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【沖縄戦:1945年5月3日】「全員特攻 醜敵撃滅ニ驀進スヘシ」─牛島司令官の総攻撃前の訓示 総攻撃第一波はじまる 戦勝前祝会と司令部にいた女性たち

3日の戦況

 米軍の攻勢はこの日、第二防衛線全線で活発であった。
 幸地地区は早朝から強力な米軍の攻撃をうけたが、守備隊の砲撃や迫撃砲をもってこれを撃退した。
 前田高地争奪戦の死闘は終日続き、手榴弾、擲弾筒、迫撃砲を用いて米軍を撃退した。
 安波茶付近では朝から戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけ、激戦ののち米軍を撃退し陣地を保持した。
 西海岸方面では、勢理客-安波茶ラインで激戦となり、一部米軍が進出したが、陣地の大部分は確保した。
 第32軍司令部は、この日の戦況を次のように報じた。

一 敵ハ全線ニ亘リ稍々活発ナル攻撃ヲ続行シ特ニ西海岸道方面ノ敵ハ五〇高地三八・七高地ニ侵入セルモ我ハ我謝-翁長-幸地-一四六・二-一三〇-前田-仲間-安波茶-勢理客ノ線ヲ確保敵ニ打撃ヲ与ヘツツ明日ノ攻撃ヲ準備中
二 来襲機数 本島一九〇機
三 一八〇〇ノ艦船状況 計二五三隻

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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5月3日の戦線要図 青線が米軍進出線 緑枠が関係地名等:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

軍司令官の訓示と戦勝前祝会

 明日4日の総攻撃を期して、牛島司令官は各部隊長に次のように訓示した。

  軍攻勢ニ方リ各部隊長ニ与フル訓示
 皇国ノ安危懸リテ此ノ一戦ニ在リ 全員特攻忠則盡命ノ大節ニ徹シ醜敵撃滅ニ驀進スヘシ
 皇紀二千六百五年五月三日 軍司令官 牛島満

(上掲戦史叢書)

 軍司令官はこの日夜、各兵団長を首里司令部の司令官、参謀長の居室となっている壕に招き、戦勝前祝会を開催し、同夜次のように関係方面へ電報した。

本夜間沖縄本島陸海軍将星ヲ天之厳戸軍戦闘司令所ニ会シ恩賜ノ御酒ヲ酌交シ皇国ノ天壌無窮ヲ確信戦勝ノ御祝ス

(上掲戦史叢書)

 この日の戦勝前祝会について、八原高級参謀は戦後、次のように回想している。

 左右逆上陸隊が、粛々として暗夜の海上を、決死進撃の最中の五月三日夜、戦勝前祝会が牛島、長両将軍の居室になっている壕内で開催された。参会者は将官のみで、その氏名は次の通りであった。
  軍司令官 牛島中将
  軍参謀長 長 少将
  第二十四師団長 雨宮中将
  第六十二師団長 藤岡中将
  歩兵第六十三旅団長 中島中将
  歩兵第六十四旅団長 有川少将
  混成旅団長 鈴木少将
  軍砲兵隊司令官 和田中将
  海軍陸戦隊司令官 大田少将
 洞窟の中ではあるが、電灯は明るく、食卓の準備も奇麗にできあがり、酒も不足せず、ご馳走はかん詰め材料ながら本職の料理人の手になり、相当なものである。
 各将軍はアルコールの回るにつれ、朗らかになり、明日の戦いを語り、必勝を論じ、談笑尽きない。盛装の娘たちが、華かに酒間を斡旋する。自信に満ちた、和やかな楽しい空気が洞窟のすみまでゆきわたり、ご馳走にありつけぬ、幕外幾多の将兵もなんとなく楽しくなる。さんざめきの間に間に嵐の如く聞こえてくる砲声が、メロドラマ的情調をそそる。
 [略]
 あまりのことに、夢見るような情感は冷却して皮肉に嘲笑したくなってくる。将軍たちも頼むに足らず! 歓談数刻、「天皇陛下万歳! 第三十二軍万歳!」の唱和を最後として宴は散じた。上機嫌な将軍連は、幕外の私に、「高級参謀ご苦労」「明日は大いにやろう!」などとお世辞を振りまきながら、それぞれ自らの司令部に帰られた。
 私はこの夜眠ることができなかった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 沖縄戦の激戦のさなか、軍の中枢である首里司令部に宴会をするようなお酒やご馳走があるが不思議に思われるかもしれないが、司令部には司令官はじめ幕僚がつめていることもあってか、ふんだんに食糧があり、専属の料理人までいたといわれる。地上戦がはじまっても司令部はそうした状況にあり、お酒や煙草などの嗜好品も大量にあったそうだ。
 また、お酒を注ぐような女性がいたというのも不思議に思われるかもしれないが、この日のためにわざわざ女性を招いたのではなく、もともと司令部には女性が多く勤務していた。
 司令部にいた女性たちについては、前日5月2日の記事などでも取り上げてきたので参照していただきたいが、ともかく幕僚部だけでも、幕僚たちの身の回りの世話などで30人ほどの女性が勤務していた他、女子師範学校の学徒や辻の遊郭の女性たちが動員され、炊事係であったり、軍医部での看護業務、あるいは筆生や代字手といわれるタイプや書類関係の業務、そして雑使といわれる雑用などに従事しており、司令部内のすべての女性の数は相当なものであったと考えられる。
 こうした女性たちは女子雇傭人などといわれ、司令部内の「女窟」「女子棲息所」などといわれるところに居住していた。それは何か例外的に司令部内にいたのではなく、例えば男女を分ける必要がある入浴に関する司令部規定には「女子雇傭人入浴時間割出表」が定められ、○○時と○○時は女子雇傭人のうち○○班が使用などとあり、組織的なものであった。
 彼女たちは5月9日までは首里の司令部内にいたが、10日に軍命令で司令部から出された。しかし軍が南部撤退し摩文仁に司令部を構えると、再び首里の司令部にいた女性のうち何人かが摩文仁の司令部を訪れ、軍と運命をともにしたともいわれる。なお一部の将兵は司令部内の辻の遊郭の女性に性的ないやがらせをしていたともいわれる。

