をめぐる地上戦の状況は特段の変化はなかった。
 首里司令部南東の与那原方面では、西進を目指す米軍部隊に対し、所在の海軍勝田大隊、特設第3連隊、第2歩兵隊第3大隊などは与那覇付近でこれを阻止した。
 雨乞森から南下した米軍は、この日与那原の南東2キロの高地付近に進出した。
 首里司令部南西の那覇方面では、米軍は壺屋町付近の特設第6連隊を攻撃してきたが、同連隊はこれを撃退した。首里西側の松川正面にも戦車を伴う米軍が進攻してきたが、独立第2大隊第2中隊、独立混成第15連隊第3大隊、第62師団輜重隊(特設警備第223中隊属)などが善戦して撃退した。
 首里北方では接戦が繰り返されたが、大きな変化はなかった。

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破壊された日本軍の砲座と荒廃した那覇の街 45年5月25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号114-19-2】

第62師団の退却攻勢決定

 第32軍牛島司令官はこの日、与那原方面の米軍の進出を阻止しつつ、第62師団主力を首里地区に転用し、悪天候と泥濘による米軍の行動が低調となっている機に乗じて与那原方面へ退却攻勢をとり、米軍に痛撃を与えてこれを与那原以北に撃退し、なお引き続き首里防衛線を保持することを決定した。
 軍司令官は第62師団長に以下の部隊を配属し退却攻勢をとるよう命じるとともに、第24師団長に独立歩兵第22大隊を配属し、首里正面の第62師団の守備地域の防衛を担任させた。

第62師団配属部隊
独立歩兵第272大隊(独立歩兵第14・第15大隊に分属)、同第273大隊、戦車第27連隊、特設第3・第4連隊、独立機関銃第4大隊、独立速射砲第22大隊、独立速射砲第32中隊、独立迫撃砲中隊数個、重砲兵第7連隊、船舶工兵第23連隊

 なお第62師団北島作戦主任参謀が激務により病臥したため、師団の要請により軍司令部の薬丸情報参謀が同師団に派遣された。

 退却攻勢
 二か月間の固定した首里戦線は、今や大きく動かんとしている。野戦の機動的術策を試むべき機会が到来しつつあるかに感ずる。この際、何か打つべき手はないか。退却を意識しつつも、長い間の動きの乏しい陣地戦から解放される喜びが、私を野心的な戦術的考案に熱中させた。
 あった。あった。今こそ、与那原を突破、わが右側背に侵入しつつあるアメリカ軍に、退却攻勢を実施すべき絶好の機会である。彼我の態勢を、五万分の一図上に記入して大観すればすぐわかるように、現在戦線の大部は、第二十四師団と混成旅団が担当し、第六十二師団は、一部をもって狭小な首里正面を守備し、その主力は首里市内の陣地に集結し、態勢を整理中である。この師団主力をこそいま活用すべき秋なのだ。
 第六十二師団を、直ちに津嘉山を経て与那原西南地区に転進させ、敵の突破口の南翼を東北に向かい、攻撃させ、第二十四師団の右翼部隊は、これに協力し、北方より南方に向かい敵を圧迫攻撃させる。軍砲兵隊も、衰えたりといえども、地域狭小な与那原に火力を集中すれば、敵に与える脅威は少なくないはずである。加うるに、わが軍待望の雨季が、数日来沖縄の島を襲い、道路も山野も泥濘と化し、戦車は滑って行動至難、自動車をもってする弾薬その他の軍需品の第一線への輸送が、困難を極めている。悪天のために、飛行機も意の如く飛べず、空中観測も利かぬから、敵艦隊ならびに地上砲兵の射撃も乱射乱撃に陥り易い。
 実に、今こそ進んで、局地的攻勢をとるべき好機である。もしこの攻撃が功を奏しなくても──もちろん不成功の公算が大きいかも知れぬ──喜屋武半島に退却する軍主力の右側背に殺到せんとしつつ脅威を除去し、軍全般の退却行動を安全かつ容易ならしむる利益は大である。
  [略]
 さて、この攻勢に任ずべき第六十二師団司令部においては、作戦主任参謀北島中佐が二か月間の不眠不休の激務に体力消耗し、病臥するに至ったので、軍参謀を一名増派してくれとの注文である。長野をと思ったが、参謀長は彼は貴官の補佐で欠かせぬだろうから薬丸を差し向けよと申されるので、再び薬丸が出かけることになった。ただたび彼に、危険な任務を課するは、ちょっと気がひけたが、鼻柱が強く、常に攻勢を主張する彼にとっては、今回の任務を打ってつけとも考えられるので、参謀長の申される通りとした。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

