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【沖縄戦:1945年5月12日】「彼我勝敗ノ岐路ハ今明日中ニ在リ」─首里司令部の危機 「お前たちはこんないい物を食っているのか」─沖縄北部で住民虐殺事件(渡野喜屋事件)おきる

12日の戦況

首里司令部西方
 首里司令部西方の天久台および安里正面は戦車を伴う強力な米軍の猛攻をうけた。
 米軍は安里52高地(慶良間チージ、シュガーローフ・ヒル、現在のゆいレールおもろまち駅付近)に突進してきたが、守備隊はこれを急襲し撃退した。
 天久台を守備する独立第2大隊の陣地は米軍の馬乗り攻撃をうけ、近接戦を展開したが天久台上の大部分は米軍に占領された。
 独立混成第44旅団長は、同方面の防衛を担任する右地区隊(独立混成第15連隊)に旅団予備の独立混成第15連隊の第1大隊(野崎大隊)を右地区隊に増加した。

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首里司令部西方、北方の戦闘の状況 安波茶は沢岻の北(本図には地名の記載はない) 1Bn/15MRs は独立混成第15連隊第1大隊:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

首里司令部北方 
 首里司令部北方の沢岻高地では、この日早朝から沢岻高地台上で日米の争奪戦が繰り返され、夕方には米軍が台上の大部分を占領した。同方面を守備する歩兵第64旅団司令部や独立第15大隊は沢岻高地南側の洞窟陣地に籠り、また独立歩兵第23大隊は沢岻高地東側地区、第2歩兵隊第3大隊本部は沢岻北西側高地陣地に拠って抵抗をつづけた。夜に入り沢岻高地台上奪回のための夜襲を決行したが、成功しなかった。
 第2歩兵隊第3大隊第7中隊はこの日夜、内間付近で抵抗を続ける部隊の救援に向かったが、多数の死傷者を出し撤退した。
 安波茶南側で孤立していた独立機関銃第14大隊は、13日夜に包囲を突破して沢岻付近に後退したが、無事に帰還できたのは下士官以下数名であり、大隊長以下ほぼ全滅した。
 第62師団長はこの日夜、独立歩兵第22大隊から一個中隊(第1中隊)を派遣し歩兵第64旅団を増強した。中隊は13日朝4時ごろ沢岻に到着し、独立歩兵第15大隊の指揮下に入った。
 また、このころ独立歩兵第23大隊に配属され5日以来安波茶付近で善戦した独立第3大隊は、この日までに大隊長代理更田大尉以下約20名にまで戦力が衰えていた。

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安波茶で米軍を攻撃していた日本軍の対戦車砲(一式機動四十七粍速射砲か) 米軍の火炎攻撃により破壊された 手前は焼け焦げた日本兵の遺体 45年5月12日撮影:沖縄県公文書館【写真番号96-28-3】

前田集落南側地区 
 前田集落南側地区では引き続き混戦となり、同地区右翼の勝山方面では現陣地を維持したが、左翼は経塚方面から進入した米軍が陣地の一部を占領した。第二線に位置していたい歩兵第32連隊第1大隊(伊東大隊)は左翼方面を強化し米軍の進入阻止に務めた。
 昨11日夜、歩兵第32連隊長は独立第26大隊の一個中隊をもって、同地区の洞窟で包囲されていた独立臼砲第1連隊本部、独立歩兵第11大隊本部、歩兵第32連隊第3大隊(満尾大隊)本部の救援攻撃を実施させた。これにより各隊本部はこの日未明、同地を脱出した。歩兵第32連隊第3大隊本部の生存者は満尾大隊長以下8名というほどの状況であった。

首里司令部東方 
 首里司令部東方の歩兵第22連隊正面は戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけたが善戦して撃退した。
 運玉森方面では、運玉森北西800メートルの100メートル閉鎖曲線高地付近で近接戦闘がおこなわれたが、陣地を確保した。

渡嘉敷島 
 渡嘉敷島に上陸した米軍と同島に配備されている海上挺進第3戦隊は近距離で対峙し、米軍は機関銃や迫撃砲を射撃し、少数の米軍が戦隊の前進陣地に近接するなどした。赤松戦隊長は戦備強化のため食糧確保を任務とした自活班を一時解散し陣地強化にあてたほか、第2中隊連下少尉以下12名の遊撃隊を編成した。夜に入ると斬込隊を派遣し戦果をあげた。