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慶良間沖で夕暮れに全員配置の防御用煙幕をはる米艦船 総攻撃にあわせ航空特攻もさかんに実施されたため警戒している 45年5月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号01-42-1】

逆上陸部隊の出撃─総攻撃第一波はじまる

 総攻撃の第一波は、船舶工兵連隊を主力とする部隊が舟艇を用い海から米軍占領地帯へ逆上陸する後方攪乱であった。首里司令部壕で将軍らによる宴会がおこなわれているこの日夜、東海岸からの上陸を目指す右逆上陸部隊と西海岸からの上陸を目指す左逆上陸部隊がそれぞれ出撃した。

右逆上陸部隊
 右逆上陸部隊は船舶工兵第23連隊を基幹とし、約200名がクリ船に乗り与那原から津覇方面を目指し、これを掩護するため海上挺進第27戦隊の特攻艇約20隻も出撃することになっていた。また船舶工兵第23連隊の別の約300名は徒歩で津覇方面に出撃する予定となっていた。
 右逆上陸隊は3日20時ごろ与那原を出撃したが、伊保ノ浜付近で米艦艇に発見され、少数は上陸したものの、照明弾下で陸海からの猛射により壊滅した。擁護部隊の特攻艇部隊は中城湾および勝連半島の米艦艇を攻撃し、一定の戦果を与えたものの、部隊は壊滅した。徒歩部隊も米軍の攻撃により混乱状態となり、成果は得られなかった。

左逆上陸部隊
 左逆上陸隊は船舶工兵第26連隊を基幹とし、海上挺進第27戦隊の一部、同第28戦隊の主力、同第29戦隊の一部からなり、4日0時ごろ基幹隊の船舶工兵第26連隊が大発艇、クリ船、海上挺進第28戦隊の特攻艇に分乗して那覇港付近を出発し大山方面への逆上陸を目指した。海上挺進第27戦隊および同第29戦隊の特攻艇は掩護隊として出撃した。
 左逆上陸部隊は4日1時ごろ小湾付近で米軍陸上部隊に発見され、海上の米艦から射撃をうけたため、一隊はそのまま小湾に上陸し交戦した。上陸した部隊の大部分は小湾の海岸で射殺されたが、一部の部隊は小湾付近に潜み、朝方まで戦闘をつづけた。また、小湾に上陸しなかったその他の部隊もクリ舟で伊佐付近に達した時に米軍に発見され攻撃をうけたため、同地付近に上陸し交戦したが、夜明けとともにほとんど戦死した。

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5月4日の第32軍の攻勢要図 緑枠が左右逆上陸部隊の進撃状況:上掲戦史叢書

