【沖縄戦:1945年2月21日】島田知事が「県民総武装」「敵を撃砕殲滅」などと論告─「帝国の官吏」としての沖縄県知事
島田知事の論告
島田知事はこの日付けで県民に向けて「県民総武装」「敵を撃砕殲滅」などといった内容の論告を発した(論告は2日後の23日、沖縄新報に掲載された)。
この「論告」は、先刻開催された地方行政協議会において、出席した戸塚九州地方行政協議会長に対し昭和天皇から「食糧事情並びに引揚民の生活」に関する下問があったことを伝え聞いた島田知事が「恐懼感激に堪えざる所」として発したといわれている。
島田知事が人格的に立派な人物であり、県民の身の上を思い、職務に精励したことに疑いはないが、義勇隊や鉄血勤皇隊の結成をはじめとした住民の戦争動員はもちろんのこと、この「論告」における「県民宜しく聖旨を奉戴して皇国護□の大義に徹し」「軍官民協力一致」「県民総武装して一挙に□敵を撃砕殲滅して以て大御心を安ん□奉らざ□べからず」といった文言を見ると、内務官僚という当時の知事の法的な立場も含め、島田知事はあくまで総動員体制下の「帝国の官吏」であったことが理解できる。それは言うまでもなく、島田知事の前任の泉知事についても同じであるが。
「精神の戦争動員」と米軍への敵愾心、恐怖心の煽動が生んだ住民の犠牲
こうした県や軍などの公権力、あるいは新聞などのメディアによる戦意高揚は、住民の身体や生活の戦争動員とともに「精神の戦争動員」ということができる。そして「精神の戦争動員」による米軍への激しい敵愾心や「米軍に投降したら男は戦車でひかれ、女は暴行される」「米軍に捕まると女は慰安婦にさせられる」といった恐怖心の煽動によって、住民は戦争の最終局面で米軍への投降をためらい、不必要な犠牲を生む原因となった。
こうした精神の戦争動員には、島田知事も関わっている。事実、この日の沖縄新報には、人々を精神的に戦争に動員するような言葉が躍る島田知事のインタビューが掲載されている。
硫黄島の戦い
摺鉢山地区
摺鉢山方面の米軍は、航空攻撃の支援下、朝8時30分ごろより攻撃前進を再開した。地区隊長の松下久彦少佐ひきいる摺鉢山地区隊は、摺鉢山の山脚の残存拠点を固守し、接近する米軍に反撃をくわえたが撃退できず、損害を拡大させた。既に第一線陣地は突破されていたが、第二線陣地も突破され、米軍は摺鉢山山脚まで迫った。地区隊は夜間に奇襲攻撃をおこなったが、多大な戦死者を出して攻撃は失敗した。
南地区
米軍主力は、艦砲射撃や砲兵による準備射撃の下、朝8時15分ごろより攻撃前進を再開した。元山飛行場の南の守備を担う地区隊長の粟津勝太郎大尉率いる南地区隊正面では、主力が南集落正面、一部が船見台正面に突撃してきた。地区隊は、船見台ー南波止場の主陣地第一線を固守し米軍に多大な損害を与えたが、地区隊も死傷者が続出した。米軍は午後より南部落付近の主陣地に入り込み、同地は激戦となった。
西地区
千鳥飛行場北、元山飛行場北西の西地区では、地区隊長の辰見繁夫大尉率いる西地区隊が早朝より攻勢を再開した米軍を迎撃し、多大な損害を与えた。このためか米軍は午後より前進の気勢がなくなり、対峙膠着状態となった。
海軍第2御楯隊
19日に第3航空艦隊寺岡司令長官は第601海軍航空隊杉山司令に第2御楯特別攻撃隊の編成を命じ、航空特攻を準備中であった。同隊はこの日、折からの悪天候を利用して木更津基地を出撃、八丈島基地を経由しておよそ午後4時から午後7時のあいだに艦上戦闘機(ゼロ戦)9、艦上攻撃機(天山)6、艦上爆撃機(彗星)10の合計25機のうち21機で硫黄島周辺の米艦船に航空特攻をおこない、護衛空母1隻轟沈、空母1隻大破などの戦果をあげた。
なお後に海軍の沖縄方面航空作戦を指揮する宇垣纒のこの日の日記にも第2御楯隊の航空特攻が触れられている。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『中部太平洋陸軍作戦』〈2〉
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戦況を伝える沖縄新報 島田知事の進めた北部疎開や米軍との戦闘の状況についての見出しが確認できる:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02006096】