軍司令部の動向と海軍部隊の抽出

 第32軍司令部はこの日午後、各方面に次の電報を発した。

 球参電第三三一号(十二日一三五五発電)
一 敵ハ那覇北方安謝附近ニ海兵第六師団ヲ投入我カ左翼ヲ席捲シ首里近ク迫リ□□□□[判読不能]上陸地域軍ノ全師団ハ我ニ見参セリ
一 我ハ後方部隊ノ大部ヲ前線ニ投入接戦格闘中ナルモ敵亦苦戦ニ喘キアルモノノ如シ
一 彼我勝敗ノ岐路ハ今明日中ニ在リ
一 陸海連合ノ全力ヲ速急ニ本島周辺ニ投入シ勝敗ヲ一挙ニ決セラルルコトヲ切望ス 敵後方船団ノ動静ニ鑑ミ茲数日間ノ捷機ハ断シテ逸スヘカラサルモノト確信ス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 「彼我勝敗ノ岐路ハ今明日中ニ在リ」との一文に、第32軍の置かれている状況の厳しさと、これに対する軍司令部自身の認識を見てとることができる。実際に首里司令部は東西北から米軍の猛攻をうけており、まさに戦況は「彼我勝敗ノ岐路ハ今明日中ニ在リ」というにふさわしいものであった。
 また軍司令部はこの日、海軍部隊に対し二個大隊を差し出し、第24師団および独立混成第44旅団長の指揮下に一個大隊ずつ配属するよう命令した。
 海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官は、海軍部隊の陸戦投入について佐世保鎮守府司令長官に次のように電報している。

 一二一五一八番電
 当地海軍部隊ハ五月十一日第三十二軍命令ニ基キ有力ナル一部ヲ以テ依然小禄地区ヲ守備スルト共ニ主力ヲ以テ陸軍部隊ト一体トナリテ逐次首里周辺ノ戦闘ニ参加スル方針ノ下ニ小禄地区守備隊ハ羽田大佐ヲシテ之ニ当ラシメ野戦機動兵力(五ヶ大隊、一ヶ大隊兵力約四〇〇名)ハ本職之ヲ直率十六日一六〇〇迄ニ先ヅ首里南東地区ニ進出ノ予定ナリシ処爾後情勢ノ急迫ニ依リ本夕一ヶ大隊ヲ与那原方面ニ派遣シ第二十四師団長ノ指揮下ニ、一ヶ大隊ヲ首里南西地区ニ派遣独立混成第四十四旅団長ノ指揮下ニ作戦セシメラルルコトトナレリ

(同上)

 この後、軍司令部さらに四個大隊の抽出と斬込隊二十組の派遣を海軍部隊に命じている。まさに大田司令官の電にあるとおり、情勢は急迫していた。
 なお沖縄現の陸海軍の協同については、すでに44年5月に締結された南西諸島台湾及伊豆諸島方面作戦ニ関スル陸海軍中央協定に基づき、同年6月、第32軍と海軍沖縄方面根拠地隊が現地協定を締結し、陸上戦闘の場合の陸海軍の協同と統一指揮権などが取り決められている。

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前線に物資を運ぶウィーゼル車と戦死した米兵の遺体(手前) 物資の荷下ろしが終わると、ウィーゼル車は遺体を後送する 45年5月12日撮影:沖縄県公文書館【写真番号96-16-1】

「スパイ部落を襲撃する」─渡野喜屋事件おこる

事件の概要 
 沖縄北部に配備されていた国頭支隊は敗走をつづけ、事実上解隊し、各隊ごとに山中に潜伏するなどしていた。そのうち国頭支隊通信隊の東郷少尉率いる一隊(東郷隊)はこの日深夜、沖縄北部の大宜味村渡野喜屋の集落で米軍に保護収容されていた多数の避難民を「スパイ」として虐殺した。いわゆる渡野喜屋事件である。
 当時、渡野喜屋には米軍によって連行された避難民の一時収容所がつくられ、90人ほどが暮らしていた。人々は米軍による配給をうけ、比較的安定した生活を送っていた。収容所といっても囲いがあるわけでもなく、米軍の監視もほとんどなかった。一方で渡野喜屋の地元住民は山中に避難し生活していた。
 東郷隊はこの日未明、集落を襲撃した。兵士たちは住民に銃剣や軍刀を突きつけ、男性を後ろ手に縛り、猿ぐつわをして集落から少し離れた場所に連行し、首を斬りつけるなどして殺害したり「捕虜」として尋問するなどした。また女性や子どもは海岸へ連行し、その場に座らせたうえで手榴弾を投げつけて虐殺した。夜が明けて惨状を目にした米軍は、日本軍が日本人に対しこのような残虐行為をやったということが信じられず、奇跡的に生き延びた住民は何度も事態を説明したという。
 なお住民たちは東郷隊に「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」などといわれたという。また一命をとりとめた住民が家に戻ると毛布や食糧などあらゆるものが強奪されていたそうだ。

