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【沖縄戦:1945年6月15日】「沖縄戦は峠を越した」─バックナー司令官の観測 「敵側『スパイ』ト見做シ銃殺ス」─久米島の海軍部隊が住民に布告
15日の戦況
全戦線に米軍進入
摩文仁司令部右翼を守備する独立混成第44旅団は引き続き米軍の強圧をうけ、混成旅団司令部と混成旅団防衛線中央を守備する122高地付近の中地区隊(独立臼砲第1連隊入部連隊長)との連絡も途絶した。
混成旅団防衛線右では仲座南側台地、仲座南西端付近を保持し米軍の突破を辛うじて阻止した。昨日仲座南方地区に移動増援した独立歩兵第13大隊もこの日から戦闘に加わったが、陣地の設備も不十分なまま攻撃にさらされ多大の損害を出した。
八重瀬岳方面の米軍は逐次増大し、この日11時ごろには158高地を攻撃してきたが、同高地の第24師団の歩兵第89連隊第3大隊基幹の守備隊は善戦して高地を保持した。
八重瀬岳と与座岳の中間地区に陣地を構えていた歩兵第89連隊第1大隊は、八重瀬岳が米軍に攻略されたこともあり、この日には戦車を伴う米軍に突破された。
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真栄平南方に進出した独立歩兵第15大隊は、158高地南方に進出した米軍戦車に制圧され、前進できず釘付けとなった。大隊に対戦車火器は一門もない状況であった。
第24師団長は歩兵第89連隊方面の状況が急迫したため、歩兵第32連隊に配属中の歩兵第22連隊第3大隊(緒方大隊)の一個中隊を与座岳に進出させ、歩兵第89連隊長の指揮下に入れた。
第24師団の防衛線左の真栄里高地(歩兵第22連隊)も米軍の攻撃をうけた。国吉台地(歩兵第32連隊第1大隊)は米軍の馬乗り攻撃をうけた。国吉台地の独立速射砲第3大隊の廣瀬小隊長は、この日の戦況を次のように日誌に記している。
今朝来敵ハM4[M4戦車ー引用者註]延二五車輛ヲ以テ数回ニ亘リ國吉附近ニ来リ物資ノ集積ヲ実施シ國吉部落ニ一部侵入シ来リ國吉南側ヨリ攻撃ヲ受ク 我剣陣地上部ニモ若干ノ敵影ヲ見ル 我狙撃陣地ニ於テ高木上等兵、鈴木一等兵、山本一等兵、治京上等兵ハ終日狙撃ヲ実施シ 戦果人員殺傷五名ヲ得タリ 昨夜来火砲ノ整備ヲ実施ス 概ネ整備ヲ終ル 全員ノ志気益々旺盛ナリ 損害ナシ
第24師団は巧妙な砲兵の運用と斬込みにより連日米軍に多大な損害を与え、13日ごろまでは米軍を圧していた観すらあったが、このころよりどうすることもできなくなってきた。
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/28290311/picture_pc_16378c47b126e030da918c0ebbee84c3.jpg?width=1200)
第62師団の右翼投入
第32軍牛島司令官は、島尻南部の防衛線として堅牢な陣地と見ていた八重瀬岳と与座岳のあいだを米軍が突破するにあたり、摩文仁司令部周辺に配備していた第62師団を同方面に投入し、米軍に最後の出血を強要することを決心した。
こうした軍の企図に対し、第62師団藤岡師団長は、混成旅団が壊滅したならば、軍司令部は摩文仁から真栄平付近に移動して第24師団司令部と合流し、東は与座岳に連係する陣地で抵抗し、第62師団は山城を中心とする現陣地で抵抗する案を提案したが、牛島司令官は混成旅団が与座、仲座を辛うじてでも保持している以上、第62師団を混成旅団の戦線に投入し、なるべく現陣地で戦闘を継続することとした。
第62師団長は軍命令に基づき、歩兵第63旅団中島旅団長に隷下、指揮下部隊および混成旅団を伴わせて指揮し司令部東方正面の防衛を担当させ、歩兵第64旅団を真栄平南東地区に移動するよう部署した。師団司令部は引き続き山城に位置した。
なお歩兵第63旅団長は翌朝摩文仁に到着し、軍司令部近くに位置した。中島旅団長は米軍の攻撃重点は仲座-摩文仁道に指向されており、一挙に摩文仁に進攻する算ありとして、すみやかに独立歩兵第12大隊を仲座南西109高地に前進させ混成旅団長の指揮下に入るよう部署し、独立歩兵第14大隊を摩文仁から摩文仁西1キロの82高地にわたって防衛させた。独立歩兵第12大隊は16日夜、109高地南方地区に進出し、混成旅団長の掌握下に入った。
