「〇八〇〇敵ハ本島ニ上陸ヲ開始ス」
海軍大和田通信隊司令は1日未明、本朝米軍上陸の可能性がきわめて高いとして次の電報を発した。
この電報が予見するように、米軍機は早朝より北、中飛行場方面から小禄方面までの地区へ猛烈な空襲を開始し、さらに北、中飛行場方面を中心に艦砲射撃をおこなった。
第32軍首脳は、数百の艦船が西海岸を圧し、北、中飛行場方面が砲爆撃の爆炎で覆われている様子を首里の司令部から見て、来たるべきものが来たとの感に打たれた。
なお沖縄島南部湊川方面にも早朝から60隻の艦船があらわれ、上陸用舟艇が接近して射撃を行ったが、そののち反転して退却した。
牛島司令官は、このころの状況として
と報じた(LSTとは戦車揚陸艦のこと)。このころ沖縄島周辺には、輸送船以上の大型艦船は目視し得るものだけで300隻以上、嘉手納沖は大小艦船が充満していたという。
朝8時過ぎ、米軍は沖縄中部西海岸に上陸を開始した。上陸用舟艇が横一線に並び、海岸線を目指す。その長さは13kmにおよび、上陸支援射撃が海岸線に集中する。8時30分に上陸部隊の第1波が海岸線に到着し、その後1時間以内に第二波、第三波と1万6千人の兵士が上陸、さらに戦車や武器、補給物資が陸揚げされた
第32軍司令部は
と米軍の上陸を報じた。また海軍沖縄方面根拠地隊も
と電報を発した。
南部湊川方面では、6時ごろより米艦船役60隻が出現し、8時ごろ上陸用舟艇約20隻が煙幕下に接近、射撃を加えた後に反転した。海軍電報は、次のように報じている。
参謀本部の「機密戦争日誌」はこの日、米軍上陸について次のように記している。
第32軍が沖縄に配備され、その統帥を発動してから満一年のこの日、ついに沖縄島にて米軍との地上戦が開始されたのであった。
1日の戦況
第32軍の大方針は、とにかく「戦略持久」であり、米軍を水際で撃退することでもなく、地上で大会戦を繰り広げ「決戦」を挑むものでもない。米軍を宇地泊ー嘉数ー西原ー我如古ー和宇慶の第一防衛線まで引き寄せ、堅牢な主陣地を楯に徹底的な持久戦を展開するものであり、米軍の上陸に対してはあくまで冷静であった。
実際、米軍の上陸に対し、日本軍の目立った抵抗や発砲はなく、無血上陸であった。従軍記者のアーニー・パイルは上陸の際の状況を「ピクニック気分であった」と記しているほどだ。そして午後2時ごろには、米軍は北、中飛行場を制圧した。
ただし、第32軍がまったく無抵抗であったわけではない。米軍が上陸した北、中飛行場方面には、2個飛行場大隊を基幹部隊とする特設第1連隊(青柳時香連隊長)が配置され、同方面の防衛を任務とした。しかし、そもそも工兵部隊などを中心とする同連隊には十分な地上戦闘能力はなく、軍司令部も同連隊に多くを期待していなかった。
特設第1連隊の戦闘
第56飛行場大隊主力や第503特設警備工兵隊からなる特設第1連隊第1大隊は、北飛行場地区に配置された。また第44飛行場大隊や第504特設警備工兵隊、農林鉄血勤皇隊などからなる同連隊第2大隊は、中飛行場地区に配置された。連隊本部は、北飛行場と中飛行場を結ぶ石嶺久得にあった。
米軍上陸のこの日、猛烈な砲爆撃の下で上陸する米軍を正面から迎撃するかたちとなった特設第1連隊であるが、砲兵もなく、夜間を待って斬込みを行う以外に打つ手がない状態であった。また連隊本部と各隊との連絡も途絶し、各隊がそれぞれ各個に戦闘する状態となった。
この日夜、青柳連隊長が確実に掌握した部隊は、米軍上陸とともに連隊長指揮下となった独立歩兵第12大隊第2中隊(山添欣作中尉)と連隊予備であって要塞建築勤務第6中隊(原口八郎中尉)だけであった。要建第6中隊は、夜間に入り斬込みを行い一定の戦果をあげるが、翌2日には「特設第1連隊は国頭支隊長の指揮下に入り遊撃戦を実施すべき」旨の軍司令部の指示をうけ、連隊長ら連隊本部は国頭方面へ撤退した。
賀谷支隊の戦闘
同方面には、賀谷與吉中佐ひきいる賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)も配置されていた。支隊は、特に中飛行場周辺に布陣していた。
米軍上陸直後より支隊指揮下の平安山付近の海軍第11砲台や同伊祖砲台、ならびに支隊歩兵砲中隊の連隊砲(41式山砲か)一門が射撃を開始し、平安山海軍砲台は米軍の反撃により全滅、連隊砲も小隊長以下10名が戦死した。海岸沿いに配置されていた第1中隊、第4中隊はただちに上陸してきた米軍と交戦状態となった。特に第4中隊は中隊長が米軍の発砲により胸部貫通の重傷をうけるなど、多大な損害を出した。支隊はそれでも陣地を確保し、米軍を引きつけた。
