【沖縄戦:1945年4月27日】前田高地で激戦つづく 「スパイ」として殺されかけた老人─外間守善氏の回想より
第二防衛線の攻防
米軍は早朝から第二防衛線全線で攻撃を開始し、各所で激戦が展開された。
前田高地頂上付近は昨日に引き続き日米の争奪戦が繰り広げられ、戦車を伴う米軍部隊は前田北東高地から前田集落付近に進入占領し、前田高地を背後から攻撃した。前田高地付近の守備隊は苦戦しながらも高地頂上および南斜面を確保した。
幸地および小波津正面にも戦車を伴う有力な米軍部隊が来攻したが、守備隊はこれを撃退した。しかし米軍の一部は幸地西方の120高地付近(現在の首里石嶺4丁目、沖縄自動車道沿いの高地か)に進出してきた。
城間地区の陣地は戦車を伴う有力な米軍の攻撃により壊滅状態となり、残存部隊は屋富祖東側の58高地付近の陣地に撤退した。
日本軍の総反撃
浦添丘陵の左のほうで、山なみが急に南西に曲がっているところがあり、ここで、第三八一歩兵連隊の第一大隊と、第三八三連隊の一部は、四月二十七日、第七六三戦車大隊と第七一三火炎砲装甲車隊の支援を得て、一五〇高地一五二高地のあいだのくぼ地を進撃していった。米軍はいつものとおり戦車──歩兵戦術で、数時間の血みどろな戦闘をつづけた。装甲車や戦車の火炎砲が火を吐いて、前面から陣地を攻撃し、幾百の日本兵が、逃げようと壕から出るところを、歩兵や戦車が機関銃でやっつけた。
戦車と歩兵軍は、さらに、前田南端に進入したが、ここでは猛烈な反撃にあって、進撃できなくなってしまった。丘の上にトーチカがあったのだ。このトーチカは地中深く堅固につくられ、これがF中隊とG中隊の合流をはばんでいたので、このトーチカの乗っ奪りに、米軍は集中攻撃を加えた。だが、この試みも失敗におわった。もちろん日本軍は、多数の犠牲者を出したが、それでもこの日、米軍としては、一五〇高地と一五二高地ちかくの前田で、わずかばかり進撃した以外は、一つの土地さえも長時間、占領しているというわけにはいかなかった。
(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)
第32軍はこの日の戦況を次のように報じた。
一 敵ハ一部ヲ以テ翁長、呉屋方面ヨリ来攻セルモ我集中砲火ニ依リ多大ノ損害ヲ与ヘ之ヲ撃退セリ 爾後同方面敵ノ動向活発ナラス
又早朝ヨリ前田、仲間附近ニ対スル敵ノ攻撃ハ昨日ニ比シ更ニ猛烈ニシテ其ノ一部ハ前田南側ニ進出シ工事ヲ実施中ナリ 当面ノ敵兵力戦車二十数輌、歩兵一、〇〇〇
右ニ呼応シ歩兵二、五〇〇~三、〇〇〇、戦車十数輌西海岸道方面ヨリ来攻シ其ノ一部ハ南飛行場ニ侵入セリ
二 〇九一七~一六四七ノ来襲機 本島三二〇機
三 〇七〇〇ノ艦船状況 計二一七隻
(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)
グアムで治療をうける負傷者を運ぶ陸軍輸送隊 45年4月27日:沖縄県公文書館【写真番号04-70-1】
第24師団の動向と摘発された「スパイ」
第24師団長はこの日、隷下の歩兵第32連隊北郷連隊長に前田高地への進出を命じるとともに、歩兵第22連隊吉田連隊長に対し、歩兵第32連隊と連携し前田東方高地の占領を命じた。両連隊の戦闘地境は首里城址と114.5北方高地西方300メートル鞍部を連ねる線ということなので、現在のわかりやすい建物でいうと、首里城とゆいレールてだこ浦西駅をつなぐ線が戦闘地境といえるだろうか。歩兵第22連隊長は、同連隊の左第一線の第2大隊に前田東方高地の占領を命じた。
第24師団の歩兵第32連隊第2大隊(志村常雄大隊長、志村大隊)はこの日10時ごろ、前田高地占領の連隊命令を首里東側の弁ヶ岳付近(現在の県立開邦高校付近)において受領した。
志村大隊長は敵情不明により将校斥候四組を逐次派遣し、大隊主力はこの日夕方、弁ヶ岳付近を出発し、首里北端から宜野湾街道を沿って前田集落南側に到着した。この際、先遣の将校斥候とは連絡がとれなかった。また弁ヶ岳出発にあたって独立速射砲の小隊とも連絡がとれず、同地に残置している。
志村大隊長は敵情地形を観察したが、夜間ための判然としなかった。大隊長は右第一線の第7中隊、左第一線の第6中隊、大隊予備の第5中隊をもって前田南側稜線に向かって攻撃をおこなったが、猛烈な反撃をうけ死傷者が続出したため攻撃を中止した。
歩兵第32連隊長はこの日夜、第3大隊を率いて首里北側の大名東側(平良)付近に進出し、前田攻撃の準備をしたが、志村大隊との連絡は途絶していた。