歩兵第64旅団有川旅団長は16日夜、米須西南南2キロの東辺名から米須北52高地に移動し、独立歩兵第21大隊を真栄平南側地区、独立歩兵第22大隊を真栄平付近に移動させるよう指揮した。
なお米第10軍バックナー司令官はこの日、沖縄戦を次のように観測した。
「沖縄戦は峠を越した。あとは最後の追い込み戦だけだ」
バックナー中将は、六月十五日、沖縄戦をこう観測した。米軍戦線の将兵も、牛島中将の第三十二軍の崩壊が、さし迫っているのを感じとっていた。それは、なにも日本軍の一人一人の戦意におとろえが見えた、というのではなく、日本軍の戦争遂行に必要な物資が尽き、部隊間の協調や連絡がきかず、さらには兵器を十分に利用し得ない、という点に現われていた。全体としてみて、十分といえる抗戦力は、日本軍にはもうなかったのだ。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/28290044/picture_pc_52014a3d9953fc2043364cc494942ff8.jpg?width=1200)
神航空参謀の大本営報告
沖縄を脱出し本土に帰還していた神直道航空参謀は昨14日上京し、この日参謀総長以下統帥関係者や陸軍大臣など各方面に沖縄戦の戦訓を報告するとともに、沖縄方面への大々的な航空作戦の実施を要請した。
神参謀の沖縄戦の戦訓報告について、河辺参謀次長は次のように記している。
真相ヲ伝ヘテ大ニ聴クベキモノアリ、同参謀脱出ノ辛労ニ敬意ヲ表ス、沖縄戦ノ戦闘指揮ニ関シテハ戦史的感服シ得ザル点若干アリ、苦戦ニ処シテ幕僚心身ノ状況ガ戦闘指揮ニ及ボス影響極メテ大ナルコト、特ニ作戦主任選定ノ重要ナルコト、幕僚長ノ実質的統制把握力ノ重要ナルコト等々幾多感ゼシメラルルコトアリ
また宮崎第一部長も神参謀の戦訓報告をうけて
1 作戦戦闘指導計画ト之ニ基ク戦闘訓練ノ要
2 軍参謀長、参謀間ニ作戦思想ノ不一致
消極的性格ノ暴露、一切ハ智ニアラズ人格ナリ
3 右不統一ノ隷下軍隊ニ及ス重大悪影響
と報告の要点を記しているが、これらはおそらく主戦論を唱えた長参謀長と戦略持久を貫いた八原高級参謀の作戦指導の対立をさしていると思われる。あるいは神航空参謀がウマのあわなかった八原高級参謀について讒言のような戦訓報告をしたことにより、陸軍中央のなかで沖縄戦についてこうした「戦訓」が得られたのであろう。
また大本営は6月20日および29日に「沖縄作戦ノ教訓」というレポートをまとめているが、同レポートには当然、神航空参謀の戦訓報告も取り入れているものと考えられる。そこでは住民保護に関する「戦訓」など何一つなく、本土決戦に向けて、沖縄戦で盛んに実行された「斬込み」といわれる事実上の自殺攻撃の有効性とそのやり方が詳細に延々と記されていることは以前にも触れた通りである。軍上層部にとって沖縄戦とは何だったのかがあらわれている。
なお神航空参謀の航空攻撃の要請については、陸軍はこれに応じなかった。神航空参謀は17日、「追腹を切るの覚悟を以て航空総攻撃の復興を要請すべし」との長参謀長からの電報をうけとり、あらためて河辺参謀次長に航空攻撃を要請したが、参謀次長は「近代戦において航空および基地を度外視して作戦は成立しない。この期に及んで出撃強請は何事であるか」と強い言葉で要請を拒否したという。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/28290113/picture_pc_01686be07c10e3c523455524964410b5.jpg?width=1200)
久米島の状況
久米島では昨日、警防団を通じ海軍鹿山隊が住民に「スパイ」行為を禁じる「達」を布告したが、この日鹿山隊としてあらためて次の「達」を布告した。
昭和二十年六月十五日 久米島部隊指揮官
具志川村中里村 村長・警防団長殿
達
