米軍の侵攻つづく
沖縄南部湊川方面においては、6時ごろ米艦艇が湊川沖に出現し、6時30分ごろから艦砲射撃を開始した。7時30分ごろ輸送船および上陸用舟艇十数隻が発煙下に湊川海岸に接近したが、9時15分には反転して沖合に遠ざかった。また米艦艇の主力は、浦添、那覇方面にも艦砲射撃を行った。
昨日米軍が上陸した嘉手納沖では、兵員の上陸や兵器や資材の陸揚げが続いた。さらに米軍は、越来、中城、北谷、宜野湾の各村方面に侵攻、東には喜舎場、泡瀬まで迫り、沖縄島を南北に分断する寸前まで進出した。
主に読谷村の北飛行場周辺で上陸する米軍を迎え撃つかたちとなった特設第1連隊(青柳時香連隊長)だが、実際はほとんど米軍に対し有効な戦闘ができず、この日には同連隊の第2大隊長が戦死するなど壊滅状態となった。
第32軍牛島司令官は、この日をもって同連隊に沖縄北部への撤退を命じ、国頭支隊のもとで遊撃戦を展開するよう指示する。なお同連隊との交信は、この日以降途絶える。
しかし、どのような経緯かは不明ながら、青柳連隊長は、部隊の主力を北部転進ではなく南部の軍主力への合流を企図し、敵陣突破をはかるが、途中で米軍と遭遇し多大なる損害をうけ、南部転進は失敗した。
また同連隊の第2大隊長は、第44飛行場大隊、第504特設警備工兵隊、県立農林学校生徒による農林鉄血勤皇隊を指揮し、御殿敷の北側高地を陣地としていたが、第504特設警備工兵隊がこの日夜、大隊長に連絡なく陣地を撤退してしまった。第2大隊長はやむをえず、自身の率いる第44飛行場大隊だけで戦闘することを決意し、農林隊に乾パンなどを配布し、解散を命じたという。
一方で、農林隊の一部約20人は、既に「斬込隊」として尚謙隊長以下に率いられ青柳連隊長のもとへ向かっていた。この部隊は、最後まで転戦することになり、最後は沖縄北部の東村で壊滅することになるが、これについてはまたあらためて触れる。
南下をはじめる米軍を迎え撃つ独立歩兵第12大隊(賀谷與吉大隊長、賀谷支隊)は、少数部隊ながら精鋭をもって米軍に抵抗し、大きな被害を出しつつも米軍に一定の損害を与えていた。この日朝より賀谷支隊は、米軍の戦車を伴う攻撃をうけ、午後からの戦闘は特に苛烈になったといわれる。
賀谷支隊の属する第62師団の歩兵第63旅団長(中島徳太郎旅団長)は、賀谷支隊を支援するため軍砲兵隊による砲撃を上申したが、牛島司令官は砲兵隊の配置が米軍に悟られることを警戒し、これを認めなかった。
また、この日、沖縄北部では大宜見国民学校の校舎が空襲で全焼した。その他、軍司令官は、翌日3日以降、遊撃隊に北・中飛行場への秘密遊撃戦を実施するよう国頭支隊に命令した。結局、この命令は北・中飛行場の比較的近くに配備されていた第4遊撃隊(第2護郷隊、岩波壽隊長)には届かなかったが、このように沖縄北部でも戦闘がいよいよ地上戦が始まろうとしていた。
なおサンフランシスコNBCはこの日、沖縄へ上陸した米軍は第10軍の第24軍団および第3海兵遠征部隊であると放送した。
昭和天皇の「御下問」と第32軍への不満
梅津参謀総長はこの日、戦況上奏において昭和天皇より沖縄作戦について「御下問」をうけ、「軍司令官のおこなう攻勢もありえる」旨をこたえた。宮崎第1部長のこの日の日記には、上奏について次にように記されている。
大本営陸軍部第2課(天野正一課長)は、北、中飛行場があまりにも簡単に制圧されたことに衝撃をうけ、第32軍がはなはだ消極的で、自己生存主義をとるのではないかと懸念を抱き、敵の出血強要、飛行場奪回を要望する電報を起案した。ただし大本営陸軍部宮崎周一第1部長は、戦闘がすでに始まっているなかで、それは不合理な干渉であるとして不同意を表明、発信しなかった(戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉では天野課長の電報の起案は3日の出来事となっており、若干異同が見られる)。
いずれにせよ、少しずつ第32軍へのプレッシャーは高まっていっており、これが第32軍司令部内部のぎくしゃくしたものを生み、戦略持久からの攻勢移転(総攻撃)への作戦方針の変更につながっていくものと思われる。
とはいえ、この日、大本営の作戦連絡において、沖縄戦の見通しについて小磯国昭首相に問われた宮崎第1部長は、「結局敵に占領せられ本土来寇は必至」とも回答している。この日の「機密戦争日誌」には次のように記されている。
沖縄戦ごく最初期の時点で、軍上層部は、明確に沖縄戦の敗北は必至と認識していたことが伺える。そこから第32軍への干渉のようなことは不同意という宮崎第1部長の態度は、ある種の諦めからきているものとも考えられる。
軍の住民「スパイ」視について
歩兵第89連隊第2中隊のこの日の陣中日誌には、軍が住民を「スパイ」視する文言が記されている。陣中日誌には「球情報」すなわち第32軍司令部から各隊に発せられた情報として、
とあり、米軍は、占領地帯の住民を使って偵察・諜報活動を行うことは明瞭なので、「地方人」すなわち軍の陣地に近寄ってくる沖縄住民に対して、兵士に不用意に対処させてはならず、必ず捕まえて訊問しろとある。初年兵に対する面会というのは、初年兵は軍隊経験が浅く防諜意識が希薄であるとともに、そもそも初年兵は現地入隊兵が多い、つまり沖縄出身者である場合があるので、何をするかわからないということであろう。軍による住民「スパイ」視がはっきり看取されるとともに、これらが後に軍による住民迫害、虐殺につながっていくことになる。
チビチリガマの悲劇
多くの住民が避難していた読谷村のチビチリガマではこの日、80人もの住民の強制集団死が起きる。ガマでは前日、米軍上陸によって住民が布団に火をつけ強制集団死をはかったが、消し止められていた。この日に至ってガマは極度の緊張状態にあり、米兵が再び姿を見せたことなどを契機に、多くの住民が強制集団死で犠牲となった。
チビチリガマでの強制集団死を主導したのは、中国戦線の経験のある元日本兵と元従軍看護婦の住民といわれている。彼らは中国戦線での日本軍の残虐行為を見てきたため、自分たちも同じことをやられると住民を煽り、強制集団死を主導した。
ただし、ガマに避難していた全ての住民が犠牲になったわけではなく、元日本兵たちも「出て行きたい人は出て行きなさい」などといったという。これいよりガマから逃げ出し米軍に保護された住民も多くいる。
また強制集団死を主導した住民のみに全ての責任があり、チビチリガマの悲劇がその住民の個人的な過失ということではない。軍の共生共死の思想はじめ、背景にあるものを考えていく必要があるだろう。
チビチリガマの悲劇について証言する大湾千代さん:NHK戦争証言アーカイブス
米軍戦史から
新聞報道より
この日の沖縄新報社説は、米軍沖縄上陸を次のように論じた。
また大阪朝日新聞はこの日、米軍沖縄上陸を次のように報じた。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『読谷村史』戦時記録 上巻
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
トップ画像
読谷の喜納集落へ向かって歩く海兵隊員 沖縄特有の珊瑚礁の垣根が目につく 1945年4月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-15-3】(siggraph2016_colorizationでカラー化)