事件の背景 
 事件の背景には軍による住民「スパイ」視と、避難民と地元住民の分断があった。
 東郷隊の一員として事件に関わった人物は、米軍に保護収容されていた避難民について、地元住民から「米軍から大量の食糧を支給されている」「日本兵の動向を米軍に通報している」との情報が東郷隊にもたらされたと証言する。そのため、二人の兵長が斥候として派遣されたところ、米軍に連行され行方不明となった。東郷隊は米軍の攻撃をおそれ、木の葉が落ちる音にもおびえるようになり、恐怖と緊張の異常な精神状態のなかで、行方不明となった二人の兵長の「霊」を弔うため復讐の斬り込みをおこなうことを決定し、「スパイ部落を襲撃」し「スパイを逮捕」する計画をたて、実行した。しかし事件後、米軍に連行され行方不明になった二人の兵長が無事に帰還したことによって、ようやく取り返しのつかないことに手を染めた気づいたと話す。
 かねてからの日本軍の住民「スパイ」視に加え、渡野喜屋の地元住民が避難民を「密告」したという住民同士の分断、敗残兵となり米軍の掃討におびえる日本兵が感じた恐怖、食糧が欠乏した異常な精神状態など、様々な原因が錯綜するなかで渡野喜屋事件は発生したといえる。

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中南部から北部へ移動する住民 こうした一般住民が「スパイ」として殺害された 45年5月12日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-17-3】

「虐殺者の肖像」─今帰仁村警防団長虐殺事件と白石隊

今帰仁村警防団長虐殺事件 
 この日、今帰仁村で警防団長をしていた謝花喜睦さんが日本刀で殺害された。本部半島では運天港に配備されていた海軍第27魚雷艇隊の白石信治大尉以下白石隊と海軍第2蛟龍隊の一隊、および崎本部付近に配備されていた海軍船舶工兵隊の一隊が山中をさまよっていたが、夜な夜な集落を襲い、住民から食糧を強奪していた海軍第2蛟龍隊の渡辺大尉率いる一隊が謝花さんを呼び出し、殺害したといわれている。渡辺大尉については、三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』が「虐殺者の肖像」として追いかけている。ぜひ、お読みいただきたい。

白石隊と「殺害リスト」 
 白石隊も食糧強奪はおろか「スパイ」容疑での住民の虐殺に手を染めている。
 ある集落では「運天から来た者だ」と名乗る日本軍部隊が「きさまらがスパイをしたために日本軍は負けた」などと軍刀で住民を脅し、「アメリカから物をもらっただろう」などといって食糧や仏壇に供えていた煙草まで強奪する事件がおきた。
 その際に、兵士は村の指導者層の名前を書き出した帳面を出して「これとこれは明日斬ってやる」などとうそぶき、隊長格の人物が住民に「照屋忠助とはどんな関係か」と本部国民学校照屋忠英校長のことと思われる人物について質問したという。
 別の場所で白石隊長は住民に「昨日、照屋忠英校長を殺害した」「スパイの充分な証拠がある」「次は誰と誰を殺す番になっている」などと公言したという。兵士が住民に見せた「殺害リスト」と白石隊長が住民に話をした殺害の順番、あるいは照屋校長への質問と照屋校長殺害の公言など、白石隊が住民虐殺を実行したことは間違いがない。その他にも白石隊が今帰仁村の兵事主任を殺害したと聞いたという証言もある。
 なお白石隊は45年9月、米軍に投降している。

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米軍に降伏し軍刀を返納する白石大尉 45年9月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号12-39-4】

