【沖縄戦:1945年6月9日】粟国島に米軍上陸 「沖縄戦ノ失敗ハ琉球人ノ『スパイ』行為ニ因ル」─森脇中尉の沖縄脱出と大本営への戦訓報告
9日の戦況
摩文仁司令部右翼の独立混成第44旅団正面は、戦車16両を伴う米軍の攻撃をうけ、同旅団の第2歩兵隊第3大隊が守備する新城南側の警戒陣地は包囲され多大な損害をうけた。
具志頭台地の独立混成第15連隊第1大隊にも一部の米軍が攻撃をしてきたが、夕刻にはこれを撃退した。安里北側の同連隊第3大隊’(混成旅団中地区隊である独立臼砲第1連隊の指揮下)の主陣地前にも米軍は逐次浸透してきた。
鈴木混成旅団長はこの日夜、第2歩兵隊第3大隊に後退を命じ、大隊は日付がかわるころより3~5名ずつ組となって敵中を突破し仲里付近に撤退し混成旅団の予備隊となった。同大隊は大隊長以下80名程度まで戦力が減少していた。
摩文仁司令部左翼では、照屋、糸満付近の前方部隊の陣地が米軍の攻撃をうけたが、これを撃退した。
なお混成旅団は、米軍戦車に対する速射砲(対戦車砲)や連隊砲(山砲)は1門もなく、旅団砲兵の10センチ榴弾砲3門があるのみであり、混成旅団は軍砲兵隊による対戦車射撃と爆薬の補給を要請した。軍砲兵隊は最大限、混成旅団の要請に沿うよう努力したが、通信状況も悪く、軍砲兵隊自体の能力も低下しており、思うようにはいかなかった。
軍は混成旅団の守備する摩文仁司令部右翼の戦況を憂慮し、司令部の周囲を守備する第62師団藤岡師団長に対し、二個大隊を随時混成旅団に増加できるよう待機させるとともに、師団全力をもって司令部右翼混成旅団方面に展開できるよう準備を命令した。
海軍部隊の戦闘
小禄、豊見城地区では海軍沖縄方面根拠地隊と米軍の激戦がつづき、特に海軍司令部東部および南部からの米軍の攻撃が強まり、現豊見城市宜保付近の陣地は早朝から米軍の攻撃をうけ、この日15時過ぎには占領された。また海軍司令部西部では金城、赤嶺、宇栄原方面に米軍が深く進入した。
海軍沖方根はこの日、次の戦闘速報を発している。
粟国島の戦争と離島残置諜者
米軍はこの日、那覇北西60キロの洋上に浮かぶ粟国島に上陸した。艦砲射撃と機銃掃射の支援の下、約1000名の米海兵隊を中心とする部隊が上陸し、60人前後の住民が死傷したといわれる。米軍はこの日のうちに住民を保護し、収容した。米軍は上陸後、民家に放火し、柱や壁板などを薪として使用するため家屋を破壊するなどした。
粟国島には日本軍部隊は配置されていなかったが、粟国国民学校訓導として佐々木一夫を名乗る陸軍中野学校出身諜報要員の鈴木清十郎少尉が離島残置諜者として送り込まれていた。
鈴木は粟国島上陸後、村会議員の上原康雄の家で暮らすようになった。鈴木の主な任務は米軍上陸後に遊撃戦を展開することであり、実際に粟国国民学校教員の上原栄吉は鈴木が「スパイ道具」を持っていたと証言するが、このような島では米軍の前に多勢に無勢であり、鈴木は最初から遊撃戦をするつもりもなかったようで、鈴木が米軍上陸前に住民を集めて遊撃訓練をおこなったこともなかったという。鈴木は米軍上陸時やそれ以降もこれといった行動をおこすわけでもなく、46年1月には島を脱出し、米軍に投降したといわれる。
波照間島の山下虎雄のような残虐、悪辣な離島残置諜者もいれば、与那国島の宮島敏朗や仙頭八郎、そして粟国島の鈴木のように必ずしも残虐、悪辣とは言い難い離島残置諜者もいたことは事実である。
なお粟国島には、在郷軍人会の主導で島のいくつかの箇所に木製の擬装砲が設置されていたが、これが米軍に狙われた理由の一つともいわれる。威嚇はそれ以上の威嚇や本当の攻撃を招くということは、現代においても理解しておくべきことだろう。
奇しくもこの日の海軍電報には、沖縄戦の戦訓として次のように記されている。
擬装、偽装は「何等役ニ立タズ」。この海軍電報は当然粟国島の擬装砲のことをいうものではないが、いずれにせよ擬装、偽装は粟国島では役に立たないどころか逆効果ですらあった。現在でも沖縄では自衛隊の配備が強化されているが、こけおどしは役に立たないどころか攻撃を誘発する可能性がある。貴重な沖縄戦の戦訓である。
森脇中尉の沖縄脱出と沖縄県民「スパイ」視
森脇中尉の沖縄脱出
