【沖縄戦:1945年4月13日】米軍北進部隊が沖縄最北端の辺戸岬に到達 沖縄北部で多発した米兵による住民虐殺や性暴力事件
米海兵隊の北進と国頭支隊
国頭支隊の戦闘
4月1日に沖縄島に上陸した米軍は、主に陸軍が南下して首里の司令部攻略を目指し、主に海兵隊が北上して北部の掃討、占領を担ったが、海兵隊を主力とする米軍北進部隊は昨日には大宜味に進出し、この日ついに沖縄最北端である辺戸岬に到達した。
沖縄北部に配備された国頭支隊(宇土武彦支隊長、宇土部隊とも)は、現在の本部町の八重岳に主陣地をかまえたが、米軍は11日より八重岳の、八重岳の主陣地に砲爆撃をくわえ、八重岳を逐次包囲した。この日も八重岳の陣地に砲爆撃をくわえたが、地上部隊の行動は活発ではなかった。
第32軍はこの日、国頭方面の戦況を次のように報じている。
伊豆見から西進する米軍は、屋名座付近の第6中隊の陣地を攻撃してきたが、同中隊は機関砲、機関銃などの協力を得て撃退した。
安和方面から第5中隊第2小隊が守備する安和岳地区に米軍の一部が進出してきたが、交戦1時間の後に撃退した。第5中隊長は予備隊の船舶工兵第26連隊の山形小隊を安和岳の第2小隊の右に増援配置した。また歩兵砲中隊は米軍砲火の合間を見て終日射撃をおこなった。
宇土支隊長はこの日、乙羽岳ならびに302高地の第3遊撃隊(第1護郷隊)第3中隊ならびに県立3中生を中心とする3中鉄血勤皇隊を八重岳に移動させ、3中鉄血勤皇隊を各隊に配属させた。
また屋比久原の海軍砲台は伊江島近海の米艦艇を射撃したが、逆に艦砲射撃により制圧されてしまった。
このころ伊江島では米軍による艦砲射撃と空襲が激しくなり、伊江島攻略の支援陣地構築のため砲兵隊が水納島へ上陸を開始した(『名護市史』本編3ではこの日は海兵隊による偵察であり上陸は15日、『伊江村史』下巻では上陸は12日、戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』では上陸は15日とするなど諸説ある)。
遊撃隊の戦闘と国頭支隊の転進
名護方面の第3遊撃隊(第1護郷隊)はこの日午後、第1中隊岸本伍長以下12名が名護岳南東2キロ付近で米軍60~70名を伏撃し、44名の損害を与えたが、岸本伍長以下3名戦死、1名負傷という損害を出した。
そうしたなかで国頭支隊はこの日夕、第3遊撃隊の拠点である多野岳への撤退、転進を企図し、支隊本部から3遊本部へ「本十三日夜支隊長以下三〇〇名(第三遊撃隊第三中隊を含む)タニヨ岳に転進す よって警備隊の誘導兵を十四日朝までに古我地三叉路(名護北方四粁)に差出すべし 西銘中尉に連絡されたし」との電報が発せられた。3遊村上隊長は何のために転進するのか疑念も抱くこともあったが、いずれにせよ後日の状況を見るとこの転進は実施されなかったようだ。
また昨12日より第4遊撃隊(第2護郷隊)は米軍と第1次恩納岳の戦闘を展開していたが、この日も米軍は戦車数両の掩護射撃下に眼鏡山を攻撃してきたものの、応戦し撃退した。
沖縄北部で多発した住民被害
米海兵隊が進出した沖縄北部各地では、海兵隊員による住民の虐殺や性暴力などの戦争犯罪が多発している。
例えば、ある男性の住民は米兵に煙草を与えられ、拾っているところを米兵が発砲し射殺されたり、海岸の岩穴に隠れている住民が連行された上で射殺されるなどの事例がある。
こうした北部での米兵による住民虐殺は、男性住民を狙っておこなわれたが、北部では女性に対する米兵の性暴力事件も多発している。セア・ビビンズという水兵の手記には、名護のある家で女性が強制性交され殺害されたあとを見かけたり、他の米兵が強制性交におよぼうとしているところを見かけたとある。
