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【沖縄戦:1945年4月1日】「〇八〇〇敵ハ本島ニ上陸ヲ開始ス」─沖縄中部西海岸に米軍上陸 チビチリガマの悲劇はじまる

「〇八〇〇敵ハ本島ニ上陸ヲ開始ス」

 海軍大和田通信隊司令は1日未明、本朝米軍上陸の可能性がきわめて高いとして次の電報を発した。

 沖縄方面策動部隊内通信系ニ於テ今朝〇三四七ヨリ戦術呼出符号ヲ使用シ始メタリ
 右ハ硫黄島上陸直前(約三時間)ニ酷似シアリテ今朝本格的ニ上陸ヲ決行スル算極メテ大ナリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 この電報が予見するように、米軍機は早朝より北、中飛行場方面から小禄方面までの地区へ猛烈な空襲を開始し、さらに北、中飛行場方面を中心に艦砲射撃をおこなった。
 第32軍首脳は、数百の艦船が西海岸を圧し、北、中飛行場方面が砲爆撃の爆炎で覆われている様子を首里の司令部から見て、来たるべきものが来たとの感に打たれた。
 なお沖縄島南部湊川方面にも早朝から60隻の艦船があらわれ、上陸用舟艇が接近して射撃を行ったが、そののち反転して退却した。
 牛島司令官は、このころの状況として

敵ハ主力(LST大一五〇、小六〇、輸送船二〇)ヲ以テ嘉手納、一部(LST大三〇、小七〇、輸送船二〇)ヲ以テ湊川正面ニ展開接岸シツツアリ

(同上)

と報じた(LSTとは戦車揚陸艦のこと)。このころ沖縄島周辺には、輸送船以上の大型艦船は目視し得るものだけで300隻以上、嘉手納沖は大小艦船が充満していたという。
 朝8時過ぎ、米軍は沖縄中部西海岸に上陸を開始した。上陸用舟艇が横一線に並び、海岸線を目指す。その長さは13kmにおよび、上陸支援射撃が海岸線に集中する。8時30分に上陸部隊の第1波が海岸線に到着し、その後1時間以内に第二波、第三波と1万6千人の兵士が上陸、さらに戦車や武器、補給物資が陸揚げされた
 第32軍司令部は

〇八〇〇敵ハ本島ニ上陸ヲ開始ス 嘉手納正面二~三ヶ師、湊川正面一ヶ師内外

(同上)

と米軍の上陸を報じた。また海軍沖縄方面根拠地隊も

 第〇一〇八〇四番電 天一号作戦部隊宛
一 那覇沖敵輸送船約六〇隻ヨリ水陸両用戦車多数ヲ以テ北飛行場方面ニ上陸ヲ開始中 〇八〇〇
二 北飛行場上陸予想点ニ対スル艦砲射撃ハ熾烈ヲ極メツツアリ 尚朝来飛行場ヲ銃爆撃シアリ 〇八〇四

(同上)

と電報を発した。
 南部湊川方面では、6時ごろより米艦船役60隻が出現し、8時ごろ上陸用舟艇約20隻が煙幕下に接近、射撃を加えた後に反転した。海軍電報は、次のように報じている。

 四 一 機密第〇一〇八二六番電
一、敵ハ本朝来北飛行場及本島南端東部湊川ニ対シ上陸ヲ開始セリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 四 一 機密第〇一一八二一番電
  [略]
二、湊川方面ノ敵ハ戦車二〇台ヲ以テ距岸八〇〇米迫リタルモ上陸スルコト無ク避退セリ

(同上)

 参謀本部の「機密戦争日誌」はこの日、米軍上陸について次のように記している。

 昭和20年4月1日 日曜
  [略]
二、本日沖縄本島ニ対シ予期ノ如ク八時頃ヨリ主力ヲ以テ嘉手納方面ヨリ、一部ヲ以テ湊川方面ヨリ上陸ヲ開始セリ(湊川方面上陸ハ誤報ナルコト判明ス)
  [略]