第32軍司令部付の森脇弘二中尉(森脇の階級については戦史叢書では大尉と表記されているが、研究者によっては中尉とするなどバラバラであるため、差し当たり八原高級参謀の手記に従って中尉とする)はこの日、牛島司令官から「沖縄作戦の教訓を大本営に報告すべし」との命令をうけ、司令部を出撃し沖縄脱出を目指した。
森脇中尉の司令部出撃について、八原高級参謀は次のように回想している。
神参謀の沖縄出撃とともに森脇中尉の沖縄出撃が決まり、この日森脇中尉に指示されたようだ。後に京僧参謀にも司令部出撃が指示されるが、京僧参謀にはきちんと命令が伝わらなかったともいわれる。いずれにせよ森脇中尉は司令部を出撃し、防衛召集の漁夫とともに摩文仁付近の海岸からクリ船で出発し、久高島、浜比嘉島、東村慶佐次、国頭村安田を経由して28日に与論島に到着した。その後、沖永良部島、徳之島、奄美大島と大発動艇などを駆使しして移動し、ついに7月14日に東京へ到着した。
森脇報告と沖縄県民「スパイ」視
森脇中尉の戦訓報告そのものは現在確認できないが、終戦直後の第89回帝国議会貴族院(45年12月13日開会「衆議院議員選挙法中改正法律案」特別委員会)の速記録に沖縄出身の男爵伊江朝助議員の発言が記録されており、そこに森脇中尉の言動についての言及がある。
森脇中尉は6月25日夜に浜比嘉島を出発し、同夜東村慶佐次に到着するが、浜比嘉島を出発する際に海軍の連絡員の下士官二名が同行した。議事録における上地という海軍二等兵曹は、この浜比嘉島から同行した海軍下士官のことかと思われる。いずれにせよ議事録によると、上地はじめ沖縄県民の尽力で森脇中尉は徳之島まで到着したのだが、そこで森脇中尉が「今囘ノ沖繩戰ノ失敗ハ琉球人ノ「スパイ」行爲ニ因ル」と報告したというのである。これを聞いた上地は刺違えようと思うまで憤慨したという。さらに森脇は九州を経由して上京したため、九州各地に沖縄県民「スパイ」視がひろまり、九州に疎開している沖縄県民が脅迫されたということもあったという。
沖縄県民への蔑視は古くからあり、森脇報告はそうした蔑視、差別視が戦時において必要に応じて再生産されたものともいえるが、同時に事実として「沖縄県民が『スパイ』行為を働いたから戦争に負けた」というのは明らかに虚言であり、森脇報告は軍人によるある種の責任転嫁であるとともに、本土決戦のため沖縄を「生贄」とし、敵がい心を煽り、さらには「本来であれば勝っていた」と士気を鼓舞するためのデマであったともいわれている。
なお森脇中尉が記した「沖縄脱出記」には、沖縄脱出のため準備をしているころの出来事と思われるが、森脇中尉についた海軍兵曹長が「今からスパイを斬って来ます」などと森脇にいい、森脇が「御苦労さん、拳銃を貸そうか」と会話したことなどが記されているという。
森脇の手記には続けて、その海軍兵曹長が軍刀で「スパイ」とされる男を一人斬って傷を負わせ、女二人を斬り殺したとも記されているそうだ(この海軍兵曹長は上地海軍二等兵曹とは異なると思われる)。軍による住民「スパイ」視と住民虐殺の典型例であり、虐殺者の側の証言として貴重であるとともに、森脇中尉自身の沖縄住民「スパイ」視が根深いものであったことも伺わせる。
新聞報道より
この日の大阪朝日新聞は、この日に開会される帝国議会の臨時議会について次のように報じている。なお記事には8日に議会が召集されたとあるが、開会そのものは9日である。
この臨時議会についてはまた別に取り上げたい。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦─知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・我部政男「沖縄戦争時期のスパイ(防諜・間諜)議論と軍機保護法」(法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』第42巻)
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南部に撤退した日本軍陣地を焼き払う米軍火炎戦車 45年6月19日:沖縄県公文書館【写真番号85-36-2】