【沖縄戦:1945年3月30日】第32軍、北・中飛行場の破壊を命令 「軍神」と称賛された特攻隊員と「死ね」と罵倒された特攻隊員
30日の戦況
米機動部隊が九州方面で行動中のためか、昨日に続き米艦載機の沖縄島への空襲は、約350機と低調だった。米艦艇による艦砲射撃は、北飛行場(読谷)以南の西海岸に向けられた。
米艦載機の来襲や沖縄島周辺で確認できる米艦艇の減少などから、第32軍の一部は、米軍上陸の切迫感から一時的に解放された気分であったが、湊川方面では、米軍の上陸用舟艇12隻が1時間以上も入念に偵察を行ったため、同方面を守備する雨宮巽師団長率いる第24師団の歩兵第89連隊(金山均連隊長)は、明日31日10時ごろの干潮時に米軍の上陸があると判断し、警戒を厳重にした。
第24師団歩兵第89連隊第5中隊のこの日の陣中日誌には、次のように記されている。
米軍上陸にあたり、発煙筒を焚いて大規模に煙幕を張り、米軍の視界を奪うという作戦を計画していたのだろう。「各隊長ハ煙内監視煙内射撃ニ関スル準備ヲ周到ニシ 万不覚ヲトラザル如ク予メ準備スベシ」の一文に相当な緊迫感が看取される。結局、湊川方面への米軍の上陸はなかったため、この煙幕作戦は実施されなかったと思われるが、米軍上陸後の5月、第32軍が戦略持久から攻勢移転し総攻撃をかける際に、大規模に発煙筒を焚き煙幕を張る煙幕作戦が実行されている。
遊動砲兵と北・中飛行場の破壊
米軍の猛爆をうけながらも、第32軍は、部隊の配備を秘匿するため、米艦艇への射撃、応戦を厳禁してきたが、この日戦車第27連隊の砲兵中隊(九〇式野砲四門)を遊動砲兵として、適時陣地を移動しながら夜間に接近してきた米艦艇を急襲射撃するよう配置した。
また第32軍牛島司令官はこの日、軍船舶隊に慶良間諸島の艦船の状況を偵知するため、慶良間諸島に捜索拠点を配置することを命じた。
それとともに、沖縄の飛行場に航空特攻部隊を配備する「張付特攻」が不可能となったため、北飛行場および中飛行場(嘉手納)の滑走路の破壊を命じた。これにより北・中飛行場方面の防衛を担当する特設第1連隊(第19航空地区司令官)の青柳時香中佐は、指揮下部隊に飛行場の破壊と読谷山の既設陣地の占領を命じた。
第8飛行師団の敵情判断
これまで第32軍の上級軍である台湾の第10方面軍の隷下部隊である陸軍第8飛行師団は、米軍の沖縄島上陸について3月30日前後と判断してきたが、ここ数日の米軍の行動を踏まえ判断を変更した。すなわち第8飛行師団は、米軍は硫黄島上陸戦の苦戦などもあり、慶良間諸島を充分に拠点化し、一定の準備をした後の4月中旬以降に沖縄島に上陸を開始すると判断した。
海軍沖縄方面根拠地隊司令官の訓示
沖縄の海軍の陸戦隊である海軍沖縄方面根拠隊の大田実司令官はこの日、以下のごとく訓示した。
「国士隊」の動向
この日、沖縄北部に配備されていた国頭支隊は、支隊の配下で防諜や諜報、宣伝、謀略といった秘密戦に従事していた住民を諜報要員とする秘密戦機関である「国士隊」に対し、次のような通知を出している。
(別記第二)以下は、国頭支隊が国士隊に示した一般住民宛てのビラの文案となっている。とにかく米軍上陸が間近となるなかで、民心の掌握と戦意高揚に努めるとともに、住民間に不穏な動きがないか探ろうとしているのがわかる。いわば米軍よりも住民の存在にこそ恐怖と不安を覚えているかのようである。こういうところに戦争や軍隊の本質が垣間見れる。
また国頭支隊の宣伝ビラの文案には、米軍が毒や細菌を混入させた食料を投げるかもしれないとあるが、このように軍が米軍の恐怖を煽ることにより住民のなかで米軍に捕まるくらいなら死んだ方がいいという感情が醸成され、それが集団死などにつながっていったともいわれている。
「とにかく死ね」と罵倒された特攻隊員
第8飛行師団や第6航空軍および第5航空艦隊は、23日の米軍の南西諸島空襲以来、沖縄方面での航空特攻作戦の実施に向けて準備を始めるとともに、24日ごろより米艦艇への攻撃を開始した(天一号作戦)。
特に第8飛行師団の第9飛行団「誠」第17飛行隊は26日、石垣島の陸軍白保飛行場を発進し、慶良間諸島沖合の米空母群に対し航空特攻を行い、第8飛行師団の航空特攻の第一陣となったが、このことは既に触れた通りである。「誠」第17飛行隊伊舎堂用久隊長は、石垣島出身ということもあり、「軍神」として称賛された。
他方、航空特攻の現実は、米艦艇へ突入する前に大部分が撃墜され、大半が失敗に終わっている。そもそも機体の整備不良やパイロットの飛行練度が不足し作戦地域まで辿り着くことすらできない機体も多数あり、航空特攻のため出撃した特攻隊員が不時着し帰還することもあった。
特攻隊員が帰還した場合、軍上層部は帰還した隊員を隔離し、戦死したこととした。帰還したある特攻隊員がふと出撃名簿を見ると、自分は赤で×印がつけられ、「任陸軍大尉」とされ、二階級特進の戦死となっていたという。
そして軍上層部は、帰還した特攻隊員に対し「なぜ帰ってきた」「とにかく死ね」「死んだ連中に申し訳ないと思わないのか」と罵倒し、なかには追い詰められ自殺した隊員もいた。戦果を求めたはずの航空特攻は、いつしか「死」を追及するためだけの作戦にかわっていったのである。
コリンズ一等兵の手紙
1945年4月1日。「Love Day」と呼称された沖縄上陸予定日を控え、沖縄西海岸には多数の上陸部隊が集結し、1300隻余りの米艦船が沖縄近海を取り巻いた。
そうしたなかで沖縄洋上で米海兵隊ジェリー・コリンズ一等兵は、軍事郵便を用いて両親にあてて遺書ともとれる短い手紙を書いている。コリンズ一等兵の手紙は、おそらく上に示した飛行艇などでグアムなどを経由して家族のもとに届けられたのだろう。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・吉浜忍「米軍上陸前後の日本軍─第二十四師団山第八十九連隊陣中日誌にみる日本軍の対応─」(『史料編集室紀要』第27号)
・加藤拓「沖縄陸軍特攻における『生』への一考察─福岡・振武寮の問題を中心に─」(『史苑』第68巻第1号)
トップ画像
艦砲射撃により破壊された嘉手納の集落:沖縄県公文書館【写真番号105-04-2】(siggraph2016_colorizationでカラー化)