(同上)

 第32軍が沖縄に配備され、その統帥を発動してから満一年のこの日、ついに沖縄島にて米軍との地上戦が開始されたのであった。

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上陸のため沖縄の海岸に向かう上陸用舟艇 1945年4月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80GK-3853】

1日の戦況

 第32軍の大方針は、とにかく「戦略持久」であり、米軍を水際で撃退することでもなく、地上で大会戦を繰り広げ「決戦」を挑むものでもない。米軍を宇地泊ー嘉数ー西原ー我如古ー和宇慶の第一防衛線まで引き寄せ、堅牢な主陣地を楯に徹底的な持久戦を展開するものであり、米軍の上陸に対してはあくまで冷静であった。
 実際、米軍の上陸に対し、日本軍の目立った抵抗や発砲はなく、無血上陸であった。従軍記者のアーニー・パイルは上陸の際の状況を「ピクニック気分であった」と記しているほどだ。そして午後2時ごろには、米軍は北、中飛行場を制圧した。
 ただし、第32軍がまったく無抵抗であったわけではない。米軍が上陸した北、中飛行場方面には、2個飛行場大隊を基幹部隊とする特設第1連隊(青柳時香連隊長)が配置され、同方面の防衛を任務とした。しかし、そもそも工兵部隊などを中心とする同連隊には十分な地上戦闘能力はなく、軍司令部も同連隊に多くを期待していなかった。

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米軍の上陸ポイントと上陸部隊および侵攻の状況:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦 より

特設第1連隊の戦闘 
 第56飛行場大隊主力や第503特設警備工兵隊からなる特設第1連隊第1大隊は、北飛行場地区に配置された。また第44飛行場大隊や第504特設警備工兵隊、農林鉄血勤皇隊などからなる同連隊第2大隊は、中飛行場地区に配置された。連隊本部は、北飛行場と中飛行場を結ぶ石嶺久得にあった。
 米軍上陸のこの日、猛烈な砲爆撃の下で上陸する米軍を正面から迎撃するかたちとなった特設第1連隊であるが、砲兵もなく、夜間を待って斬込みを行う以外に打つ手がない状態であった。また連隊本部と各隊との連絡も途絶し、各隊がそれぞれ各個に戦闘する状態となった。
 この日夜、青柳連隊長が確実に掌握した部隊は、米軍上陸とともに連隊長指揮下となった独立歩兵第12大隊第2中隊(山添欣作中尉)と連隊予備であって要塞建築勤務第6中隊(原口八郎中尉)だけであった。要建第6中隊は、夜間に入り斬込みを行い一定の戦果をあげるが、翌2日には「特設第1連隊は国頭支隊長の指揮下に入り遊撃戦を実施すべき」旨の軍司令部の指示をうけ、連隊長ら連隊本部は国頭方面へ撤退した。

賀谷支隊の戦闘 
 同方面には、賀谷與吉中佐ひきいる賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)も配置されていた。支隊は、特に中飛行場周辺に布陣していた。
 米軍上陸直後より支隊指揮下の平安山付近の海軍第11砲台や同伊祖砲台、ならびに支隊歩兵砲中隊の連隊砲(41式山砲か)一門が射撃を開始し、平安山海軍砲台は米軍の反撃により全滅、連隊砲も小隊長以下10名が戦死した。海岸沿いに配置されていた第1中隊、第4中隊はただちに上陸してきた米軍と交戦状態となった。特に第4中隊は中隊長が米軍の発砲により胸部貫通の重傷をうけるなど、多大な損害を出した。支隊はそれでも陣地を確保し、米軍を引きつけた。

