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【沖縄戦:1945年2月11日】沖縄県、「人口課」を設置し北部疎開を具体化させる 近衛上奏への胎動─高松宮と和平派・重臣グループの動向

特別援護室から人口課へ

 住民の北部疎開について検討していた沖縄県は、これまでの特別援護室を内政部所属の「人口課」とあらため、北部疎開を中心とする県内外への住民の疎開業務を担当させることになった。
 また、北部の住民に対し、疎開者の受け入れを説得するため、地元住民になじみ深い地方教職員を県庁嘱託員として任命し、その業務にあたらせた。
 その北部では、国頭地方事務所に町村長、校長、翼賛壮年団幹部が集まり、国頭郡疎開者受入対策会議が開催され、本部町を除く北部9町村に避難人数や避難小屋建築などが割り振られた。以降、関係町村は各字や各区ごとに割り振りを細分化するなど、住民の北部疎開が具体化していった。
 このころの沖縄新報には次のような記事が掲載されている。

二市二郡の立退人員
緊急人口調整による国頭郡へ十万人を移動すべき那覇、首里両市及び島尻中頭両郡の立退人員は左の如くである
那覇市 一五、七七五人
首里市 五、〇七〇人
島尻郡 三一、一七三人
中頭郡 四〇、六七二人

(沖縄新報1945年2月11日:『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

県民を三十万に半減
 積極的な政策を進む
  島田知事談

今般人口課を創設することになったがこれは現戦局下に於ける当面の人口調整といふ消極的面だけでなく本県百年の大計を樹立する見地から各般の事情を勘案の上人口対策を根本的に実施するものである、詳細に亙る施策の運行は各般の状況と睨み合せて決行されるが大体本県は人口過密で県民生活の諸問題もこれを調整せぬ限り解決は困難であるので現在の六十万県民を半減して三十万程度が適当と思はれる、従って将来はこの点に向って積極的な人口政策を着々と進めて行く方針である

(沖縄新報1945年2月12日:同上)

「疎開」とは何か─当時の報道より

 以上のように慌ただしく進められていく「疎開」(人口調整)であるが、この日の沖縄新報に掲載された次の記事を読んでいただくと、軍そして県にとっての「疎開」の本当の意味がわかる。

手足纏ひを絶つ
 電光石火の立退実行

 戦場沖縄に臨み600万県民が総武装し如何なる事態下でも頑として敵撃滅の郷土防衛陣を打ちたて戦力労務、食料自給の籠城態勢を強化する県内人口調整による国頭郡への10万人移動を早急に実行するため那覇、首里両市、島尻、中頭両地方事務所長両郡町村長、学校長、翼壮団長、協議会は10日開かれ、島田知事以下並に現地軍当局も出席伊場内政部長から現戦局と本県の重大性を説き人口調整の緊急な徹底に600万県民が手足纏ひとなる老幼病弱者を国頭郡に疎開させ全員特攻隊となつて戦力増強に食料増産に挺身させる為の根本観念を浸透させ質疑応答が行はれたがその重点は次の如くである。
  [略]

(『那覇市史』資料篇第2巻中の2)

 この記事は、昨日の緊急市町村会議の様子を伝えたものと思われるが、足手まといの老幼病弱者をやんばるに疎開させた上で、県民が全員特攻隊となり戦力増強や食料増産に挺身させるという「根本観念」を浸透させて会議が行われたとある。つまり疎開とは足手まといの老幼病弱者を排除し、それ以外の県民を戦争遂行に総動員させるため純化させるものであり、住民の保護、避難といったものではないということがよく理解できる。