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休憩する海兵隊員 夥しい数の砲弾の薬きょうのようなものが印象的である 45年5月25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号83-31-2】

宮古・八重山の戦況と英国艦隊

 この日、45年3月末より都・八重山諸島(先島諸島)への空襲を連日繰り返していた英国艦隊が作戦を終了し、シドニーへと帰港を開始する。
 約2ヶ月間の作戦で、英国艦隊は計985トンの爆弾を投下し、戦艦などは計200トンの砲弾を撃ち込んだ。その間にはアイスバーグ・ウーロンといわれる台湾への空襲をおこなうなどした。
 航空機の撃墜や航空特攻により英国艦隊の被害も少なからず、英空母4隻に特攻機が命中し被害を出した他、撃墜や着艦時の事故などで約150機が失われ、戦死者も出た。平和の礎には英国人戦死者82人の名前が記されている。
 英国艦隊は7月中旬より再び日本近海に展開し、各地への空襲や艦砲射撃をおこなっている。

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先島諸島近海で給油をうける英国太平洋艦隊の艦船 撮影日不明:沖縄県公文書館【写真番号106-35-2】

沖縄県庁・沖縄警察・沖縄新報の南部撤退

 軍の首里放棄・南部撤退の決定にともない、真和志村真地の県庁・警察壕(シッポウジヌガマ)から島田知事および県庁職員らがこの日、壕を出て南部撤退を開始した。島田知事以下沖縄県庁ならびに警察は真地から東風平の野戦重砲兵第1連隊壕に移動し、その後は高嶺村大城森の壕、兼城の秋風台、伊敷の轟の壕と転々とすることになる。
 また県はこの日、内務省にガマや壕内で避難する県民の窮状を伝える電文を打ったといわれる。この電文は島田知事と荒井警察部長の協議で作成されたもので、「六十万県民ただ暗黒なる壕内に生く。この決戦に敗れて皇国の安泰以て望むべくもなしと信じ、この部下と相ともに敢闘す」などと記されているという。

県庁壕【NHK沖縄放送局「戦跡を歩く」放送日 2008年5月7日】

県警県庁壕【NHK沖縄放送局「戦跡を歩く」放送日 2010年9月29日】

 また沖縄戦時、首里の沖縄師範学校鉄血勤皇隊陣地壕「留魂壕」を拠点に戦況を報道しつづけた沖縄新報はこの日未明、ついに新聞発行を停止し組織を解散、社員約30人はそれぞれ食糧や現金を分け合い、4~5人が1組となり数組に分かれて南部へ撤退した。
 沖縄新報はもともと那覇市に本社があったが、45年4月の米軍上陸後は留魂壕に印刷機や紙、無電設備などを運搬して移り(45年3月末に移ったともいわれる)、壕内で新聞発行を継続した。
 沖縄新報記者は米軍の攻撃の合間を縫って軍や県庁の壕に移動し、取材し、新聞を作成した。そうして壕内で発行された新聞は、警察官や兵士、学徒隊、翼賛壮年団のメンバーなどが各市町村の役所や住民の壕をまわり、配達された。
 戦時において沖縄新報は戦況を報じ、住民の戦意を鼓舞する翼賛報道を繰り返すのみであり、沖縄新報の発行停止、解散にあたっても、第32軍情報参謀である薬丸参謀に相談するなど、あくまで軍のプロパガンダの道具となり、紙面は翼賛報道に終始した。しかし、それでも沖縄戦時、命がけで新聞発行を継続したことは驚嘆に値する。