 その他、この日夜、米軍は久米島に上陸を開始した。久米島には陸軍部隊はなく、海軍の電探隊(鹿山隊)がわずかに配備されていた程度であった。約1個中隊の米軍は東岸に上陸し、北方2km付近まで進出してきたが、日付がかわるころに後退し、2日明け方には撤退した。この日の久米島の警防団日誌には次のように記されている。

四月一日 晴
  [略]
一、午后七時頃山海軍隊ヨリ伝令ニ依リ銭田ニ敵機動部隊上陸ノ志格[ママ]アリトノ通報ニ依分団長ニ命シ非常警戒ヲ厳ニスルト同時監[ママ]部非常召集ヲナシ最后ノ処置ヲ打合ス
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 また、この日、日本軍は米軍の進出を妨害するため、石川橋を爆破した。戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』には、第4遊撃隊(第2護郷隊)が2日(もしくは3日)、米軍の進出を妨害するため石川および仲泊付近の橋梁を爆破したと記されているが、あるいはこのことかもしれない。こうした軍の行動は、住民の避難を妨害することにもなり、住民を戦闘に巻き込む遠因となった。
 それとともに第32軍は、航空部隊に対し、米軍が破壊した北、中飛行場を速やかに復旧するとの見込みから、2~3日以内の大航空戦の実施を要望した。

 球参電第九二六号(一日一八三〇発)
 第十方面軍、第八飛行師団、第六航空軍、連合艦隊、第一・第五航空艦隊、参謀次長宛
 三月三十一日北、中飛行場方面集団軍ハ後退ノ準備状態トシ之ヲ爆破破壊セシモ敵ノ機械力ヲ以テセハ極メテ短時間ニ修復可能ナルモノト思考ス 又之等制圧ハ特編連隊(航空部隊ヲ歩兵ニ編成)ノ戦力上徹底ヲ期シ難キ故ニ敵カ陸上基地使用シ得サル両三日間ニ敵ヲ徹底的ニ攻撃大護衛作戦御配慮ヲ得度

※一部意味の明瞭でない部分がある。

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 第32軍は、この日の陸上戦果を人身殺傷約700、俘虜2、戦車破壊擱坐20、上陸用舟艇撃破16、飛行機撃墜2、撃破3と報告した。俘虜2という報告が事実であれば、俘虜(捕虜)となった米兵はその後どうなったのか。首里で殺害された米兵捕虜と思われる遺体を発見した米軍の報告が残っているが、真っ当な保護をうけ生きて戦後を迎えることができたのだろうか。

画像4
沖縄に上陸する米軍 沖合にはLSTが見える 撮影日不明:沖縄県公文書館【写真番号104-29-3】

日本軍部隊による沖縄住民への檄

 この日、米軍は日本軍部隊が沖縄住民に飛ばした檄を傍受している。部隊名や詳細などは不明であるが、以下にその檄を記す。

布 告
1945年4月1日
醜敵米軍は、遂に沖縄に上陸する算大なり。沖縄人よ! 天皇の醜の御楯となり、一死以て我が郷土を守ることをここに宣誓せよ。一度上陸すれば、以下の5箇条を厳守し、敵の殲滅に全力を尽くせ。
 1 水の一滴たりとも敵に渡すな
 2 食料の一片たりとも敵が手に入れるのを断じて許すな
 3 諸子の郷土に一坪たりとも足を踏み入れ、使用するのを許すな
 4 敵が、地上(沖縄)にあって安眠を貪るのを許すな
 5 この島に一兵たりとも留まるのを許すな
沖縄人諸子! 天皇の醜として仕え、醜敵米軍を粉砕し、殲滅せよ。極秘作戦と天来の戦法や諸子の敢闘により、醜敵を全滅せよ。
    地区司令官

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 本布告そのものは、日本軍側資料としては確認できないが、同様の檄や布告は例えば歩兵第89連隊の陣中日誌などでも確認でき、日本軍側のある種のプロパガンダとしてよくあるものだったといえよう。いずれにせよ軍による住民戦力化、共生共死の思想を如実にあらわす資料である。