 八原高級参謀は戦後、左右逆上陸部隊の戦闘について次のように回想している。

 左右逆上陸隊からは、さっぱり報告がない。しかし、那覇港を出発した大島少佐の率いる左逆上陸隊は、勇敢に前進を続けているようだ。敵の無線電話を傍受すると、敵陸海軍が混乱、相撃、口論している状況が、手にとるようによくわかる。逆上陸の発案者薬丸参謀の顔は嬉しさでいっぱいだ。

(上掲八原書)

 八原の回想では逆上陸部隊の攻撃は順調に進み、一定の効果を与えたように記されている。確かに米軍の混乱は相当なものではあっただろうが、しかし大きな戦果はなかった。後に義烈空挺隊という部隊が米軍の占領する北・中飛行場に空挺特攻を敢行し、米軍を大混乱に陥れるが、結局は米軍を混乱させただけで戦果といえるものがなかったが、それと同様といえる。
 また防衛召集された防衛隊員が逆上陸部隊のクリ舟の漕ぎ手として多数参加しているが、その数は明らかになっていない。
 以降、4日未明より軍砲兵隊の準備射撃および航空部隊による北・中飛行場や中城湾の米艦艇への攻撃がおこなわれ、払暁より歩兵部隊の突撃をもって総攻撃が開始される。

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峡谷の陣地に担架をおろす米兵たち 日本軍狙撃兵の発砲によりこの日の攻撃は手こずったとのこと 45年5月3日:沖縄県公文書館【写真番号97-39-3】

海軍部隊の動向

 戦勝前祝会に海軍沖縄方面根拠地隊大田実司令官が参加したが、このたびの総攻撃には海軍部隊も参加する予定となっていた。
 5月1日、牛島司令官は海軍部隊を総攻撃に参加させることを決定し、次の命令を発した。

 球作命第一八八号
一 軍ハ貴官既ニ承知ノ如ク乾坤一擲ノ攻勢ヲ企図ス
二 小禄守備隊ハ球作命第一八三号ニ拘ラス陸戦ニ使用シ得ヘキ総力ヲ結集シ五月四日夕刻以降随時先ツ首里周辺地区ニ機動軍攻勢ニ直接参加シ得ル如ク準備スヘシ 軍司令官

(上掲戦史叢書)

 翌2日、海軍沖方根大田司令官は海軍関係方面に次の電報を発した。

 本職ハ第三十二軍命令ニヨリ陸戦ニ使用シ得ベキ海軍ノ総力ヲ結集シ明夕刻以降随時海軍ハ首里周辺地区ニ機動乾坤一擲ノ陸軍攻勢ニ直接参加シ得ル如ク準備中

(同上)

 海軍沖方根は約2000名の陸戦隊を編成し戦闘参加を準備した。その上でこの日、軍司令部付の西野弘二少佐が軍命令により沖方根参謀とした。
 なお海軍沖方根は逆上陸部隊の攻撃にあわせ、大発艇をもって航空魚雷発射を実施するよう準備したが、出発直前に米軍の砲弾が命中沈没し、出撃できなかった。

宇垣纒の日誌より

 第5航空艦隊宇垣纒司令長官のこの日の日誌には、次のように記されている。

 五月三日 木曜日 〔曇後晴〕
  [略]
 沖縄の陸軍部隊は明黎明より総攻撃に出て南部の敵主力二四軍を撃滅せんとす。充分なる成算を以ての挙ならず座して滅びんよりは元気あるうちの一合戦と言うが当たれるところなり。
 いずれにせよ、積極的に出るは結構とし本薄暮以降明日にわたり当方面及び台湾より陸海全力を以て航空攻撃を集中することとせり。
  [略]
 ドイツ総統ヒットラーは一日午後ベルリン死守に敢闘中ついに斃れたり。ボルセビイキの災禍より全欧州を救わんとして一生の努力を傾注せる英傑は、反りて赤軍のために返り討ちの悲運に会わせり。その無念や知るべし。
 然れどもその精神は永くドイツ国民の享受するところ多かるべく、また英米も不日赤禍に悩み強力なる支檣ヒットラーを斃したるを悔むべし。遺嘱によりて立てるデーニッツ提督、ドイツ国民を拾収してさらに盟邦としての奮闘を続けんことを望む。

(宇垣纒『戦藻録』下巻、PHP研究所)

