【沖縄戦:1945年3月24日】沖縄南部へ艦砲射撃はじまる 第32軍司令官、まもなく米軍上陸と判断 「天岩戸戦闘司令所」─気炎を上げる軍参謀長
米艦載機の空襲と艦砲射撃
昨日の南西諸島一帯の空襲をうけて、警戒を厳としていた第32軍はこの日早朝、沖縄南部の沖合に米艦艇を発見し、緊張を高めた。
昨日に引き続き米軍機は、早朝より沖縄各地へ空襲を行い、さらに沖縄島南部に向けて米艦艇による艦砲射撃も始まった。沖縄島へ来襲した米艦載機は延べ約600機、大東島地区は59機、奄美地区12機、宮古地区50機にのぼり、艦砲射撃は約700発におよんだ。
なお米艦艇は、午後6時ごろ視野外に去った。
この日の海軍沖縄方面根拠隊による電報には、次のようにある。
また独立混成第15連隊本部のこの日の陣中日誌には、次のようにある。
第32軍の動向
第32軍牛島司令官は、首里司令部より米艦艇の艦砲射撃の状況を確認し、米軍は間違いなく沖縄に上陸するものと判断、甲号戦備移行への準備を命令し、兵器の増加分配などを行う。
また沖縄南部へ艦砲射撃が行われたことから、沖縄南部湊川方面(八重瀬町と南城市の境付近)への米軍の上陸を警戒し、第62師団配属の独立歩兵第272大隊を沖縄南部を守備する独立混成第44旅団へ配属するとともに、高射砲部隊を軍直轄あるいは各兵団に配属し、対艦、対空、対戦車などの配置につくよう命令した。
第32軍八原高級参謀および長野英夫少佐(後に第32軍参謀)は、艦砲射撃が行われた沖縄南部を現地視察したが、陣地堅牢にして損害がきわめて少ないことを喜び、さらに艦砲射撃が第32軍の各兵団、各部隊の陣地を狙って砲撃したものではなく、乱射されたものであるところから、陣地が敵に知られていないとして喜んだ。
第32軍長参謀長は「天岩戸戦闘司令所」と墨書した木札を首里司令部の壕の入口に掲げ、さらにはスコッチウイスキーを飲み、気炎を上げ、和歌や詩を朗詠し、司令部の士気をあげた。
この日の軍司令部の雰囲気を戦後、八原高級参謀は次のように回想する。
連合艦隊ならびに陸海軍航空部隊の動向
連合艦隊豊田司令長官は、米軍の沖縄来攻は間近と判断し、潜水艦部隊に特殊潜航艇「回天」を搭載した潜水艦を沖縄近海に配置させるよう命令するとともに、沖縄方面特攻作戦である天1号作戦の予令を発し、第3、第10航空艦隊に対し天1号作戦参加のための移動準備を指令した。
この日午後、連合艦隊参謀長は次のような指導電を発している。
上掲の連合艦隊参謀長指導電における甲標的とは、海軍の小型特殊潜航艇のことであるが、この甲標的とこの日沖縄近海への配置命令があった「回天」は厳密には異なるものの、あるいは同じものを指しているなど関係があるのかもしれない。
海軍の沖縄方面航空作戦を担う第5航空艦隊宇垣司令長官は、艦上攻撃機「天山」隊に攻撃を下令、夕刻に天山7機が出撃するが戦果は不詳だった。宇垣司令長官のこの日の日記には、次のように記されている。
また台湾の第1航空艦隊も陸上爆撃機「銀河」に攻撃を下令するが、24日には実行されず、25日夜攻撃が行われるもやはり戦果は不詳だった。
陸軍航空部隊については、この日台湾の第10方面軍が隷下の第8飛行師団長に天一号航空作戦準備の促進を下令した。これにより第8飛行師団は、米機動部隊に対する攻撃を準備したが、機動部隊の位置が不明で攻撃はできなかった。
米軍の本土上陸についての大本営陸軍部の判断
大本営陸軍部はこの日、米軍の沖縄攻略の意図が明らかになったことから、米軍の次期来攻は6月ごろ九州もしくは上海方面と判断し、同方面の作戦準備を6月初頭を目途に進めるよう指示した。第32軍の組織的戦闘終結が6月下旬であるから、大本営陸軍部は沖縄戦はおおむね6月ごろには終わると冷徹、正確に判断していたといえる。
慶良間諸島座間味村の24日
座間味村でも昨日に続き猛烈な空襲が行われた。住民は壕に避難するが、島全体が揺れているような衝撃だったそうだ。しかし日本軍の飛行機が米軍機を追い払うわけでもなく、陸上部隊が応戦するわけでもなかった。住民たちは「負け戦」を実感するとともに、日本軍の「裏切り」に怒りを覚えた。
夕暮れとともに空襲がやみ、住民たちが壕から出て海に目をやると、黒い点がぽつぽつと水平線上に見え隠れした。住民の一部は「友軍だ」と歓喜し、また「敵艦だ」と疑い恐怖した。結局、阿嘉の日本軍部隊が敵艦と判断し、住民へ避難を命じた。阿嘉住民は山深いスギヤマへ避難し、これより5か月にわたって避難生活を送ることになる。
久米島の動向
久米島もこの日、米軍の空襲に見舞われたが、それにより久米島で召集され沖縄各地の部隊へ配属される久米島住民を輸送する輸送船が撃沈された。久米島の警防団の警防日誌はこの日、次のように記している。
久米島ではこの後、海軍鹿山隊が住民虐殺を行なうが、それとともに数名の陸軍グループも島におり、住民から物資を半ば強制的に供出させるなどしていた。
陸軍グループは、陸軍の特攻隊として沖縄方面に出撃し撃墜などにより久米島に漂着した軍人、慶良間から逃げたきたという特高警察、沖縄で米軍に追いつめられ船に乗って転進した兵士、そして米軍上陸前に初年兵受領のため島を訪れてそのまま帰れなくなった兵士などからなっていたというが、おそらくその初年兵受領のため島を訪れ帰れなくなった兵士というのは、この日の空襲で召集兵を輸送する輸送船が撃沈されたことと関係しており、この輸送船撃沈により久米島に残らざるをえなくなった召集兵引率のための陸軍兵が陸軍グループの一端を成したのだろう。
硫黄島の戦い
硫黄島では、栗林兵団長が18日0時ごろ大本営に向けて訣別電を発し、21日は訣別電に基づき硫黄島の「玉砕」が報道された。しかし栗林兵団長以下残存部隊は、まだ島に残っており、いよいよこの日、最後の総反撃を決し、準備を進めた。総反撃は、翌日の25日夜半から26日未明に敢行されることになる。
参考文献
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『中部太平洋陸軍作戦』
・『座間味村史』上巻
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
トップ画像
沖縄に向けて艦砲射撃を行う米戦艦「アイダホ」:wikipedia「沖縄戦」より