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隠れているものを注意深く探す第7師団第32連隊迫撃砲部隊のバーンズ上等兵とアコスタ上等兵 1945年4月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-23-1】

それぞれの4月1日

八原高級参謀

 昭和二十年四月一日朝、沖縄の島は、殷々轟々たるアメリカ軍の上陸準備砲爆撃に震撼しつつあった。
 このとき、日本第三十二軍首脳部は首里山上に立って、初めて目見ゆるアメリカ第十軍の行動を静かに観望していた。偉躯悠揚たるは軍司令官牛島満中将であり、側近最も近く傲然立ちはだかっている短躯肥満の将校は、精悍勇猛をもって聞こえた軍参謀長長勇中将である。
 牛島中将以下参謀たちは、それぞれ双眼鏡を手にして、はるか二十キロ北方の嘉手納海岸に、今しも展開中の雄渾壮絶な敵の上陸作戦を凝視している。
 本一日未明より、嘉手納沖の広大な海面は、無数の敵輸送船で埋まり、戦艦、重巡各十余隻を基幹とする二百隻の大艦隊は艦列を組んで、波平付近より平安山に至る嘉手納付近七、八キロの海岸地帯に、ここを先途と、巨弾の集中射を浴びせている。爆煙火煙塵煙天に冲し、豆粒大に見える無数の敵機が、その煙幕を潜って急降下爆撃をしている。
 午前八時、敵上陸部隊は、千数百隻の上陸用舟艇に搭乗し、一斉に海岸に殺到し始めた。その壮大にして整然たる隊形、スピードと重量感に溢れた決然たる突進振りは、真に堂々、恰も大海嘯の押し寄せるが如き光景である。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

外間守善氏

 四月一日、早朝に目覚めた私は目を疑った。昨夜まで沖を埋めつくしていた敵艦隊はすっかり姿を消して、まばらに掃海艇らしいものが見えるだけだ。米艦隊は三日も四日も湊川沖にはりついていながらアッという間に沖縄本島の西側へ回り込み、中部の北谷、読谷方面、嘉手納の水釜海岸に上陸を開始した。同日、沖縄本島中部の北飛行場と中飛行場が米軍に占拠された。刻々と入ってくる敵の動向に、大隊本部は終日騒然としていた。伝令兵はいくどもいくども各中隊本部に走らされた。グラマン機に追われながら懸命の伝令だった。
 上陸した米軍を一手に引き受けた石部隊の賀谷大隊は、正面陣地で奮戦しているようだ。中国の戦線で活躍した賀谷大隊は、歴戦の豪勇部隊だという。その奮闘ぶりが次々と私たちにも伝わってきた。[略]

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』)

宇垣第5航空艦隊司令長官

 四月一日 日曜日 〔晴〕
 敵は本朝〇七西岸北中飛行場の南部に揚陸を開始せり。
 しかして夕刻までには沿岸一帯の地あっ気なくも占領せられたり。斯くて飛行場の使用も近きにあらん。守備陸軍部隊は予定の取り込み戦術と言わんも余りにも手ごたえなきなり。
 右上陸とともに東南岸湊川の上陸を開始しその沖合相当の攻略部隊を持ち来れるがこれは撤退し、陽動牽制として受け取らる。久米島にもまた少数兵の上陸を見る。なかなか応接に忙し。総兵力は三個師団と覚える。
  [略]

(宇垣纒『戦藻録』下、PHP研究所)

