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【沖縄戦:1945年7月14日】久米島の米軍、「ニミッツ布告」を読み上げる─日本と沖縄で異なる二つの戦後

久米島における「ニミッツ布告」の読み上げ

 6月26日に久米島に上陸した米軍は、28日には島の上田森、儀間、鳥島に星条旗を立て、30日には久米島占領を宣言した。そしてこの日、久米島の仲里村の村長、区長、議員の会議の席上、米軍が「ニミッツ布告」(軍政府布告第1号)を読み上げ、与座曾光を仲里村長に任命した。具志川村でも仲里村同様ニミッツ布告が読み上げられ、安村仁秀が村長に任命され、米軍政の下で村政が復活する。
 久米島警防団のこの日の日誌には次のようにある。

  七月十四日 晴
  [略]
一、仲里村村長与座氏就任ス

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 米軍の軍政期間中には学校が再開し、郵便局が開局、軍作業従事者への賃金の支払い、物資の有償化、久米島紙幣の発行など、経済活動もおこなわれたといわれる。
 一方で、このころの久米島では海軍兵曹長鹿山正率いる海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊(鹿山隊)が山を拠点に住民殺しをおこなうなどしていた。また具志川村農業会の会長であった吉浜智改のこのころの戦時日記には、

 七月十一日 十二日
上田森運動場に米軍陣地敷かれた
 七月十四日
米軍裸体者等が民家を荒しまわるので再び退避騒ぎあり
 七月十五日
米軍空家を荒らし家畜家禽を害する者多シ 海軍陸戦隊だと云うが裸体者等は見られたものではない
上田森陣地一層堅固を加ふ
 七月十六日
今尚ホ米軍の暴行を怖れ山から山をウロタエサマヨエル小娘の群がここかしこありと云ふ

(『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録)

と記されており、島では米兵による事件やトラブルが絶えず、けして落ち着いた状況ではなかったことがわかる。久米島の鹿山隊の投降と引き揚げは9月上旬、米軍の退去は10月下旬まで待たねばならなかった。

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久米島の米軍 眼の病であるトラコーマの罹患調査を実施するにあたり、住民に調査への協力を呼びかけている画像と思われる この画像は沖縄戦で久米島に上陸した米軍を撮影した画像ではなく、撮影年月不明ながら、沖縄戦終結後それなりに時間が経過してからの画像と思われるが、何となく島の雰囲気を理解するのに役立つかと思う:沖縄県公文書館【写真番号18-01-3】

ニミッツ布告について

 久米島で読み上げられた「ニミッツ布告」とは、簡単にいうと米海軍ニミッツ元帥の名において日本の統治権のすべてが停止され、米軍政下に入るという布告である。
 ニミッツ布告が最初に公布されたのは、45年3月26日、慶良間諸島であった。慶良間諸島に上陸した米軍は、ただちに米国海軍軍政府布告第1号「米国軍占領下ノ南西諸島及其近海居住民二告グ」、すなわちニミッツ布告を公布し、日本政府のすべての行政権の行使の停止と日本の裁判所の司法権の停止を命じ、戦闘とともに占領統治を開始したのであった。その内容は以下の通り。

 日本帝国ノ侵略主義並二米国二対スル攻撃ノ為、米国ハ日本二対シ戦争ヲ遂行スル必要ヲ生ゼリ。且ツ是等諸島ノ軍事的占領及軍政ノ施行ハ我ガ軍略ノ遂行上並二日本ノ侵略力破壊及日本帝国ヲ統轄スル軍閥ノ破滅上必要ナル事実ナリ。
 治安維持及米国軍並二居住民ノ安寧福祉確保上占領下ノ南西諸島中本島及他島並二其ノ近海二軍政府ノ設立ヲ必要トス。
故二本官米国太平洋艦隊及太平洋区域司令長官兼米国軍占領下ノ南西諸島及其近海ノ軍政府総長、米国海軍元帥シー・ダブリュー・ニミツハ茲二左ノ如ク布告ス。

