【沖縄戦:1945年6月27日】「島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにやった」─海軍鹿山隊による久米島の住民虐殺はじまる
鹿山隊による住民虐殺
昨日、久米島の仲里村銭田(イーフ)海岸に上陸した米軍は、この日には早くも同島具志川村に進攻した。戦車の音など聞いたこともない住民は、島を走破する米軍戦車の走行音に震え上がったという。特に戦車が橋を渡ると響く高音の走行音は、戦車がすぐ近くまで迫っているような錯覚を覚えさせるため、住民は山奥へ山奥へと逃げまわったそうだ。
この日の久米島の警防日誌には次のように記されている。
また久米島の具志川村の農業会々長吉浜智改氏のこの日の日誌には次のように記されている。
こうしたなかで久米島郵便局有線電話保守係の安里正二郎さん(正次郎とも)が米軍の捕虜となり、米軍の命令で山中に潜む鹿山隊(海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊、鹿山正兵曹長が隊長であったため鹿山隊といわれる)に届けるよう降伏勧告状を渡された。安里さんは鹿山隊を訪れ事情を説明したところ、鹿山は即座に安里さんを「スパイ」と決めつけ、墓穴を掘らせた上で発砲した。しかし一発では死ななかったため、鹿山隊の兵士が銃剣で安里さんを刺殺し墓穴に埋めた。数日後、夫の死を知った安里さんの妻カネさんは、日本軍への恐怖と夫を殺された悲しみのあまり川に身を投げて自ら命を絶ったといわれている。
安里さんの殺害について、妻カネさんの姉の糸数和さんは戦後、週刊誌のインタビューに応じ、次のように当時の状況を振り返っている。
また久米島郵便局の局長などを歴任した喜久里教文さんは戦後、琉球郵政庁の求めにより沖縄戦記をまとめ提出しているが、そこには安里さんの殺害について次のように記されている。
鹿山隊の住民殺しの背景
鹿山隊による安里さん殺害は、これ以降45年9月7日の鹿山隊の投降まで20人におよぶ住民殺しの一人目となった(カネさんの自殺も姉の和さんがいうように、鹿山隊による間接的な殺人といってもいいだろう)。
鹿山隊が住民殺しに手を染めた直接の理由は、6月に入って島に米軍の往来が増え、「敵国『スパイ』ノ何時潜入スルヤ知レザル現状ニ在リ」と警戒していたところ、実際に米軍偵察部隊の上陸の際に島民が拉致されたことから、住民を通じて軍の動向が知られてしまうことを恐れ、住民に対し例えば米軍の宣伝ビラを所有すれば「敵側『スパイ』ト見做シ銃殺ス」などと脅していたところにあるだろう。
そうしたなかで鹿山は自分の脅しに反して米軍と接触した安里さんを許すことができず、他の住民への見せしめも含め安里さんを殺害したと思われる。もちろん「降伏」を持ちかけてきた安里さんを実際に「スパイ」と疑ったという部分もあっただろうし、このまま安里さんを帰せば再び米軍と接触し鹿山隊の情報を提供する可能性もあり、それを防ぎたいという動機もあっただろう。いずれにせよ鹿山隊は米軍に恐怖する一方、それ以上に久米島の住民を恐れていたといえる。
住民虐殺について鹿山自身は戦後、やはり同じ週刊誌のインタビューで次のように話している。
一方で、鹿山隊の住民殺しの背景には、他の地域における日本軍の住民迫害と共通する沖縄蔑視に基づく住民「スパイ」視があることはいうまでもない。また「軍官民共生共死の一体化」という思想が台頭し肥大化していくなかで、民間人から強制的に物資を徴発したり、戦闘に参加させたり、あるいは死を強いることも当たり前といった感覚があったのだろう。
実際に鹿山隊は米軍上陸以前から「労務提供」と称して住民をこき使い、住民から食糧を強制的に提供させる「食糧調達」も繰り返していたが、鹿山隊の住民迫害の悪質さは比類ないとはいえ、それは大きくいえば沖縄各地で発生した日本軍による数々の住民への迫害と通底する事件といえるだろう。
暗い感じのする男
そもそも久米島で20人もの住民殺しを敢行した海軍兵曹長の鹿山正という男は、どのような人物であったのだろうか。
久米島住民の証言をまとめると、鹿山は20人もの住民を虐殺したと聞いてイメージされるようなどう猛で野蛮な風体の人物ではなかったようだ。もちろん鹿山のやったことがどう猛で野蛮であることはいうまでもないが、久米島へ漂着した陸軍兵によると、鹿山自身は「目のふちが黒ずんで、あごひげを伸ばし杖を持って」おり、「なんとなく暗い感じのする男」だったそうだ。トップ画像は戦後、鹿山の住民虐殺が明るみとなった際、取材に応じる鹿山の写真である。撮影の仕方や画像からして多少迫力もあるように感じるが、別段何ということもない中年、あるいは初老の男性とも思える。