米軍戦史より

 一九四五年四月一日、復活祭の日曜日の明けがた。沖縄近海に、まさに進攻せんとする一千三百隻からなる米大艦隊の威風堂々の姿が望見された。その多くは、西の方──東支那海に浮かんでいる。
 その日、天気は晴れていたが、空気は冷たかった。気温は二十四度よりややひくく、さわやかな東北東の微風が静かな海面にさざなみを立て、渡具知海岸には、白い波頭も見えなかった。視界は午前六時まで十六キロ。それ以後は、霧や靄で、八キロないし十一キロであった。これ以上の攻撃の好条件は想像もできなかった。
  [略]
 海岸が、霧や砲煙でかすんでしまわない以前に、一條の太陽の光に映し出されたこの見知らぬ島影を眺めていた兵士たちにとって、復活祭のこの日は運命の日でもあった。
 船内では、沖縄島の模型から、上陸地点の後方にそびえる高地や、さらには島の丘陵や断崖絶壁などを目の前にして、兵士たちは、防衛陣地として、この島は十分に適していると思ったりもした。また兵士たちは、沖縄では一戸一戸が高い石垣でかこまれていることや、幾千基もある沖縄の異様な墓は、場合によっては日本軍の陣地や掩蔽壕になるかもしれないということも、事前の報告書を読んで知っていた。
 兵士たちは、慶良間の防衛陣がもろかったことから勇気づけられてはいたが、最初の日本本土の島に上陸するのに、その海岸地帯にどんな防禦陣地が構築されているのか、考えただけでも恐ろしさに身ぶるいする、というのが皆が抱いていた感じだった。それに、海岸の向こう側には、恐ろしい毒蛇や、伝染病、あるいは、はげしい敵意にみちた住民がいるかもしれないのである。
演習のような敵前上陸
 総攻撃の時刻は午前八時三十分とされた。
 四時六分、第五一機動部隊司令官ターナー海軍中将は、「上陸開始!」の信号を発した。
  [略]
 攻撃の第一波が、指定されたとおりの海岸に着いたのが午前八時三十分。その後は、どの隊も二、三分と遅れずに上陸した。支援砲火は、第一波が上陸する一、二分前まで、ますますその激しさを増していったが、上陸部隊が海岸に達すると、突然、海岸地帯への重砲火はピタリとやみ、聞こえるのは、遠く内陸に向けて方角をかえた砲弾のとどろく弾着音だけとなった。
  [略]
 沖縄上陸は、全部隊がまったく信じられないほど簡単に行なわれた。日本軍の砲兵陣地からの妨害はほとんどなかった。海辺に日本軍はいなかった。地雷にもでくわすことがなかった。作戦はだいたいにおいて計画どおりいった。隊の組織がくずされるということもなく、二、三の部隊を除いてほとんどの部隊が、それぞれの指定された海岸に上陸することができた。あれほど期待していたのに、反撃どころか、いささかの抵抗もない。これがかえって米兵に不吉な予感を与え、彼らに猜疑心を抱かせたので、偵察隊を出すことになった。
 しばらくして、日本軍の罠にかかっているのではない、ということがはっきりしたので、部隊は計画どおり進撃していった。上陸してからいくらも経っていなかった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)
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リーフを歩いて上陸する米兵 1945年4月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号100-04-2】

強制集団死おこる

 第22海兵連隊第2大隊は、8時30分ごろ上陸し、9時ごろ読谷村のチビチリガマにいたった。米兵は、ガマの入口付近で「デテコイ」と叫んだところ、ガマの内部はパニック状態となった。一部住民が竹槍で襲いかかるが米兵に反撃され負傷し、ガマでは「自決」を呼びかける者が出て布団に火をつけはじめた。その場で布団の日は消し止められたが、大陸戦線経験者による捕虜になったら恐ろしいことが待っているという話もあり、ガマのなかは異様な雰囲気となった。そして翌2日、チビチリガマでの悲劇が起きることになる。
 同じく読谷村のシムクガマでは、炊き出しに出た住民が「アメリカ-がちょーんどー(来たぞ)」といってガマに飛び込み、その直後に第22海兵連隊第3大隊がガマに近づき、ガマの内部は住民が総立ちとなりパニック状態となった。米兵は投降を呼びかけたが、一部の住民は竹槍で立ち向かおうとした。そうしたなかでハワイ移民帰りの住民である比嘉平治さんが「アメリカ人は民間人を殺さない」という説得もあり、多数の住民が米軍に投降、保護された。
 また楚辺のクラガーでは、8人の住民が入水で集団死にいたる。