一、敵ノ一昨十三日夜間ニ於ケル具志川村北原部落民羅[ママ]致事件ハ其ノ後判明セル処ニ依レバ青、壮、老年ノ男子各一名ノ被害者ヲ出シ居レリ 敵ノ目的カ那辺ニ在ルカ窺ハルヽモノナリ 然レ共右三名カ目的ニ叶ヘル者ナルカ否カ当方トシテハ疑問トスベキ点アルニ付テハ敵カ再度此ノ種計画ヲ実行スルヤモ知レズト考ヘラルヽニ付全島海岸ニ対スル厳重ナル監視ノ必要ヲ痛切ニ感ズルト共ニ先日ノ如キ監視並報告ニ対スル失敗ヲ繰返サヾル様切望スル次第ナリ
二、右羅[ママ]致者ニ対スル敵ノ取扱ハ図リ知レザルモ当面ノ関係事項トシテハ謀略的見地ヨリスル条件付送還放免、戦略的利用トシテ上陸作戦時ノ道案内並牒者トサルヽ事ナリ 故ニ右被害者ガ本島ノ如何ナル場所ニ上陸帰島スル共其ノ家族ハ勿論一般部落民トノ会話面接ヲ絶対厳禁直ニ軍当局ニ報告連行ノコトニ取扱フコト
三、敵ハ謀略宣伝ヲ開始スル算大ナリ
依ツテ敵ガ飛行機其ノ他ヨリスル宣伝「ビラ」撒布ノ場合ハ早急ニ之ヲ収拾取纏メ軍当局ニ送付スルコト 妄ニ之ヲ拾得私有シ居ル者ハ敵側「スパイ」ト見做シ銃殺ス
[略]
米軍に拉致された住民が島に戻ってきた場合、必ず「スパイ」の任務を遂行するだろうということ、また住民から聞き出した情報をもとにしてかビラの撒布など謀略宣伝を開始するだろうなどと記されている。鹿山隊はそもそも住民に不信感を持ち、疑ってかかっているのであり、鹿山隊の住民観が伺える。そればかりか、たかだかビラを所持しただけで銃殺を明言するところに鹿山隊にとって住民の生命がどのようなものであったか理解できる。
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中央政界の情勢
このころの中央政界では、9日付に木戸内大臣が「時局収拾の対策試案」をまとめた。試案は、まず第一に「沖縄に於ける戦局の推移は遺憾ながら不幸なる結果に終るの不得止を思はしむ」と沖縄戦の戦況認識を記した上で、本土決戦を回避し戦争終結、講和を求める内容であった。
木戸内大臣は昭和天皇の許しを得て、最高戦争指導会議における本土決戦遂行の道とは異なる戦争終結、講和を模索するため、13日には米内海軍大臣と鈴木総理大臣、15日には東郷外務大臣、18日には阿南陸軍大臣というように各方面と打ち合わせを重ねていた。
木戸内大臣と阿南陸軍大臣は沖縄戦の戦局に対する認識は同じであったが、阿南陸軍大臣は本土決戦遂行を強く主張した。これに対し木戸内大臣は「米軍は容易には本土へ上陸をせず、その前に日本各地を焼き払うだろう。当然、国民の戦意も落ちる」「米軍はいまは本土決戦準備に集中している段階だが、準備が完了すれば生易しい条件では講和に応じないだろう」「本土決戦路線で国体護持ができるか昭和天皇も憂慮している」などと述べ、ようやく阿南陸軍大臣の同意を得た。
そもそも5月14日の最高戦争指導会議では、鈴木首相以下六巨頭のうちで戦争終結、講和という方向性が決まっていたが、それについては最高機密となっており、木戸内大臣も戦争終結、講和の方向性を知らなかった。そのためこうした試案を提示したものと思われる。
木戸試案にはその他、「軍備は国防の最小限度を以て満足するの外なかるべし」「我占領地の処分は各国家及各地域に於ける国家民族の独立を達成せしむれば足るを以て、我国は占領指導等の地位を揚棄す」などとあり、戦後の日本の姿の原形のようなものが見てとれる。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/28290218/picture_pc_ae5c8c3ebd771a288c01558b15ef893e.jpg?width=1200)
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』<10>
・同『大本営海軍部・聯合艦隊』<7>
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・吉浜忍「沖縄戦研究と軍事史料」(『史料編集室紀要』第24号)
トップ画像
沖縄南部の日本軍の地下壕に爆薬を投げ込む米兵 45年6月12日:沖縄県公文書館【写真番号84-30-3】