【沖縄戦:1945年2月17日】第32軍司令官、丙号戦備解除 那覇警察署管内の各市村長ら義勇隊結成について協議する
「十七日夕ニ於ケル敵情判断」
第32軍は14日、米機動部隊の動向から米軍の沖縄上陸の可能性が高まったと判断し、南西諸島の戦備を丁号戦備から丙号戦備へ上昇し警戒を厳としていたが、米機動部隊は16日、関東方面へ来襲するとともに、硫黄島へ艦砲射撃や艦載機による爆撃を開始した。
こうした諸状況から第32軍牛島司令官はこの日朝、米軍は硫黄島に上陸するものとして丙号戦備を解除して戦備レベルを一段階下げて丁号戦備へ移行したが、「十七日夕ニ於ケル敵情判断」を発し、引き続き米軍の沖縄上陸を警戒した。
また第62師団(藤岡武雄師団長)の陣中日誌「第62師団副官部陣中日誌」にはこの日の「情報」として、
と記しており、引き続き軍は緊張状態にあったことがわかる。
那覇警察署管内の市村長らが義勇隊結成を協議
第32軍の主力部隊であった第9師団(原守師団長)の台湾抽出以降、沖縄では防衛召集が大々的に行われていたが、このころには防衛召集された者以外の民間人の男女による「義勇隊」の編成が始まっていた。15日には島田知事を支部長とする大政翼賛会沖縄県支部を主体に、県警察部を推進役として全県下に義勇隊が結成されることになり、那覇警察署管内の一市四村の市村長や学校長はこの日、義勇隊の結成を協議した。
戦場に動員するための義勇隊結成に法的根拠はなく、島田知事の「独創」とも評されたが、荒井警察部長は沖縄新報紙上で「最も急務なことは、義勇隊の早急な結成」と述べ、強力に推進している。義勇隊の結成が決まった15日の沖縄新報には、
との第32軍参謀談が掲載され、軍は義勇隊を使用し軍の任務に協力させるとともに、最終的には戦闘員として直接的な戦闘に使用することを考えていた。実際、地上戦がはじまると、戦場で避難している住民を急遽義勇隊として軍に動員することもあり、軍官一体で法的根拠不明の住民の戦争動員がおこなわれたのであった。
独立大隊(海上挺進基地大隊改編部隊)が沖縄各兵団に配属
陸軍特攻艇部隊の海上挺進戦隊の基地業務をおこなう海上挺進基地大隊は、かねてより独立大隊として歩兵部隊に改編されていたが、この日、第24師団(雨宮巽師団長)や第62師団、独立混成第44旅団(鈴木繁二旅団長)など沖縄島に駐屯する各兵団に配属され、地上戦闘力の強化に充当された。
その他、軍は高射砲部隊などの防空部隊を地上戦がはじまった場合は各兵団に配属する計画を立てるなど、地上戦力の自力増強をはかった。防衛隊の召集や義勇隊の動員なども、こうした戦力増強の一環でもある。
沖縄新報より
この日の沖縄新報には次のような記事が掲載されている。
硫黄島の戦い
米軍は引き続き艦船百余隻で硫黄島を包囲し、島へ向けて艦砲射撃を実施するとともに、サイパンを出撃したB‐24爆撃機40機を含む戦爆連合100機以上が島への銃爆撃をおこなった。特に島の南海岸の水際陣地および対空砲台などに砲爆撃が集中した。また米軍の海岸偵察部隊は舟艇を用いて島に接近し、偵察、掃海、浮標の設置、煙弾射撃を実施するなどした。
硫黄島守備隊は昨日に引き続き応射せず、損害もなかったが、未明に東海岸の海軍25ミリ機銃が上述の米軍偵察部隊に発砲、また9時35分ごろ北地区15センチ砲台が米巡洋艦に命中弾を浴びせ、損害を与えた。これをうけて米戦艦3隻が島まで3キロの距離に接近し、北砲台に直撃弾を集中するとともに、掃海艇や小型砲艦、上陸用舟艇数十隻が南海岸まで距離700メートルまで接近し、掃海偵察を実施した。
戦況緊迫するなかで、海軍の南砲台と摺鉢山砲台が11時ごろ射撃を開始し、米駆逐艦や上陸用舟艇に命中弾を浴びせ12隻を大破もしくは相当の損害を与えるとともに、対空砲火により米軍機15機を撃墜した。
この日、硫黄島守備隊は戦死者54名、戦傷者26名、また12センチ平射砲3門や12センチ高角砲3門などが破壊された。
栗林兵団長はこの日夜、「敵ノ本格的上陸企図ハ南海岸ニアルコト概ネ確実ナリ」と判断し、海軍砲台の全貌をこちらから示すような応射を避け、被害の復旧や防備の強化に努めた。
また豊田連合艦隊司令長官は硫黄島の海軍部隊の指揮官である市丸少将に次のような激励電を発した。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『中部太平洋方面陸軍作戦』〈2〉
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
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海兵隊員を乗せて硫黄島に迫る米軍上陸用車両:時事ドットコムニュース「硫黄島の戦い 写真特集」