楚辺クラガーでの入水「自決」
 クラガーは約二〇〇〇平方メートルのくぼ地内にあり、くぼ地からさらに二〇メートルほど地下に降りた所に水を満々と貯めている。約七〇の石段を下りてやっと水辺にたどりつくが、そこは暗闇の世界に近い。農業用のポンプの音がなければ無気味さは一層増すに違いない。
 水を貯めている洞穴の形状、面積ははっきりしないが、一帯に詳しい比嘉※※によると、深いところで約一メートル二〇~三〇センチ、浅い所で約一メートルはあるという。
 「集団自決」はそこで起こった。
 クラガーは楚辺の指定避難所であったため、水辺近くに避難していた人々のうち八人が「入水自決」をして犠牲になったといわれる。
 『楚辺誌「戦争編」』によると「米軍が上陸した四月一日にはすでに、クラガーの上まで米軍は侵入し、クラガーに避難していた人たちは恐怖のどん底に落とされてしまった。『デテコイ、デテコイ』という米軍の呼びかけに応じて、一部の人たちは出て行ったが、『殺される』と再びクラガーに戻ってきた人もいた。そうしているうちに、壕内で息をひそめ恐怖に脅えていた避難民は窮地に追い込まれ、『アメリカーに殺されるよりは、自分たちで……』と、次の八人が『入水自決』し、犠牲となってしまったのである」(六三九頁)とある。

(『読谷村史』戦時記録 上巻)

米軍による住民の保護、収容

 沖縄戦では多くの住民が犠牲となったが、一方で米兵に保護された住民も多い。上陸直後に投降した住民は、しばらく米軍と一緒に行動し、他の住民に投降を呼びかけた。その後、米軍は収容所を設け、住民を保護、管理しはじめる。
 この日、米軍は住民21人を収容したが、1ヶ月後の4月30日には12万人もの住民を収容しており、沖縄各地に収容所を設置していった。
 4月1日に米軍に保護、収容され、この日のうちに沖縄戦の「終戦」を迎えた住民もいれば、これから米軍の猛攻に追い立てられ逃げ惑いつつ長期間にわたり地獄の沖縄戦を体験する住民も出てくる。生きるも死ぬも、住民はただただ国家による巨大な力に翻弄されていくのであった。

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楚辺から米海兵隊の営倉に送られる沖縄の住民 1945年4月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号77-22-2】

新聞報道より

 この日の大阪朝日新聞は、次のように報じている。

此神機こそ逸すな“琉球決戦”将に展開
 事態は粉飾を許さず

南西諸島を繞る戦局は日一日と緊迫の度を増しつつあるが、大観すれば未だ前哨戦の域を出ず本格的な大規模上陸作戦の展開を目前に敵が上陸の素地をつくらんと狂奔しかつ牽制或は陽動作戦を行っているに対してわが部隊は逐次攻撃の力を弱めつつあり、一触すれば重大なる戦闘が生起し決戦を展開せんとする戦雲が刻々濃化しつつあるといへるであらう

(『宜野湾市』第6巻資料編5 新聞集成〔戦前期〕)
画像6
上陸前夜、沖縄近海の艦上で行なわれたプロテスタントの聖餐式 1945年4月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号102-05-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号)
・武島良成「1945年4月1日の沖縄県読谷村北西部の軍と住民─チビチリガマ、シムクガマの周辺」(『京都教育大学紀要』第129号)

トップ画像

沖縄島に上陸する米軍 後方には戦車揚陸艦(LST)が見える:沖縄県公文書館【写真番号104-30-1】 (siggraph2016_colorization でカラー化)