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首里の日本軍陣地にて爆発(発光)する米軍の砲弾 45年5月24日~25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-08-2】

新聞報道より

 この日の大阪朝日新聞は沖縄の戦況を次のように報じている。

戦艦等七隻撃沈破、荒鷲、艦船群を反復猛攻
 沖縄戦況
【南西諸島基地特電二十四日発】我が航空部隊は二十二日深更から二十三日早朝にかけて沖縄附近海域の敵艦船群に対し数回に亙り反復攻撃を加へ、伊江島附近海面において敵輸送船、駆逐艦各一隻に大型爆弾の直撃を与へ、これを轟沈、更に他の一隊は久米島附近海面で航行中の敵戦艦その他の艦船に対し果敢なる雷撃を敢行、戦艦の後尾に魚雷を命中せしめて撃破、他の艦種不詳三隻にもそれぞれ魚雷を命中させて撃破した、尚二十三日沖縄列島線に対する敵機の来襲は延二百六十機であった

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

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前線へ弾薬を運ぶ途中、日本軍狙撃兵により一時的に足留めを食らった水陸両用トラクター 45年5月24日~25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-23-1】

5月の東京大空襲と阿南陸相の辞意

 3月に東京の下町地区を中心にB-29が大空襲をおこなったが、4月から5月初頭まで米軍の沖縄攻略作戦に協同し、B-29は西日本の航空基地への空襲などをおこなっていたが、このころより都市空襲を再開するようになった。また、このころの空襲の特徴は、B-29ばかりでなくB-24との大型・中型の戦略爆撃機が連合しつつ、白昼堂々の空襲などがおこなわれるようになったことである。さらに港湾などへの機雷投下や焼夷弾による無差別空襲なども目立つ。
 東京では単機から十数機程度のB-29が連日飛来し、偵察や投弾などをおこなっていたが、21日には上空から伝単といわれる宣伝ビラを撒布するなどした。23日未明、少数のB-29が焼夷弾を投下し、折からの強風で麻布地区や浅草地区などが焼けた。
 そして24日未明、B-29約250機が八王子方向から東京上空に飛来し、約2時間にわたり焼夷弾攻撃をおこなった。これにより東京の残存市街地がほとんど焼けたが、特に品川・荏原・渋谷などで被害が大きかった。また皇居や赤坂御所の一部、東久邇宮や朝香宮など宮邸も被災した。
 25日の昼間も硫黄島を出撃したP-51約60機が工場などを攻撃したが、夜になると昨日に引き続きB-29約250機が低空で東京上空に進入、焼夷弾攻撃をおこなった。折からの強風により一大火流が残存地区を焼いたという。25日の空襲では皇居の大宮御所や秩父宮邸、三笠宮邸も焼け、帝都防衛の最終責任を負うとして阿南陸相が辞意を表明するも、天皇がこれを慰留する事態までになった。
 沖縄でどれだけ犠牲者が出ようが、東京市民の家が焼けようが何でもないが、阿南の言葉でいう「禁闕御守護の局限的任務」に失敗し皇居や皇族邸が焼けると途端に責任問題となるところに、この戦争の本質の一端を見るものである。

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昨夜の義烈空挺隊の強行着陸により被害をうけた北飛行場 後方は空挺隊の重爆機、手前は空挺隊員の遺体 45年5月25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号73-31-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)

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戦況を伝える沖縄新報:那覇市歴史博物館所蔵【資料コード02006096】【ファイル番号009-03】