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【沖縄戦:1944年7月7日】独立混成第44旅団の沖縄上陸─武器もなく頭や手に包帯を巻いたボロボロの軍隊 サイパン陥落と沖縄県民の疎開

独立混成第44旅団の沖縄配備

 独立混成第44旅団(鈴木繁二旅団長)および同第45旅団(宮嵜武之旅団長)は、沖縄はじめ南西諸島の防衛の基幹部隊とされ、6月上旬に九州および四国で編成、6月20日ごろ九州に集結し、沖縄派遣の日を待っていた。
 大本営は6月24日にサイパン奪回作戦を中止したが、サイパンの戦況悪化に伴い、このころには沖縄が急速に最前線と化していった。しかし沖縄はいまだ基幹部隊が到着しておらず、裸同然の状態であったため、これ以降、両旅団をはじめ各兵団、部隊の沖縄への配備がおこなわれる。
 両旅団の旅団長は5月22日に先行して沖縄に到着していたが、独立混成第44旅団の各部隊を中心に、独立混成第45旅団の各部隊や宮古島陸軍病院などの部隊約4600人が乗船した「富山丸」は6月25日に沖縄に向けて鹿児島を出港した。

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米軍による攻撃により戦死した日本兵の遺体 サイパンにて 44年撮影:沖縄県公文書館【写真番号26G-2648】

富山丸の遭難とボロボロの軍隊

 そして沖縄に向けて航行中の29日、富山丸は徳之島沖で米軍の潜水艦から三発の魚雷をうけた。一発目の魚雷で甲板上の人や物はすべて吹き飛び、三発目の魚雷で船尾がハッチから割れて沈没したという。富山丸の船底には弾薬など大量の軍需物資が積まれていたため、炎上しながら沈んでいったという。また海に流れ出た重油に火がつき、海そのものが燃えたといわれる。
 ちなみにであるが、富山丸の遭難については、那覇から東京に暗号で連絡されたが、その通信内容が米軍側に記録として残っている。つまり米軍は日本の暗号通信の傍受、解読に成功しており、当時の沖縄─東京間の情報は米軍に筒抜けであったといえる。
 この遭難事故により約3700人もの将兵が犠牲になったが、一命をとりとめた者は奄美大島の古仁屋で一時収容され、そのうちの独立混成第44旅団第2歩兵隊宇土武彦大佐以下約400名がこの日、那覇に到着した。
 宇土大佐と宇土大佐率いる第2歩兵隊の主力は、旅団命令により沖縄北部の守備を命じられ配置につく(この部隊は軍では国頭支隊と呼称され、住民からは宇土部隊と呼ばれた)。名護の人々は大通りに整列して北部へ進軍する宇土部隊を出迎えたが、乗馬する宇土大佐こそ凛々しい姿であったものの、それ以外の将兵は徒歩、武装も軍刀と銃が半々というように武器も貧弱であり、なかには頭や手などに包帯をしている兵士もおり、そのボロボロの姿は、徳之島沖で敵の潜水艦にやられたらしいという噂もあって、痛ましいものがあったそうだ。

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富山丸同様、米軍の攻撃により沈没した戦時遭難船舶である台中丸:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02005945】

