ポツダム宣言受託と「玉音放送」
この日正午、ポツダム宣言受託の旨を説く終戦の詔書を昭和天皇みずから読み上げる「玉音」がラジオ放送された。いわゆる「玉音放送」である。
1941年(昭和16)12月の対英米開戦より数えて足かけ5年、1931年(昭和6)9月の柳条湖事件・満州事変より数えて足かけ15年、アジア太平洋地域を戦場とし、およそ世界中を敵にまわした日本の戦争がここに一つの終わりを迎えた。
昭和天皇、終戦の玉音放送(2015年8月1日宮内庁発表版):NHK戦争証言アーカイブス
ポツダム宣言そのものは、すでにこの年の7月26日、米英蒋(蒋介石政権、中華民国)の三ヵ国の宣言として発せられていた。宣言の内容は、次の通りである。
これに先立ち日本は、ソ連に米国との講和を仲介してもらおうと様々に画策しており、近衛元首相を特使としてソ連に派遣することまで計画していたが、ソ連から講和の仲介を取りつけるに至ることなく、ここにポツダム宣言として米英蒋より決定的な降伏勧告、最後通牒が発せられたのであった。ポツダム宣言にはスターリンの署名こそないが、スターリンが参加したポツダム会議において発せされた宣言であるだけに、ソ連に講和の仲介を依頼していた日本の落胆も大きかったことだろう。
ポツダム宣言発出の翌27日、最高戦争指導会議が開催され、ポツダム宣言についての日本の態度が議論された。外交当局を中心に政府方面はこれを受け入れる他ないと考えつつも、一方的なステートメントでしかないとし、なおソ連の仲介に期待を寄せ、しばらく様子を見ることを主張した。他方、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏と武装解除、戦争犯罪人の処罰などをいう内容であることから、軍統帥部の反発は強かった。軍統帥部は強硬姿勢を打ち出し、抗戦の号令を発すべきだとしたが、鈴木首相や東郷外相の反対もあって、ひとまず外交当局を中心とする様子見のスタンスに落ち着いた。
しかし日本のメディアは28日、こうした日本のスタンスについて、ポツダム宣言を「政府は黙殺」と表現し報道してしまった。東郷外相は「黙殺」との表現は問題であるとして鈴木首相に注意を促したが、軍統帥部のポツダム宣言への反発はなお強烈なものがあり、東郷外相から注意を促された鈴木首相は軍統帥部の反発をうけいれるかたちで、同日、メディアとの会見においてみずから宣言を「黙殺」と発言してしまい、これが放送されるとともに、30日には首相談話として報道された。この「黙殺」の首相談話は、原爆投下やソ連の対日参戦に利用されることになる。
そして8月6日、広島に原爆が投下され、ついに日本はポツダム宣言受託に傾き始める。原爆の惨状と米国の強硬な態度が徐々に明確になっていった8日、鈴木首相と打ち合わせた上で東郷外相が宮中に参内し、昭和天皇に現状を説明したといわれる。昭和天皇はその際、速やかに終戦の措置を講ずるよう指示したそうだ。これをもって東郷外相は至急、最高戦争指導会議を開催するよう鈴木首相に伝えたが、会議の開催は翌日となった。
翌9日、最高戦争指導会議が開催され、ポツダム宣言受託について議論されたが、受託にあたっての条件付与をめぐり紛糾し、この日夜半の御前会議において昭和天皇が皇室の問題以外に条件を付さず宣言を受託するとの意思を述べ、大勢は決した。その上で10日早朝にはポツダム宣言受託の旨が連合国側に通知された(第一次受託通告)。また9日にはソ連の対日参戦がはじまり、長崎にも原爆が投下された。
12日には連合国側より第一次受託通告に対する回答文(バーンズ回答)が発せられ、いわゆる「国体護持」、すなわちこの回答における天皇制の維持の問題に対する解釈と意思表示について再度紛糾したが、14日の御前会議でポツダム宣言受託(バーンズ回答の受託)が最終確認され、連合国側に第二次受託通告がなされた。続いて終戦の詔書について閣議で検討され、昭和天皇が終戦の詔書を読み上げる録音がなされた。また、この日夜には各部隊に「ポツダム宣言受託について、15日正午に昭和天皇よりラジオ放送がある」との軍報が発せられた。
そしてこの日正午、ラジオより「玉音」が放送されたのであった。
ちなみにポツダム宣言受託・降伏決定の主因となったのは原爆投下かソ連参戦か、長い間歴史家の論争の的となっている。具体的には、原爆投下を主因とする麻田貞雄とソ連参戦を重視する長谷川毅の論争がよく知られているが、どちらか一方がということでもなく、両方の要因が絡み合いながら宣言受託・降伏決定へと動いていったといえるだろう。
他方、そうした外的要因ばかりでなく、国内的にも戦局の悪化に伴う天皇制批判、天皇批判が激化しつつあり、内側からの「国体」の崩壊の危機に瀕する中で、その危機を回避し「国体」を護持するために宣言受託・降伏決定に至ったという国内的要因も無視することはできないだろう。
[証言記録 兵士たちの戦争]昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ:NHK戦争証言アーカイブス
