【沖縄戦:1945年7月14日】久米島の米軍、「ニミッツ布告」を読み上げる─日本と沖縄で異なる二つの戦後
久米島における「ニミッツ布告」の読み上げ
6月26日に久米島に上陸した米軍は、28日には島の上田森、儀間、鳥島に星条旗を立て、30日には久米島占領を宣言した。そしてこの日、久米島の仲里村の村長、区長、議員の会議の席上、米軍が「ニミッツ布告」(軍政府布告第1号)を読み上げ、与座曾光を仲里村長に任命した。具志川村でも仲里村同様ニミッツ布告が読み上げられ、安村仁秀が村長に任命され、米軍政の下で村政が復活する。
久米島警防団のこの日の日誌には次のようにある。
米軍の軍政期間中には学校が再開し、郵便局が開局、軍作業従事者への賃金の支払い、物資の有償化、久米島紙幣の発行など、経済活動もおこなわれたといわれる。
一方で、このころの久米島では海軍兵曹長鹿山正率いる海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊(鹿山隊)が山を拠点に住民殺しをおこなうなどしていた。また具志川村農業会の会長であった吉浜智改のこのころの戦時日記には、
と記されており、島では米兵による事件やトラブルが絶えず、けして落ち着いた状況ではなかったことがわかる。久米島の鹿山隊の投降と引き揚げは9月上旬、米軍の退去は10月下旬まで待たねばならなかった。
ニミッツ布告について
久米島で読み上げられた「ニミッツ布告」とは、簡単にいうと米海軍ニミッツ元帥の名において日本の統治権のすべてが停止され、米軍政下に入るという布告である。
ニミッツ布告が最初に公布されたのは、45年3月26日、慶良間諸島であった。慶良間諸島に上陸した米軍は、ただちに米国海軍軍政府布告第1号「米国軍占領下ノ南西諸島及其近海居住民二告グ」、すなわちニミッツ布告を公布し、日本政府のすべての行政権の行使の停止と日本の裁判所の司法権の停止を命じ、戦闘とともに占領統治を開始したのであった。その内容は以下の通り。
ニミッツ布告第1号には1945年という年の記載だけで日付の記載がないが、あくまでも占領によってはじめて布告ができるものであり、戦闘の進み方次第ではいつ布告となるか不明確であるから、詳細な日付は記載しなかったのであろう。
ニミッツ布告はその後、刑法規を定める布告第2号や為替取引などを定める第4号はじめ第10号まで公布され、米軍政の基本法となった。なお第4号などでの経済・金融活動の停止により、沖縄では約1年は通貨が通用しなくなり、経済活動が停止するが、久米島では独自の紙幣が発行され経済活動がおこなわれるなど、若干異相が異なることは興味深い。
そして46年1月29日にGHQが発した「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離する覚書」によって、北緯30度以南の南西諸島は日本の統治権から分離された。これによりニミッツ布告による日本の統治権の停止は、長期化することになった。日本本土を占領した米軍は、あくまでも日本政府の統治権のもと間接的な占領統治をおこなったわけであるが、沖縄は異なった。日本と沖縄でそれぞれ異なる二つの「戦後」がはじまっていったのである。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川平成雄「沖縄戦終結はいつか」(『琉球大学経済研究』第74号、2007年)
・同「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号、2008年)
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海軍軍政府布告第1号「権限の停止」:沖縄県公文書館所蔵【資料コードRDAP000031】