外間守善氏の母と姉の疎開

 戦後、法政大学教授や沖縄文化研究所々長などを歴任し、琉球・沖縄研究で業績を残された外間守善氏は、この年の2月、当時19歳で現地入隊することになるが、その直前のこの日、那覇港から出港する疎開船「大信丸」に母と姉が乗船し、離別したと後に記している。那覇港から船で疎開したということは、やんばる疎開ではないとは思うが、早ければ今月中には米軍が沖縄に侵攻してくると囁かれ始めたこのころ、様々なかたちで様々な人たちが疎開を開始していた。
 一方、外間氏の母は疎開を嫌がっており、外間氏と一緒に疎開する計画を立ててようやく疎開を了承したそうであるが(外間氏は最終的には疎開船に乗らなかった)、やはり乗船の直前まで疎開をためらっていたとのことであり、当時の人々の疎開に対するためらい、抵抗感を理解することができる。

陣中日誌より

 この日は戦前の「紀元節」であり、各地で紀元祭や紀元節祭、神武天皇御陵遥拝式などが行われた。沖縄でも同様であり、例えばラサ島(沖大東島)守備隊においても、この日の陣中日誌に「広場ニ於テ紀元節遥拝式挙行」と記さている。

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大東島支隊第4中隊陣中日誌:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110345200

 なお、陣中日誌に記載されていることではないが、伊江島でもこの日、紀元節に関する建国祭が開かれ、島民による相撲や演芸がおこなわれたというが、戦況風雲急を告げるなかで、誰もがこれが最後のものであろうとの哀愁を抱いたという。

高松宮の早期講和論─『細川日記』から

 第二次近衛文麿内閣で首相秘書官を務め、戦中は昭和天皇の実弟である高松宮の御用掛を務めた細川護貞の日記『細川日記』によると、この日細川は高松宮を訪れ、次のような会話をかわしている。

 午後三時半、高松宮邸伺候。政府の確信なきことより、木戸侯を替へては如何と申し上げたる所、「一体君達は木戸を替へると云ふが、木戸なんてものは大したものではないし、木戸を替へたらすぐにも和平が出来る様に思ふのは大した間違ひだ。みんな駄目だ駄目だとばかり云つてゐて、それではどう云ふプランを持つて行つた者が居るのか。陸軍が云ふことをきくまいと云ふが、やつて見たものが居るのか。皆やつて見もせずに、唯口先ばかりで駄目だ駄目だと云つたつて尚駄目だ。プランなしに転換するなんてことは出来はしないよ」と仰せあり、余は、「プランと仰せあるも、大転換と云ふことが一つの大きなプランであると思ひます」と言上せる処、「一体具体的に何処と話をするか、どうしてするか、誰が行くか、又日本の産業をどうするか、軍隊をどうするか等を決めてかゝらねば駄目だ。たゞ手ぶらで出て来たつてかへつて悪い。木戸を替へて誰かと云へば近衛だ、岡田だと云ふが、近衛、岡田に何が出来るか」と極めて強く仰せあり。[略]

(細川護貞『細川日記』下、中公文庫)

 そして高松宮は続けて、「従来重臣が直接陛下に上奏出来ないと云ふが、しないからだし、又陛下の御前に出ると、普段は偉さうに云つて居つても、何も云はずに帰つて来るから、陛下だつて興味を御持ちにならないし、再び召すと云ふ御気持ちが無くなる」、「陸軍は出血作戦で、このまゝ敵が上陸して米国の旗を立てるまでやるであらう」、「だから政治家たる者は、その前の機会をとらへて、少しでも有利に持つて行く可きだ」などと、和平派・重臣グループの消極性と陸軍の出血作戦、本土決戦路線を批判し、暗に早期講和、終戦工作の背局化や必要性を示唆した。
 高松宮はもともと和平派であるが、この日の高松宮の言動からは、いよいよ本土決戦が現実味を帯びるなかで、和平派・重臣グループの早期講和、終戦工作も本格化しようとしていたといえる。事実、数日後の14日、近衛文麿が「近衛上奏」といわれる早期講和論を昭和天皇に上奏することになる。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・『伊江村史』下巻
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・大東島支隊第4中隊陣中日誌:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110345200
・外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川ソフィア文庫)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・細川護貞『細川日記』下(中公文庫)

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疎開先の宮崎県高福町見ヶ久保の軍用地を開墾して食料を自給する泊国民学校の疎開学童:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード 02000419】