その他、この日夜、米軍は久米島に上陸を開始した。久米島には陸軍部隊はなく、海軍の電探隊(鹿山隊)がわずかに配備されていた程度であった。約1個中隊の米軍は東岸に上陸し、北方2km付近まで進出してきたが、日付がかわるころに後退し、2日明け方には撤退した。この日の久米島の警防団日誌には次のように記されている。
また、この日、日本軍は米軍の進出を妨害するため、石川橋を爆破した。戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』には、第4遊撃隊(第2護郷隊)が2日(もしくは3日)、米軍の進出を妨害するため石川および仲泊付近の橋梁を爆破したと記されているが、あるいはこのことかもしれない。こうした軍の行動は、住民の避難を妨害することにもなり、住民を戦闘に巻き込む遠因となった。
それとともに第32軍は、航空部隊に対し、米軍が破壊した北、中飛行場を速やかに復旧するとの見込みから、2~3日以内の大航空戦の実施を要望した。
第32軍は、この日の陸上戦果を人身殺傷約700、俘虜2、戦車破壊擱坐20、上陸用舟艇撃破16、飛行機撃墜2、撃破3と報告した。俘虜2という報告が事実であれば、俘虜(捕虜)となった米兵はその後どうなったのか。首里で殺害された米兵捕虜と思われる遺体を発見した米軍の報告が残っているが、真っ当な保護をうけ生きて戦後を迎えることができたのだろうか。
日本軍部隊による沖縄住民への檄
この日、米軍は日本軍部隊が沖縄住民に飛ばした檄を傍受している。部隊名や詳細などは不明であるが、以下にその檄を記す。
本布告そのものは、日本軍側資料としては確認できないが、同様の檄や布告は例えば歩兵第89連隊の陣中日誌などでも確認でき、日本軍側のある種のプロパガンダとしてよくあるものだったといえよう。いずれにせよ軍による住民戦力化、共生共死の思想を如実にあらわす資料である。
それぞれの4月1日
八原高級参謀
外間守善氏
宇垣第5航空艦隊司令長官
米軍戦史より
強制集団死おこる
第22海兵連隊第2大隊は、8時30分ごろ上陸し、9時ごろ読谷村のチビチリガマにいたった。米兵は、ガマの入口付近で「デテコイ」と叫んだところ、ガマの内部はパニック状態となった。一部住民が竹槍で襲いかかるが米兵に反撃され負傷し、ガマでは「自決」を呼びかける者が出て布団に火をつけはじめた。その場で布団の日は消し止められたが、大陸戦線経験者による捕虜になったら恐ろしいことが待っているという話もあり、ガマのなかは異様な雰囲気となった。そして翌2日、チビチリガマでの悲劇が起きることになる。
同じく読谷村のシムクガマでは、炊き出しに出た住民が「アメリカ-がちょーんどー(来たぞ)」といってガマに飛び込み、その直後に第22海兵連隊第3大隊がガマに近づき、ガマの内部は住民が総立ちとなりパニック状態となった。米兵は投降を呼びかけたが、一部の住民は竹槍で立ち向かおうとした。そうしたなかでハワイ移民帰りの住民である比嘉平治さんが「アメリカ人は民間人を殺さない」という説得もあり、多数の住民が米軍に投降、保護された。
また楚辺のクラガーでは、8人の住民が入水で集団死にいたる。
米軍による住民の保護、収容
沖縄戦では多くの住民が犠牲となったが、一方で米兵に保護された住民も多い。上陸直後に投降した住民は、しばらく米軍と一緒に行動し、他の住民に投降を呼びかけた。その後、米軍は収容所を設け、住民を保護、管理しはじめる。
この日、米軍は住民21人を収容したが、1ヶ月後の4月30日には12万人もの住民を収容しており、沖縄各地に収容所を設置していった。
4月1日に米軍に保護、収容され、この日のうちに沖縄戦の「終戦」を迎えた住民もいれば、これから米軍の猛攻に追い立てられ逃げ惑いつつ長期間にわたり地獄の沖縄戦を体験する住民も出てくる。生きるも死ぬも、住民はただただ国家による巨大な力に翻弄されていくのであった。
新聞報道より
この日の大阪朝日新聞は、次のように報じている。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号)
・武島良成「1945年4月1日の沖縄県読谷村北西部の軍と住民─チビチリガマ、シムクガマの周辺」(『京都教育大学紀要』第129号)
トップ画像
沖縄島に上陸する米軍 後方には戦車揚陸艦(LST)が見える:沖縄県公文書館【写真番号104-30-1】 (siggraph2016_colorization でカラー化)