宇土武彦という人

 宇土部隊を率いた宇土大佐は、宮古島に配備された第28師団の師団長である納見敏郎中将と同期であり、第32軍参謀長の長勇中将は後輩にあたる。このように宇土大佐の昇進は若干遅く、それにも何か理由があるとは思うが、とにかく沖縄では評判の悪い軍人だった。
 例えば宇土大佐は、沖縄北部で女性を何人も囲い、毎日のように酒色にふけっていたといわれる。八重岳の宇土部隊は米軍に包囲されると陣地を放棄して逃亡するが、その際も宇土大佐は女性を連れていたといわれる。宇土大佐を「憎らしい隊長」と直截に侮蔑する地域住民の証言もあり、投降後の収容所で宇土大佐は下級兵から報復のリンチをうけていたともいわれる。リンチを肯定するわけではないが、リンチされるような理由もあったのだろう。
 宇土部隊の兵士たちも朝鮮半島出身の軍属、いわゆる「朝鮮人軍夫」をささいな理由で虐待するなど、かなり悪辣な兵士が多かった。また八重岳を撤退してやんばるの山中に逃げ込んだ宇土部隊の兵士たちは、渡野喜屋事件はじめ住民虐殺や食糧強奪をおこなっている。
 一方で、米軍側の資料では宇土大佐の戦闘指揮は高く評価されている。八重岳で宇土部隊と戦った部隊は、後にシュガーローフ・ヒルの激戦を戦う海兵隊部隊だが、その部隊が宇土大佐の戦闘指揮を評価していることは純軍事的な視点ではそれ相応の意味があるともいえる。
 また宇土大佐は八重岳を早々に放棄して逃亡したことが非難されるのだが、それでは八重岳で徹底抗戦し、多くの人を巻き込んで「玉砕」していればよかったのかといえば、そういうことでもない。宇土部隊の大部分の兵士は現地召集兵であり、宇土大佐が「玉砕」戦法をとれば、結果としては沖縄住民の被害が拡大していた。もっとも鉄血勤皇隊を置き去りにして一目散に逃亡するなど、宇土大佐の振る舞いを全て肯定することはできないが、宇土大佐が逃亡したことによって多くの人が救われたことも事実である。

県外疎開の緊急閣議決定

 この日、日本軍のサイパン島守備隊が万歳突撃を敢行、組織的戦闘が終結した。サイパン奪回作戦を中止した大本営が沖縄の第32軍の兵力増強を急いだことは上述の通りだが、このころより軍中央は南西諸島における疎開の検討をはじめた。
 軍中央がサイパン作戦を断念した44年6月24日頃、大本営陸軍部真田第一部長は「南西諸島女三一万、上/七迄ニ二万、下/七~上/八ニ二万、計っ四万ハ移レル」と7月上旬までに南西諸島の女性を2万人、同月下旬から8月上旬までにもう2万人、疎開可能などと日記に記している。また真田第一部長はこのころ沖縄に派遣される長勇に「球ノ非戦闘員(女子供老人)ノ引揚ノ事」について調査研究するよう指示している(球とは第32軍の兵団文字符)。実際、この日の陸軍省課長会報には、軍務課長が「沖縄軍司令官ヨリ国民引揚ゲノ意見具申アリ、本日ノ閣議デ認可スルナラン」と記されており、この日の閣議につながっていく。
 そして政府はこの日、沖縄と奄美諸島の老幼婦女子を7月中にも県外疎開させると緊急に閣議決定し、沖縄県に通知した。ただし、あくまで軍の要請に基づき政府が決定した疎開であり、疎開する人数や疎開先などは明示されていなかった。沖縄県は急いで疎開の準備をすすめ、7月21日には第一陣の県外疎開者752人が鹿児島に上陸した。しかし、そのほとんどは本土出身者であり、疎開というよりも郷里への引き揚げであった。
 7月26日に沖縄県から内務省に提出された文書によると、食糧確保のため、また防衛上の措置のため第32軍から県外疎開の要請があり、協議の結果、「軍ノテ足纏トナル老幼婦女子等約十万人」を疎開させることに決定したとあり、疎開はあくまで口減らしであり、足手まといの者の排除であった。

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疎開先の宮崎で農作業に従事する沖縄の国民学校児童:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02005948】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第1号(琉球新報2004年7月7日)
・原剛『沖縄戦における住民問題』(錦正社)

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サイパン島で米軍に保護された日本人家族 サイパンには多くの沖縄出身者が移民しており、あるいはこの家族も沖縄出身者なのかもしれない 44年7月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111SC-392669】