【沖縄戦:1945年2月11日】沖縄県、「人口課」を設置し北部疎開を具体化させる 近衛上奏への胎動─高松宮と和平派・重臣グループの動向
特別援護室から人口課へ
住民の北部疎開について検討していた沖縄県は、これまでの特別援護室を内政部所属の「人口課」とあらため、北部疎開を中心とする県内外への住民の疎開業務を担当させることになった。
また、北部の住民に対し、疎開者の受け入れを説得するため、地元住民になじみ深い地方教職員を県庁嘱託員として任命し、その業務にあたらせた。
その北部では、国頭地方事務所に町村長、校長、翼賛壮年団幹部が集まり、国頭郡疎開者受入対策会議が開催され、本部町を除く北部9町村に避難人数や避難小屋建築などが割り振られた。以降、関係町村は各字や各区ごとに割り振りを細分化するなど、住民の北部疎開が具体化していった。
このころの沖縄新報には次のような記事が掲載されている。
「疎開」とは何か─当時の報道より
以上のように慌ただしく進められていく「疎開」(人口調整)であるが、この日の沖縄新報に掲載された次の記事を読んでいただくと、軍そして県にとっての「疎開」の本当の意味がわかる。
この記事は、昨日の緊急市町村会議の様子を伝えたものと思われるが、足手まといの老幼病弱者をやんばるに疎開させた上で、県民が全員特攻隊となり戦力増強や食料増産に挺身させるという「根本観念」を浸透させて会議が行われたとある。つまり疎開とは足手まといの老幼病弱者を排除し、それ以外の県民を戦争遂行に総動員させるため純化させるものであり、住民の保護、避難といったものではないということがよく理解できる。
外間守善氏の母と姉の疎開
戦後、法政大学教授や沖縄文化研究所々長などを歴任し、琉球・沖縄研究で業績を残された外間守善氏は、この年の2月、当時19歳で現地入隊することになるが、その直前のこの日、那覇港から出港する疎開船「大信丸」に母と姉が乗船し、離別したと後に記している。那覇港から船で疎開したということは、やんばる疎開ではないとは思うが、早ければ今月中には米軍が沖縄に侵攻してくると囁かれ始めたこのころ、様々なかたちで様々な人たちが疎開を開始していた。
一方、外間氏の母は疎開を嫌がっており、外間氏と一緒に疎開する計画を立ててようやく疎開を了承したそうであるが(外間氏は最終的には疎開船に乗らなかった)、やはり乗船の直前まで疎開をためらっていたとのことであり、当時の人々の疎開に対するためらい、抵抗感を理解することができる。
陣中日誌より
この日は戦前の「紀元節」であり、各地で紀元祭や紀元節祭、神武天皇御陵遥拝式などが行われた。沖縄でも同様であり、例えばラサ島(沖大東島)守備隊においても、この日の陣中日誌に「広場ニ於テ紀元節遥拝式挙行」と記さている。
なお、陣中日誌に記載されていることではないが、伊江島でもこの日、紀元節に関する建国祭が開かれ、島民による相撲や演芸がおこなわれたというが、戦況風雲急を告げるなかで、誰もがこれが最後のものであろうとの哀愁を抱いたという。
高松宮の早期講和論─『細川日記』から
第二次近衛文麿内閣で首相秘書官を務め、戦中は昭和天皇の実弟である高松宮の御用掛を務めた細川護貞の日記『細川日記』によると、この日細川は高松宮を訪れ、次のような会話をかわしている。
そして高松宮は続けて、「従来重臣が直接陛下に上奏出来ないと云ふが、しないからだし、又陛下の御前に出ると、普段は偉さうに云つて居つても、何も云はずに帰つて来るから、陛下だつて興味を御持ちにならないし、再び召すと云ふ御気持ちが無くなる」、「陸軍は出血作戦で、このまゝ敵が上陸して米国の旗を立てるまでやるであらう」、「だから政治家たる者は、その前の機会をとらへて、少しでも有利に持つて行く可きだ」などと、和平派・重臣グループの消極性と陸軍の出血作戦、本土決戦路線を批判し、暗に早期講和、終戦工作の背局化や必要性を示唆した。
高松宮はもともと和平派であるが、この日の高松宮の言動からは、いよいよ本土決戦が現実味を帯びるなかで、和平派・重臣グループの早期講和、終戦工作も本格化しようとしていたといえる。事実、数日後の14日、近衛文麿が「近衛上奏」といわれる早期講和論を昭和天皇に上奏することになる。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・『伊江村史』下巻
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・大東島支隊第4中隊陣中日誌:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110345200
・外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川ソフィア文庫)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・細川護貞『細川日記』下(中公文庫)
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疎開先の宮崎県高福町見ヶ久保の軍用地を開墾して食料を自給する泊国民学校の疎開学童:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード 02000419】