【沖縄戦:1945年7月23日】八重山の戦争マラリアと軍─八重山で甲号戦備が解除、住民の帰還はじまる
住民の帰還とマラリア
甲号戦備解除、帰還へ
八重山の独立混成第45旅団(八重山旅団、宮崎武之旅団長)はこの日、6月10日に発令した最上級の戦備レベルである甲号戦備を解除した。これにより石垣島の白水などに避難し食糧難やマラリアに苦しめられていた住民の帰還がはじまる。
石垣島では45年6月1日、八重山旅団司令部に官民の代表が集まり、官公庁は5日、住民は10日までに「退去」するよう命令が勧告されていた。「退去」は自主避難ではなく、「石垣地区守備部隊長」の命令によるもの、つまり軍命令であった。そして住民が退去した10日、甲号戦備が発令され、この日まで石垣島は臨戦態勢にあった。
甲号戦備解除により住民は白水などの避難先から離れ、多くが自宅に帰宅した。また石垣島だけではなく西表島でも少しずつ住民の帰還がはじまるが、八重山各地でマラリアと食糧難は帰還してなお人々を苦しめた。白水から帰宅してからの方が生活が苦しかったといった住民証言もある。
特効薬「キニーネ」と軍
マラリアには当時から「キニーネ」という特効薬があった。軍に命じられ、八重山のマラリアの分布などを調査した医師の吉野善高は戦後、当時の石垣島の「マラリア防遏所」の本所と支所にはあわせて1万8000丸のキニーネがあったという。
このマラリア防遏所はおそらく民間の防疫施設のようであるが、吉野医師によれば、これだけのキニーネの量では足りず、住民に満足にキニーネを施し、命を助けることはできなかったという。そのため住民は仕方なく、ヨモギやニガナを煎じて飲ませたり、ひたいに水をかける、こめかみや腰のあたりを少し切って血を出すなどして解熱を試みたが、有効な治療にはならなかった。
またマラリアは蚊が媒介して感染するため、ヨモギの枯葉をいぶして蚊の来襲を防ぐなどした。なかには蚊がよりつかないようにするためにか、香水を体にふきかけることもあったといわれる。
その後、台湾経由で硫規(硫酸キニーネ、キニーネの一種か)やキニーネに並ぶマラリアの特効薬であるアクリナミンが少量持ち込まれたり、西表島でキニーネのもととなるキナ樹が発見され、これを煎じて飲ませることなどがあり、少しずつマラリアがおさまっていったという。また米軍の上陸と占領によりアテプリンといわれる薬が配布されるとともに、マラリア撲滅に向けてDDTなど薬剤の撒布がおこなわれたといわれる。
一方、気になるのは軍の防疫体制である。吉野医師はじめ多くの関係者が軍にキニーネの給与を申し入れたが、軍もキニーネが不足しているとの理由で給与を断っている。もちろん軍がキニーネを潤沢に保有していたとまではいわないが、八重山旅団の高級部員東畑広告の戦後の覚書には旅団の防疫体制について
などと記されており、防疫には事前にかなり力を入れ、防疫体制を確立していたことが伺える。当然、軍としても一定のキニーネは保有しており、住民にある程度医薬を提供することも可能だったのではないだろうか。
吉野医師は台湾経由で入ってきた硫規についても軍に給与を申し入れたが、軍は給与してくれなかったと回想しており、硫規もまずは軍が確保し(あるいはそもそも台湾経由で軍に対し硫規が流れたか)、民間にはごくごく少量しか流通しなかったとも推測される。
いずれにせよ軍は住民を守らない、軍は何よりも第一に軍を守ろうとするということは、このマラリアとキニーネと軍の関連からもいえるのではないだろうか。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
・内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】八重山編 八重山(4)
・同【証言集】八重山編 八重山(5)
・石垣市市史編集室『市民の戦時戦後体験記録』第四集
トップ画像
マラリアの汚染した地域に薬を散布する第316兵員輸送部隊ダグラスC-47スカイトレイン 45年7月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号14-25-2】