ただし「暗い感じのする男」というのは気になる。米軍に投降した鹿山は屋嘉収容所に入れられるが、そこで先ほどの陸軍兵が鹿山と再開すると、鹿山はぷいと横を向き、一度も話をしなかったというエピソードもあるが、このように鹿山の性格は暗い、陰気な人物だったのだろう。
波照間島の住民を軍刀で脅し、住民の家畜を奪い、マラリア地獄に陥れた波照間島の離島残置諜者であった山下虎雄(酒井喜代輔)も、上官が波照間島に来島するとおどおどしていというように、大それたことをした割には気の小さい男だったことは以前確認した通りだ。何事も当事者の個人的な性格や個別的な事象に還元することは危険であるが、存外こうした凶悪犯罪を惹起するものは見かけも性格も「そんな風には見えない」ような人物だったりするのかもしれない。
一方で鹿山は戦後、自身が手を下し、また命令した住民殺しについて、「間違ったことはしていない」「軍人として誇りをもっている」と開き直った。謝罪の手紙のようなものも書いているが、島を訪れて被害者に向き合い、直接謝罪の言葉を述べるようなことはなかった。波照間島の山下虎雄も戦後、「自分は住民に歓迎された」などと開き直っているが、事件に向き合わず、開き直るところなども鹿山と山下は共通している。また鹿山は、久米島駐屯中、島の女性に性的関係を強い、米軍上陸後も愛人として連れまわしていたという証言がある。沖縄北部に配備された国頭支隊の宇土武彦支隊長も愛人を連れていたというような目撃証言もあり、第32軍司令部にも多数の女性が最後までいたということは以前触れた通りだが、鹿山という人物は何か「日本軍」を凝縮させたような人物であったのかもしれない。
鹿山についてはまたあらためて取り上げたい。
離島残置諜者の関与
なお波照間島の山下のように、久米島にも二人の陸軍中野学校出身諜報要員が離島残置諜者として送り込まれている。特に具志川村に派遣された離島残置諜者の上原敏雄(本名:竹川実)は鹿山より階級が上であり、通信機材も所有していたことから、鹿山に何らかの指示をし、連絡を取り合い、事件に関与していた可能性は否定できない。
戦後、二人の離島残置諜者は事件について一切の証言や弁解をしなかったが、戦後に至っても「話すことができない」というところに彼らの置かれた状況、すなわち沖縄戦の闇があるといえるだろう。
特に竹川は終戦から30年後、「軍隊生活、なかでも沖縄での敗戦や収容生活の記憶が強烈すぎて、その後、一体なにをしてきたのだろうかと影うすく、何かに奪われてしまったような三〇年とさえ思われます。この三〇年は虚仮の半生だったと悔やまれます」と述べ、また家族に対しても戦争中は「久米島に行った」とだけ語り、詳しいことは話さなかったという。
戦後の30年もの時間を「虚仮」といわしめるほどの久米島での「強烈な記憶」とは何か。家族にさえ秘匿にすべき久米島での「強烈な記憶」とは何か。鹿山隊による住民虐殺と無縁だとは思えない。
読谷飛行場滑走路
米軍上陸直後に制圧され拡張された読谷飛行場ではこの日、長さ2200メートルもの滑走路を持つ飛行場として完成した。すでに沖縄各地の飛行場は米軍の戦闘機部隊が配備され、南西諸島そして九州各地を空襲していたが、こうして飛行場の整備がすすむにつれ、大型の軍用機が配備されるようになる。すなわち6月26日から29日にかけて第41爆撃機群団の爆撃機が嘉手納飛行場に到着し、7月上旬に第11および第494爆撃機群団が到着した。以降、嘉手納飛行場そして読谷飛行場などに配備された爆撃機群団のB-24重爆撃機などが九州空襲を繰り返すことになる。
なお45年8月9日、テニアンから発進し長崎に原爆を投下したB-29ボックスカーが読谷飛行場に緊急着陸するなど、読谷飛行場はじめ沖縄の飛行場は重要な位置にあった。
内閣告諭
前日付けの鈴木首相の沖縄戦に関する内閣告諭について、この日の大阪朝日新聞は次のように報じている。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】:久米島
・林博史『沖縄からの本土爆撃 米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館)
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)
・「原爆投下機が読谷に飛来 1945年8月9日 ボックスカーが長崎に投下後 燃料不足で緊急着陸」(琉球新報2018年8月9日)
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取材にこたえる鹿山正:BS-TBS 週刊報道LIFE「終わりなき沖縄戦」2015年8月23日放映