戦後、沖縄学研究の第一人者となる外間守善氏は、当時、沖縄師範学校の生徒であったが、現地召集され志村大隊の機関銃中隊に配属されていた。外間氏は26日よるからこの日未明にかけて、志村大隊の一員として辨ヶ岳を出て前田高地まで宜野湾街道を進軍していたところ、次のような出来事があったと記している。
当之蔵町から坂を下りて儀保町に出、宜野湾街道を二〇〇メートルほど進んだ頃、先導兵より前に索敵斥候に出ていた兵たちが、一人の老人をひきずるように連れて来て、スパイらしいと大隊長に報告した。大隊長がいろいろ問いただすが老人は錯乱気味だった。大隊長の命令で私が方言で問いただすと少し落ち着いたらしくポツンポツンと答えだした。米軍の戦車が前田集落に入ってきたので家の壕から逃げだしてきたという。その旨を大隊長に伝えると大隊長はさらに問いただしてやっと納得したらしく、ただの地方民だから放免してやれといっていきり立つ古年兵たちをなだめて事なきを得た。首里方面に逃げていく老人のうしろ姿を見送りながら、無事に南部にさがってくれと祈る気持ちだった。
(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫)
偶然にも外間氏がその場にいて、沖縄の言葉で会話したこと、また志村大隊長が古参兵をなだめたことによりこの老人は命を長らえることができたが、一歩間違えれば「スパイ」として殺されていたことだろう。また何事もなく放免されたとはいえ、南部に行くまでの道中、あるいは南部で戦禍に巻き込まれ、この老人は命を落とした可能性もある。いずれにせよ軍が民間人を守るために存在していないことは、この外間氏の回想からも明確である。
沖縄戦時、こうした軍による住民「スパイ」視とこれによる虐殺などの事例は枚挙に暇がないが、住民「スパイ」視が発生する要因について、地主園亮「沖縄戦における住民「スパイ」視について─既刊行物をもとに─」(沖縄県教育委員会『史料編集室紀要』第25号、2000年)は、いくつかのパターンに分類している。例えば、
(1)食糧強奪など将兵による犯罪などの正当化
(2)戦場における不審人物
(3)米軍捕虜や投降
(4)住民同士の対立
(5)朝鮮人差別など社会のなかの排他性によるもの
(6)米軍に敗れたことの責任転嫁
などとなる。外間氏の事例は(2)戦場における不審人物と考えることができるが、不審かどうかの判断のとっかかりは個々の兵士の判断に任せる他なく、不審でもなんでもない一般住民を「不審だ」と思う兵士の心理の背景には、沖縄の言葉やこれまでの歴史、文化に基づく沖縄の人々への根本的な蔑視、偏見があることはいうまでもないだろう。
スパイの判断基準と成りうる文書に『対諜報網強化に関する件』がある。『対諜報網強化に関する件』には 「時刻ハ主トシテ前夜半二多ク避難民ヲ装 ヒタルモノハ中頭ヨリ避難シアルヲ告ゲテ洞窟ノ所在及部隊位置ヲ聞ク」 という基準が示されている。これは沖縄戦当時、中頭の住民の一般的な避難の様子と酷似している。具志頭村の第八十九連隊において避難民の 「スパイ」視による殺害がおこっている。「泡瀬から南部へ避難してきた桑江という男性が、首里の司令部が落ちたのち具志頭へ移動している第八十九連隊によりスパイとして捕らえられ殺害された。」 という事例である。この場合は結局 「スパイ」 として殺害されたが、捕らえられたときにはこの基準がある程度影響を与えていたのではないか。
この類型は、命令としてスパイの判断基準が示されたりしているが、「スパイ」 として捕らえるかどうかは歩哨などに立ち、直接住民と接することになる兵個人の判断に委ねられる。そのため各兵の沖縄人に対する認識に大きく影響される部分も多分にあるため、 日本兵の沖縄人観というものがはっきりとみえてくるのである。
(地主園亮「沖縄戦における住民「スパイ」視について─既刊行物をもとに─」〔沖縄県教育委員会『史料編集室紀要』第25号、2000年〕)
沖縄の住民と話す海兵隊ミラー中佐 住民の身なりのいい洋装で、話し相手も佐官であることから、あるいは名の知れた人だろうか 45年4月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号78-07-1】
第32軍司令部の指揮とその他の戦況
独立混成第44旅団の部隊抽出
第二防衛線で米軍と対峙する第62師団は、戦線保持のため独立歩兵第23大隊や同第273大隊などを抽出したため、首里、天久、那覇方面の兵力が手薄となっていた。これをうけて軍司令官はこの日、沖縄南部知念半島方面に配置されていた独立混成第44旅団(鈴木繁二旅団長)から2個大隊を抽出して第62師団に増加することを決めた。これをうけて独立混成第44旅団長はこの日、次のように命令した。