新聞報道より

 この日の大阪朝日新聞は沖縄戦の状況を次のように報じている。

沖縄本島従軍第一報=最前線にて本社宗貞特派員発=
 水もなく乾麺麭齧り
  鬼神も哭く奪戦
   敵最前線に黒人部隊

[略]この中にも南下を焦る敵は遮二無二両三度の総攻撃を企図して激しく我が陣地に迫りきたり第一線は東から我謝、前田南方、安波茶、安謝の線まで迫って来たが、この間四十日を費やしているのみか勇猛果敢なわが反撃肉攻斬込みにかかって敵の損害少からず[略]これがため新手と交代を世儀なくされ最近第七師団ならびに海兵一師を正面に配して陣容強化を計った模様であるが、敵は常に多数の黒人部隊を最前線に布陣、自己は督戦隊にをさまっている、この新編敵兵も戦車、火砲を恃みにおっかなびっくりの侵入を企てつつあるがわが主防陣地は容易に抜くべくもない[略]かくて沖縄戦線は今や最も熾烈かつ凄惨な様相を呈しつつ真に重大な一大決戦の関頭に立っている
 弾雨下に敢闘の義勇隊
 謀略破砕に「沖縄週報」を頒布

[略]沖縄戦線における戦闘の熾烈化と共に激しくなるのは敵の謀略戦である、敵はあの手この手を企てている、噴飯に堪へぬのは伝単を撒き散らして思想攪乱を企てていることで標題を「沖縄週報」と題した小型新聞を印刷、飛行機から矢鱈に撒き散らしている、これに対してわが新聞報道陣の活躍は物凄く唯一の地元新聞「沖縄週報」は全員結束早くから地下工場に籠ってあらゆる因苦[ママ]欠乏と戦ひつつ半截紙の発行を継続、これが頒布には皇土防衛義勇隊の組織網により同隊の砲煙弾雨の下決死的活動によって遺憾なく敵の謀略を破砕している、これが取材のため報道戦士は敵の砲弾下を潜って敢闘をつづけている、地下工場は敵の攻撃目標となって既に数名の犠牲者すら現れているが、本社上間正諭特派員が不幸敵弾のため負傷したほか何れも健在で、事故もなく意気昂揚決死の覚悟を示して活躍をつづけている

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

 記事前段の戦況の報道としては、日本側の戦果を過度に称揚しているものの、戦線などについてはおおむね正確な記事といえるかもしれない。
 ただし「敵は常に多数の黒人部隊を最前線に布陣、自己は督戦隊にをさまっている」との一文は意味がよくわからないが、歩兵第89連隊第5中隊陣中日誌には「敵第一線ハ黒人部隊並ニ支那人沖縄人(防衛隊員)ヲ以テ編成シ迫撃砲及機関銃ノ主体トシテ陣地ヲ構築シアリ」とあり、第32軍が米軍内部での人種に基づく差別的処遇を訴え、黒人兵士の離反を狙うためか「前線の黒人部隊」というプロパガンダ・ビラを撒布したことも含め、本記事の黒人云々の一文は、そうした前線からの報告に基づき、また軍のプロパガンダと軌を一にしたものであったと考えられる。
 もちろん米軍部隊に黒人兵士はいた。沖縄戦全期間で約8000人の黒人兵士が従軍したといわれる。また中国系(アジア系)米国人がいたとしても不思議ではないし、日系(沖縄系)米国人が沖縄戦場で兵士や住民に投降を呼びかけた事例も存在する。しかし黒人部隊が編成され、それが危険な最前線に差別的な意味で配置され、白人たちはその督戦をしているだけということは考え難い。事実としては、むしろ黒人兵士は後方支援業務を担っており(黒人兵士は後方支援業務に従事させるという米軍の方針自体は差別的な意味合いがあるのかもしれないが)、米軍は日本軍のプロパガンダを批判している。
 記事後段については、米軍が発行している新聞形式の宣伝ビラ「琉球週報」と、沖縄現地で発行されていた新聞「沖縄新報」のことを指していると考えられる(記事では琉球週報と沖縄新報が「沖縄週報」としてごちゃまぜになっている)。「因苦欠乏」とあるのはインクが欠乏しているということだろうか。発行された新聞の内容は翼賛報道・プロパガンダ報道であるが、極限状態で新聞の発行が継続されていることそのものは驚嘆すべきことである。
 ちなみに、プロパガンダという観点からいうと、大本営ではこの日、陸軍部報道部と海軍部報道部が統合され、大本営報道部が編成されることが発表された。

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那覇郊外で逃げる日本兵に向けて機関銃を掃射する米兵 45年5月12日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-28-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
・三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)

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銃火の中を進む海兵隊員 45年5月12日撮影:沖縄県公文書館【写真番号99-26-4】