それぞれの8月15日
沖縄に関連すると、例えば八重山の独立混成第45旅団(八重山旅団)は14日、台湾の第10方面軍より終戦が内報されるとともに、傍受していたロイター通信によりポツダム宣言受託の情報に接した。旅団司令部は情報が錯綜し、混乱状態となったが、とにかく降伏の情報は内密にすることになった。この日、終戦の詔勅をうけて旅団司令部は徹底抗戦や自決といった言葉が飛び交い騒然となったが、旅団長の宮嵜武之少将が終戦の詔勅を読み上げ、将兵の自決を厳しく禁じ、全ての部下を一人残らず帰郷させる責任があることを強く説いた。
宮古島でも第28師団司令部にて「玉音放送」をラジオで聴取し、軍が発行していた「神風」なる情報紙(隔日刊)が翌16日、一面トップで「戦争終結の大詔発せられる」などと報じた。
久米島では米軍が具志川国民学校の奉安殿にラジオを設置し、「玉音放送」を流したといわれる。これにより鹿山正率いる久米島の海軍部隊も当然、終戦の事実を知ったことであろうが、それでも鹿山隊はこれ以降も住民殺害を続ける。
沖縄北部の護郷隊は、一ツ岳の剣隊(大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊、特務隊、特務班、剣隊などと呼ばれる)より終戦の報を聴取し、事態を把握した。
ラサ島(沖大東島)では昼のラジオ放送を聴取していたところ、終戦を知ったといわれる。ラサ島守備隊長森田芳雄中尉は戦後、次のように回想している。
住民に変装し米軍に保護投降されていた第32軍八原博通高級参謀は、このころの状況を次のように回想している。
前田高地の戦いを奇跡的に生き延び、前田の洞窟で息を潜め続けた第24師団歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)は、このころ前田高地から棚原、北上原を経由して国頭方面への脱出を企図していた。そのため志村大隊に配属されていた外間守善氏は、このころ国頭方面脱出のため北上原で米軍トラックを奪取する「自動車分捕り作戦」の準備をしていた。外間氏は次のように回想している
九州の鹿屋基地で沖縄方面航空特攻作戦を指揮実行していた海軍第5航空艦隊宇垣纒司令長官はこのころ大分基地に移っていたが、「玉音放送」に接し、みずから航空部隊を率い、沖縄方面に特攻出撃することを決した。この日17時ごろ、宇垣長官ひきいる「彗星」11機は沖縄洋上へ向けて離陸、19時24分機上より訣別電が、20時25分「我奇襲ニ成功ス」との信号が発せられた。
宇垣長官は『戦藻録』という日記を綴っていたが、『戦藻録』のこの日の日記には次のように記され、閉じている。
収容所でも住民たちがそれぞれの「8月15日」を迎えた。
また後の「琉球新報」となる「ウルマ新報」はこの日、「渇望の平和 愈々到来!!」との見出しで、ポツダム宣言の受託や広島への原爆投下などを報じた。
仮沖縄人諮詢会の開催
この日、石川地区に沖縄島39ヵ所の収容所から128人の住民代表が召集され、第一回仮沖縄人諮詢会が開催された。ニミッツ布告により海上交通は封鎖されており、周辺離島からの参加はなかった。また開会式がおこなわれる会場で「玉音放送」が流れて参加者に衝撃が走ったが、むしろ「新沖縄建設」の使命感を燃え立たせたという。
会議にあたり、軍政府副長官のチャールズ・I・ムーレー大佐による「ムーレー大佐の声明」といわれる以下の声明が発せられた。長文ではあるが、以下に全文を掲載する。
こうして沖縄諮詢会の結成と住民の政治参加の方針が声明された。そこで第一回仮沖縄人諮詢会では諮詢委員候補を選ぶために20人が推薦され、この20人が諮詢委員候補者として24人を選出した。閉会後、各地区ではかり、20日に15人の諮詢委員が決定、29日には志喜屋孝信を委員長として沖縄諮詢会が設置された。戦後の沖縄で最初の住民による中央政治機構が誕生したのであった。
ただし沖縄諮詢会が直接に行政をおこなうものではなかった。沖縄諮詢会は文字通り「諮詢」の会であり、軍政府の諮問に応じるものでしかなく、米軍の許す範囲の自由を与えられたに過ぎなかった。それでも諮詢会は女性参政権の実現を熱心にすすめるなど、46年4月22日に沖縄民政府が樹立されるまでの約8ヶ月という短期間ではあったが、自治と民主主義を展開していった。
参考文献等
・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・小林武「占領最初期の沖縄の統治構造─『沖縄諮詢会』についての分析を中心に─」(『愛知大学法学部法経論集』第201号、2014年)
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号、2008年)
・山田朗「研究ノート 日本の敗戦と大本営命令」(『駿台史學』第94号、1995年)
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45年8月14日の御前会議の様子 白川一郎画