一、南西諸島及其近海並二其住民二関スル総テノ政治及管轄権並二最高行政責任ハ占領軍司令長官兼政府総長、米国海軍元帥タル本官ノ権能二帰属シ本官ノ監督下二部下指揮官ニヨリ行使サル。
二、日本帝国政府ノ総テノ行政権ヲ停止ス。
三、各居住民ハ本官又ハ部下指揮官ノ公布スル総テノ命令ヲ敏速二遵守シ、本官下ノ米国軍二対シ敵対行動又ハ何事ヲ問ハズ日本軍二有利ナル援助ヲ為サズ、且ツ不穏行為又ハ其ノ程度如何ヲ問ハズ治安二妨害ヲ及ボス行動二出ズ可カラズ。
四、本官ノ職権行使上其必要ヲ生ゼザル限リ居住民ノ風習並二財産権ヲ尊重シ、現行法規ノ施行ヲ持続ス。
五、爾今総テノ日本裁判所ノ司法権ヲ停止ス。但シ追テノ命令アル迄、該地方二於ケル軽犯者二対シ該地方警察官二依リテ行使サルル即決裁判権ハ之ヲ継続スルモノトス。
六、本官又ハ本官ノ命令ニ依リ解除サレタル者ヲ除ク総テノ官庁、支庁及町村又ハ他ノ公共事業関係者並二雇傭人ハ本官又ハ特定サレタル米国軍士官ノ命令ノ下二其職務二従事ス可シ。
七、占領軍ノ命令二服従シ平穏ヲ保ツ限リ居住民二対シ戦時必要以上ノ干渉ヲ加ヘザルトス。
八、爾今、布告、規則並二命令ハ本官又ハ本官ヲ代理スル官憲ニ依リ逐次発表サレ、之二依リ居住民二対スル我要求ハ禁止事項ヲ明記シ、各警察署並二部落二掲示サル可シ。
九、本官又ハ本官ヲ代理スル官憲ニ依リ発布サレタル本布告、他ノ布告並二命令又ハ法規等二於テ英文卜其他ノ訳文ノ間二矛盾又ハ不明ノ点生ジタル場合ハ英文ヲ以テ本体トス。

一九四五年月日
米国太平洋艦隊及太平洋区域司令長官兼南西諸島及其近海軍政府総長

(『読谷村史』第5巻資料編4 戦時記録 下巻)

 ニミッツ布告第1号には1945年という年の記載だけで日付の記載がないが、あくまでも占領によってはじめて布告ができるものであり、戦闘の進み方次第ではいつ布告となるか不明確であるから、詳細な日付は記載しなかったのであろう。
 ニミッツ布告はその後、刑法規を定める布告第2号や為替取引などを定める第4号はじめ第10号まで公布され、米軍政の基本法となった。なお第4号などでの経済・金融活動の停止により、沖縄では約1年は通貨が通用しなくなり、経済活動が停止するが、久米島では独自の紙幣が発行され経済活動がおこなわれるなど、若干異相が異なることは興味深い。
 そして46年1月29日にGHQが発した「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離する覚書」によって、北緯30度以南の南西諸島は日本の統治権から分離された。これによりニミッツ布告による日本の統治権の停止は、長期化することになった。日本本土を占領した米軍は、あくまでも日本政府の統治権のもと間接的な占領統治をおこなったわけであるが、沖縄は異なった。日本と沖縄でそれぞれ異なる二つの「戦後」がはじまっていったのである。

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海軍軍政府布告第1号「権限の停止」:沖縄県公文書館所蔵【資料コードRDAP000031】

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川平成雄「沖縄戦終結はいつか」(『琉球大学経済研究』第74号、2007年)
・同「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号、2008年)

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海軍軍政府布告第1号「権限の停止」:沖縄県公文書館所蔵【資料コードRDAP000031】