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【沖縄戦:1945年8月29日】「天皇陛下の命により米軍の方に行く」─歩兵第32連隊約300名が米軍に投降 第1回沖縄諮詢会開催

生き延びた歩兵第32連隊

 第32軍が首里司令部を放棄し南部へ撤退して以降、第24師団歩兵第32連隊(北郷格郎連隊長)は摩文仁司令部防衛線の左翼の守備を担っていた。具体的には現在の糸満市の国吉台地と同東側地区、そして真栄里東側を陣地として占領し、洞窟などを拠点としていた。
 米軍の南下に伴い、同連隊第1大隊が拠点とする国吉台地の洞窟陣地は6月15日から、連隊本部や第3大隊が拠点とする真栄里東側の洞窟陣地は18日から米軍の馬乗り攻撃をうけるようになった。部隊は米軍の爆薬攻撃や火炎放射により多数の死傷者を生じ、武器弾薬、食糧や水も欠乏しながらも頑強に抵抗をつづけた。
 第32軍が壊滅した23日ころより米軍の攻撃が緩和し、夜間はほとんど米軍の作戦行動がないため、同連隊はこれを利用して部隊間での連絡をとり、さらに食糧の確保や弾薬の補充、陣地の補強などをした。そして北郷連隊長は7月末から8月初頭にかけての国頭地区への転進を決意したが、後刻これを翻意し、現在地を保持することを命令した。

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首里放棄・南部撤退後の沖縄南部島尻地区の部隊配備図 緑枠・緑線が歩兵第32連隊関連:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

軍旗焼却、武装解除へ

 ポツダム宣言受託を告げる昭和天皇の「玉音放送」後、8月18日には米軍機から日本が無条件降伏した旨を記す宣伝ビラが撒布され、22日には先刻捕虜となっていた日本軍下士官の案内のもと、米軍将校が同連隊第1大隊(伊東孝一大隊長)本部を訪れ、伊東大隊長に武装解除を求めたため、伊東大隊長は明後日24日までに返答する旨を述べた。伊東大隊長は連隊本部にて事情を報告し北郷連隊長以下協議の結果、伊東大隊長を軍使として派遣し日本降伏の事実を確認することにした。

歩兵第32連隊第1大隊伊東孝一大隊長の証言:NHK戦争証言アーカイブス

 24日、米軍将校が再来したため、伊東大隊長は米軍司令部を訪れ終戦の詔勅の録音を聴取したり、各種ニュースを確認するなどした。また、すでに米軍の捕虜となっていた八原博通高級参謀とも会い、仮収容所で一泊した。
 八原高級参謀は伊東大隊長との面会について、次のように回想している。

[略]八月二十三日、歩兵第三十二連隊大隊長伊東大尉が数名のアメリカ将校に伴われ、私の面前に現われた。彼は私の生存に驚いたであろうが、私もまた驚いた。喜屋武主陣地帯の枢要拠点を守備していた連隊が、連隊長以下大隊長まで生存しているというのだから驚くのも当然である。当時の戦場の実相を知る者は皆不審に思うだろう。しかしこれも不思議がる要はない。同連隊のもう一つの大隊である志村大隊が軍の最大拠点であった前田高地の洞窟に長期生存し得たと同じく、連隊主力も潜伏するに好適な洞窟と食糧に恵まれていたからである。部隊に大小の差こそあれ、こうした例は珍しくなかった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 翌日、連隊本部に帰還した伊東大隊長はこれまでの報告をおこない、ついに連隊長は武装解除に応ずることを決意した。そして28日夜、連隊旗を焼却する「軍旗奉焼式」をおこない、この日に武装解除、北郷連隊長以下約300名が米軍に投降した。
 この際、北郷連隊長は米軍に対し、「天皇陛下の命により、米軍の方に行くがよろしく頼む」との旨の挨拶を述べた。連隊の将校が「降伏」の言葉を嫌ったためといわれる。彼らは「あくまで自分たちは降伏したわけでなはい」と自己正当化していたのだろうか。
 1896年(明治29)編成、日露戦争やシベリア出兵、満州事変などに派遣された歴戦の「精鋭部隊」である歩兵第32連隊は、あまりに無責任で卑怯な終焉を迎えたのであった。
 なお、この日、伊東大隊長は投降した米軍に連れられたのか、北上原で北部突破を伺っていた第32連隊第2大隊のもとを訪れ、状況を説明し、降伏を説いた。第2大隊志村大隊長は米軍のジープに乗ってやってきた伊東大隊長の話を簡単には信じず、副官を派遣し状況を確認させた。翌日、戻ってきた副官と伊東大隊長の説得をうけて投降を決意し、第2大隊は9月3日に武装解除、投降したという。

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第32連隊北郷連隊長および奉焼した軍旗(連隊旗) 軍旗は一度授与されると基本的には新たに授与されることはないため、画像のように戦闘のなかでボロボロとなり、旗のふちだけが残り、真ん中が滅失しているのが通常であったといわれる:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

沖縄戦と歩兵第32連隊について:NHK戦争証言アーカイブス

第1回沖縄諮詢会

 これまで2回開催された仮沖縄人諮詢会や住民代表者会議を経て15人の諮詢会委員が選出されたが、この日いよいよ15人の諮詢会委員による第1回沖縄諮詢会が開催された。その結果、諮詢会委員長として県立第二中学学校の校長や開南中学校の創立者である志喜屋孝信氏が、幹事に松岡政保氏が就任した他、総務部や財務部など各種専門部会の部長が決定された。専門部会の部長は次の通りであった。

総務部:又吉康和、財務部:護得久朝章、法務部:前上門昇、教育部:山城篤男、文化部:當山正堅、公衆衛生部:大宜見朝計、社会事業部:仲宗根源和、労務部:知花高直、水産部:糸数昌保、農務部:比嘉永源(永元とも)、保安部:仲村兼信、通信部(逓信部とも):平田嗣一、商工部:安谷屋正量、工務部:松岡政保(兼任)

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・小林武「占領最初期の沖縄の統治構造─『沖縄諮詢会』についての分析を中心に─」(『愛知大学法学部法経論集』第201号、2014年)

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投降後、捕虜服を身にまとい米兵と会話をする日本兵 45年4月撮影:沖縄県公文書館【写真番号99-05-4】