【沖縄戦:1945年9月3日】白石信治大尉以下沖縄北部の海軍部隊約200名、米軍に投降─住民虐殺・食糧強奪を繰り返した海軍部隊
海軍部隊の投降
この日朝10時ごろ、現在の名護市の嵐山を拠点に遊撃戦を展開していた海軍沖縄方面根拠地隊第27魚雷艇隊司令白石信治(信次とも)大尉以下約200名の海軍部隊が、同じく名護市古我地において米軍に軍刀や軍旗を返納し、投降した。
降伏式は30分程度のものであり、部隊の兵員はただちに米軍のトラックに乗せられどこかへ連行された。おそらく屋嘉収容所に連れていかれたものと思われる。
降伏式に臨む海軍部隊 こちら側を向いている集団(降伏する海軍部隊)の中央で軍刀のようなものを杖がわりにしている男性が白石大尉と思われる 45年9月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号12-39-3】
第32軍は沖縄北部に国頭支隊を中心とする陸軍部隊を配備していたが、沖縄北部には白石大尉率いる第27魚雷艇隊や、鶴田傳大尉率いる第2蛟龍隊(特殊潜航艇隊)が今帰仁村の運天港に配備されるなど、海軍部隊もいた。
第27魚雷艇隊の指令として魚雷艇作戦を指揮していたが、44年の十・十空襲で被害をうけるとともに、米軍の慶良間諸島上陸以降、沖縄洋上に集結する米艦艇への攻撃作戦を展開したものの、拠点とする運天港を徹底的に空爆され、戦闘能力を失った。同じく第2蛟龍隊も米軍の沖縄島上陸直前に出撃を命令されているが、やはり戦闘能力を失った。
これにより白石隊など海軍部隊は国頭支隊の指揮下に入ったが、本部半島の山中を拠点に事実上の敗残兵となり、住民の虐殺や食糧強奪を繰り返した。
米軍に投降する海軍部隊 左端の軍刀を杖にする人物が白石大尉と思われる 45年9月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号13-16-2】
海軍部隊による住民虐殺、食糧強奪
敗残兵となった白石隊や第2蛟龍隊の渡辺大尉率いる渡辺隊など海軍部隊は住民の家や避難小屋を襲い、食糧を強奪するなど住民迫害を繰り返していた。また、すでに米軍に占領されていた現在の名護市のハンセン病患者の療養施設である愛楽園にも出没し、部隊の食糧として毎月米六石を提供するよう職員に要求したという。
また本部のある集落では「運天から来た者だ」と名乗る日本軍部隊が「きさまらがスパイをしたために日本軍は負けた」などと軍刀で住民を脅し、「アメリカから物をもらっただろう」などといって食糧や仏壇に供えていた煙草まで強奪する事件がおきたが、その際、兵士は村の指導者層の名前を書き出した帳面を出して「これとこれは明日斬ってやる」などとうそぶき、隊長格の人物が住民に「照屋忠助とはどんな関係か」と本部国民学校照屋忠英校長のことと思われる人物について質問したという。
別の場所で白石大尉は、住民に「照屋忠英校長を殺害した」「スパイの充分な証拠がある」「次は誰と誰を殺す番になっている」などと公言したという。食糧や物資を強奪した兵士が住民に見せた「殺害リスト」の存在と、白石大尉が住民に話をした殺害の順番、あるいは照屋校長に関する質問と照屋校長殺害の公言などを総合すると、食糧や物資の強奪が白石隊によるものであり、部隊が照屋校長はじめ住民虐殺に手を染めたと考えられる。その他にも白石隊が今帰仁村の兵事主任を殺害したと聞いたという証言もある。
第2蛟龍隊の渡辺隊についても、白石隊同様、「スパイリスト」を持って住民の前にたびたびあらわれ、住民虐殺に手を染めている。ただし、この日の投降式に渡辺大尉は参加していない。渡辺大尉は白石隊など海軍部隊の投降より一足早く、民間人に紛れて米軍に投降している。なお渡辺大尉の沖縄での動向については、三上智恵氏『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)に詳しいので、参照していただきたい。また白石隊の凶行については、以下の note 記事内の「『虐殺者の肖像』─今帰仁村警防団長虐殺事件と白石隊」を参照していただきたい。
白石部隊同様、久米島で住民殺しをおこなった鹿山隊も海軍部隊であり、軍による残虐行為、住民迫害に陸海軍の差はない。「陸軍は頑迷だが、海軍はスマートで開明的」といったそこはかとないイメージは虚構であり、日本軍あるいは軍隊というものはそもそも住民に対し牙をむく存在なのだといえる。
白石大尉による降伏のための軍刀返納を見守る海軍部隊 45年9月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号12-39-2】
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)
トップ画像
米軍に軍刀を返納する白石大尉 45年9月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号12-39-4】