 第32軍の総攻撃に対して非常に冷淡に記しているが、これは宇垣司令長官の個人的な感慨ではなく、軍中央全体として総攻撃に特段の期待は抱いていなかった。特に陸軍はこのころ、ソ連参戦を見越した対応などに追われており、沖縄戦そのものから関心を失いつつあった。
 またナチス・ドイツの情勢についても触れられているが、この日には在イタリアのドイツ軍の降伏やベルリン市街戦の終息なども伝えられ、鈴木首相が欧州戦線は急変するも、一億一致し難局にあたり、あくまで聖戦完遂と談話を発表するなど、ドイツの情勢が広く報じられた。久米島の警防団の警防日誌にもヒトラー自殺について記されている。

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米駆逐艦に体当たりする日本軍特攻機 爆炎や弾幕がすさまじい 45年5月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号107-22-2】

八重山支庁大舛支庁長の殉職

 宮古・八重山諸島は連日米英による空襲にさらされていたが、石垣島でこの日、八重山支庁長官舎の壕が直撃弾をうけ、大舛久雄支庁長が即死した。
 大舛支庁長はこれまで、県の指示や八重山に配備された独立混成第45旅団の要望などによく協力し、食糧確保や飛行場建設、疎開などの業務に従事した。
 大舛支庁長は八重山の新城島出身で、几帳面かつ自己に厳しく、八重山の人々を愛し、滅私奉公の精神が旺盛であったといわれる。人格高潔で職務に精励した人物ということで間違いないのだろうが、島田知事同様、この時代において人格高潔・職務精励ということは、すなわち軍によく協力し、戦争遂行に励んだということであり、その評価というのはよくよく注意しなければならない。
 当時、大舛支庁長の官舎に(父とともにか)下宿していた登野原武氏は、この日の出来事を戦後、次のように振り返っている。

  運命の五月三日
 ダダダ…、ドーン爆弾炸裂の音に起こされた。早朝空襲である。推定時刻午前七時十分、昭和二十年五月三日の八重山支庁長官舎の朝であった。私は寝床で布団を頭から掛けたまま伏せた。途端に土がザザーと音をたてて畳の上に散った。爆弾投下は近くのようである。「大変だ空襲だ」女中が大声で叫んでいる。「防空壕に待避しろ」支庁長の声だ。その時、炊事場では芋粥がぶつぶつ湯気を出していたのを覚えている。私は、いつものように感謝の裏の壕に待避した。その壕は製材所の端皮で貧弱につくられており、そこに身をひそめていたが、頑丈な壕に来るよう支庁長からの連絡である。敵機が遠のいた間に頑丈な壕に移動した。支庁長は寝巻きのまま、鉄かぶとに日本刀をもっての待避であった。
 壕の中央に支庁長と石垣に出ていた私の父が、西の入口に女中が、東の入口に私と支庁長の長男で私の従兄、久起先輩の順で陣取った。第一回目の空襲では、南進丸の船員もいたようだったが、危険を感じてか親戚の所へ避難したようであった。しかし、父は残っていた。官舎の周囲は大きな樹木があって爆音だけが聞こえている。しばらくすると、低空の音とともに南の方から頭上にダダダ…、ブスブスと機銃掃射の音が聞こえたかと思うと一瞬のうちに壕は無惨にも地獄と化し、埋められたのである。
  [略]
 再び気がついたときは墓の中(当時陸軍病院)であった。私は一週間くらいは意識が朦朧として夢のようであった。久起先輩は宮良医院へ運ばれたようであった。私には看護人として、後輩の宇根実氏(現竹富町教育長)が付添ってくれていた。その後、幾日か経って父と支庁長、女中の三名が悲壮な最後を遂げられたことを知らされたが、ただ唖然として悲しみや涙の一滴もなかった。それは徹底した戦時教育と時世の然らしむるところだっただろうか、三名は爆振によって陥没した天井の重圧によって即死したものと推察された。

(登野原武「運命の五月三日─大舛支庁長と父の爆死─」〔石垣市市史編集室『市民の戦時戦後体験記録』第三巻〕)

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炊事車から昼食を配給される第364サービス群第612工兵中隊の兵士ら 伊江島にて この日のメニューはポーク・ランチョンミートなどであったという 45年5月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号16-18-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
目取真俊「海鳴りの島から」

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総攻撃にあたっての牛島司令官による訓示 書は長勇参謀長による:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より