独混四四旅作命甲一〇五号
独立混成第四十四旅団命令 四月二十七日二〇〇〇 高平
一 北方陸正面ニ於ケル我カ第一線部隊ハ勇戦敢闘中ナルモ局部的ニ波瀾アリ
二 旅団ハ球作命甲第一八七号ニ基キ丙一号作戦ヲ実施スルト共ニ丙二号作戦ヲ準備セントス
三 南地区隊長ハ速カニ丙二号作戦ヲ準備スルト共ニ独立混成第十五連隊ノ一大隊(五号無線一属)ヲ本二十七日日没後行動ヲ開始セシメ首里西側地区ニ前進シ第六十二師団長ノ指揮下ニ入ラシムヘシ
四 独立第三大隊(五号無線一属)ハ本二十七日日没後行動ヲ開始シ首里西側地区ニ前進シ第六十二師団長ノ指揮下ニ入ルヘシ
[略]
(上掲戦史叢書)
この命令により独立混成第15連隊第1大隊は那覇北方の天久に、独立第3大隊は国場に転進し、第62師団歩兵第64旅団長の隷下となった。
軍主力の首里周辺地区集結企図
また司令官はこの日、29日を期して軍主力を首里周辺地区に集結することに決し、およそ次のように各隊を部署することを関係方面に電報した。
方 針
首里周辺地区ニ主戦力ヲ集結シ戦略持久態勢ノ教化ヲ図ルト共ニ機ヲ見テ決戦ノ敢行ヲ企図ス
部署
一 右ヨリ第二十四師団主力、第六十二師団全力を併列、現第一線ニ於テ敵ヲ攻撃シ一斉ニ破摧ス
二 独立混成第四十四旅団ヲ安里、国場、那覇間ニ転進
[略]
(上掲戦史叢書)
また、これに関連し、海軍沖縄方面根拠隊大田司令官は、次のように電報を発した。
二八一六一四番電
四月二十九日ヲ期シ全陸軍部隊ハ首里ヲ中心トシ新緊縮配備ニ移ルコトトナレリ 本職ハ新ニ配属セラルル陸軍ノ一部(船舶基地隊等)ヲ指揮下ニ入レ小禄村、豊見城村ノ一帯ノ地域ノ防備ヲ担任シ小禄、糸満飛行場ノ確保ニ任ゼントシ陸上戦闘ニ対スル万端ノ準備ハ着々トシテ完成全員士気軒昂タリ
(上掲戦史叢書)
こうした方針に基づき、軍司令官はこの日、独立混成第44旅団主力と歩兵第89連隊主力の北方転回を命じた。
前田付近の統一指揮
日米の激戦地となっている前田高地など前田正面の防衛責任は、第62師団の歩兵第63旅団にあったが、同旅団は米軍の猛攻の前に戦力を低減させており、第24師団の歩兵第32連隊の主力および歩兵第22連隊の一部を前田方面に投入したことはすでに述べた。
その上で軍司令官は前田正面を第24師団の防衛責任とし、歩兵第63旅団を第24師団長の指揮下とすることを第62師団長に内示したが、第62師団長は歩兵第63旅団の戦力が消耗しきっているいま、最後まで本属師団長の下で戦わせたいなどとして固辞したため、前田ではあくまで各隊が協同関係のまま戦闘をつづけた。
海上挺進第28戦隊の出撃
海上挺進第28戦隊は、3月末に湊川および奥武島付近から大城付近に移動し、待機していた。
同戦隊はこの日および翌28日夜、第3中隊小林中隊長の指揮する二群の特攻艇部隊が具志頭付近から中城湾に向かって出撃した。ただし戦果不詳である。
同戦隊主力は29日、大城付近から豊見城南側の高安に移動した。
沖縄県の動向
第32軍司令部は4月24日、首里周辺の住民に対し29日ごろまでに南部へ避難するよう命令したが、これにより沖縄県はこの日、県庁機能が移っていた真地(識名園)の壕において南部地区の17人の市町村長と各珪砂s津所長、荒井警察部長および県首脳、そして島田知事が出席し市町村長会議を開催した。
会議では戦場行政として必勝の信念および敵愾心の高揚、避難民の受け入れ、壕の増強、食糧増産、「スパイ」の発見逮捕などが決まった。特に島田知事は住民の食糧の確保を強く訴えたが、「スパイ」云々が県の会議の議題でも出ているところに当時の「空気」が感じられる。なお県は5月1日、こうした戦場行政の完遂のため島田知事を総帥とする沖縄県後方指導挺身隊を結成し、同月6日に豊見城村長堂に挺身隊本部を設置することになる。
戦跡と証言 沖縄県那覇市 県庁壕:NHK戦争証言アーカイブス
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・地主園亮「沖縄戦における住民「スパイ」視について─既刊行物をもとに─」(沖縄県教育委員会『史料編集室紀要』第25号、2000年)
・「沖縄戦新聞」第9号(琉球新報2005年5月5日)
トップ画像
進撃する米軍火炎放射戦車とライフル銃を構える米兵 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-38-3】