【沖縄戦:1945年3月19日】海軍航空隊が本土接近中の米機動部隊を迎撃 大本営陸海軍部、米軍の次期来攻について判断が分かれる
米機動部隊の来襲と海軍航空隊の迎撃
ウルシー環礁を15日までに出撃した米機動部隊は、17日には宮崎県の都井岬の南南東約170カイリ(1カイリは約1.8キロメートル)付近で探知された。
大本営海軍部は、このころ兵力温存問題で揺れており、機動部隊が攻略部隊を伴っていることが明らかでなければ航空兵力を温存し、攻略部隊を伴っていることが明らかであれば攻撃実施という実際上実行不可能な方針を打ち出していた。そこで第5航空艦隊宇垣司令長官は、積極攻勢を連合艦隊司令部に意見具申し、兵力温存不能の場合は長官の考えにより積極攻勢を認めるとの指示をうけ、18日には全力での迎撃を決定した。
米機動部隊は、空母15~16隻を基幹とする4群からなる大艦隊であったが、18日明け方には九州、四国方面に来襲し、航空基地などを攻撃した。来襲機数は、1000機を超えた。
米機動部隊は、この日には高知県の室戸岬の南40カイリまで移動し、四国、中国、阪神の各地区に延べ約1000機以上の艦載機が来襲、攻撃した。
第1機動基地航空部隊は、18日より21日まで米機動部隊を攻撃し、主に航空特攻をもって損害を与えた。戦果は、空母1、戦艦2、巡洋艦1などと報じられた。特にこの日は、米空母フランクリンが大破する戦果があったといわれる(なおフランクリンへの攻撃は、特攻によるものではないようだ)。
この日の宇垣司令長官の日記には、次のように記されている。
以降、終戦まで第5航空艦隊は、沖縄方面へ出撃を続け、航空特攻を中心に米機動部隊を攻撃した。第6航空軍や第8飛行師団など陸軍航空部隊も沖縄方面航空特攻作戦を行ったが、組織的戦闘が終結したといわれる6月23日以降、陸軍航空部隊の沖縄方面航空特攻作戦は事実上終結しているのだから、第5航空艦隊による沖縄方面航空特攻作戦は執拗なものがあった。
その第6航空軍について、大本営はこの日、大陸命第1278号をもって防衛総司令官に対し、第6航空軍司令官をして南西諸島方面での作戦に関し、連合艦隊司令長官の指揮をうけることを命じ、第6航空軍は翌日20日午前0時より連合艦隊司令長官の指揮下に入った。
なお宇垣司令長官は、終戦の玉音放送が発せられた後、航空特攻作戦を指揮した責任をとり、自ら特攻機に搭乗して沖縄方面へ出撃、僚機とともに米艦船へ航空特攻をおこなっている。
米軍来攻について陸海軍部の判断が分かれる
米軍の硫黄島上陸以後、大本営は、連合軍の船舶の動きや通信の諜報などを分析し、米軍の次期来攻先や来攻時期を検討していたが、小笠原諸島方面や大東島、あるいは沖縄方面など複数の判断が出され、確定的な結論は導き出せなかった。
米軍は日本側の暗号通信などを傍受、解析した上で解説をおこなった「マジック」といわれる報告を配信していたが、例えば3月17日の米「マジック」には、
と大本営が陸軍各部隊へ発した指示が記されている。大本営の指示が米軍に筒抜けであり、またこの時期において日本側が米軍の動向を見抜けておらず、情報収集を急いでいた生々しい雰囲気が伝わってくる。
3月16日の宮中連絡会議では、14日に米機動部隊がウルシー環礁を出撃したことをうけ、米軍の次期来攻は南西諸島方面の公算が大きいとされたが、大本営陸軍部はこの日、米軍の次期来攻先は台湾方面の可能性が高いとした。一方、大本営海軍部はこの日、米軍の次期来攻先は小笠原方面の可能性が高いとするなど、陸海軍で米軍の次期来攻について判断が分かれた。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・同『大本営陸軍部』<10>
・宇垣纏『戦藻録』下(PHP研究所)
トップ画像
8月15日、特攻出撃直前の宇垣司令長官:宇垣纏『戦藻録』(PHP研究所)より