米軍においても兵士の強制性交は重大な犯罪行為であり、実際に強制性交をおこなった兵士が軍法会議で有罪判決をうけることもあったが、のちに米国の海軍省で審査され、有罪判決が破棄されることもあった。
沖縄北部で残虐行為を繰り返したのは、北部に侵攻した第6海兵師団によるものと思われるが、同師団は終戦後の8月30日、横須賀・横浜に上陸し占領を開始したが、その日のうちに同師団の兵士による性暴力事件が発生している。
その他の戦況
第32軍牛島司令官は昨夜の夜間攻撃失敗をうけ、攻勢から戦略持久への作戦方針の復帰を決定し、各部隊に戦線の整理と防備の強化を命じた。
第62師団はこれまでの戦闘と夜間攻撃のため戦力低下がはなはだしく、夜間攻撃に際して第24師団から配属された歩兵第22連隊をそのまま第62師団配属とし、米軍の津堅島攻略による与那原方面への上陸を警戒し、沖縄南部の第24師団および独立混成第44旅団に陣地の強化、島尻地区への空挺降下に対する戦備を強化させた。
特に第62師団では、嘉数正面を担う同師団独立歩兵第13大隊長の指揮下に独立歩兵第23大隊、同272大隊、同273大隊を置き、歩兵第22連隊第3大隊を独立歩兵第23大隊長の指揮下とした。
棚原正面では増強のため、独立歩兵第12大隊長の指揮下に独立歩兵第14大隊、歩兵第22連隊第2大隊を入れた。
和宇慶正面では増強のため、運玉森方面の防衛を歩兵第22連隊長の担任とし、歩兵第63旅団長の防衛担任を軽減し、独立歩兵第11大隊の主力を北方正面に向けた。その上で、歩兵第22連隊長は自隊と独立機関銃第17大隊、独立速射砲第3大隊の一部、独立第27大隊を指揮し運玉森方面の防衛を担任することとなった。
また独立歩兵第13大隊長は、70高地奪回の旅団命令にもとづき、独立歩兵第273大隊をもってこの日夜、70高地奪回攻撃を実施させたが失敗した。
第32軍八原高級参謀は夜間攻撃とその失敗後の軍の状況を戦後、次のように回想している。
また、この日、読谷村に米軍の軍政本部が設置される。沖縄での米軍の軍政についてはあらためて確認していきたい。
久米島に不時着した特攻隊員
この日の久米島の警防団の警防日誌には次のようにある。
久米島のシンリ浜に日本軍機が不時着し、搭乗員の竹腰肇陸軍少尉が無事に保護されたと記されている。
後に久米島には、沖縄戦の組織的戦闘が終了してから渡辺憲央という陸軍2等兵以下数名がクリ船に乗って漂着している。彼らは久米島の海軍部隊である鹿山隊に訊問された後、「陸軍は陸軍で自活しろ」といわれ、鹿山隊とは別行動をとるが、その際に渡辺2等兵は竹腰少尉ら数名の陸軍兵と共同生活をしたと証言している。
渡辺2等兵の証言によると、竹腰少尉は日大出身の特攻隊員だったそうだ。年齢も20歳そこそこと証言しているから、学徒出陣組かもしれない。どう猛で威張り散らしたような人物ではなかったが、階級にものをいわせ、陸軍兵たちのリーダーとなり渡辺2等兵などもあごで使われたそうだ。
また「大日本陸軍之印」などというハンコを勝手につくり、そのハンコを押印した軍票あるいは借用書のようなものを発行し、村人から米や味噌を供出させていたという。
竹腰少尉を含む久米島の陸軍兵のグループは、こうした問題行動を繰り返した他、もともと陸軍兵のグループといっても出身も何もバラバラで、漂着など様々な理由で久米島に辿り着き、共同生活をしているだけであり、最終的には陸軍兵のグループ内で仲間割れし、竹腰少尉の一派ではない陸軍兵の一派が何ものかによって手榴弾を投げ込まれ殺されるようなこともあったそうだ。
渡辺氏2等兵はそれを竹腰少尉の一派の仕業とまではいっていないが、殺された陸軍兵の一派以外の陸軍兵のグループ、すなわち竹腰少尉の一派も含む陸軍兵のグループの仕業だと村人たちは信じていると証言している。
国民義勇隊について
この日、国民義勇隊に関し、以下の閣議決定がなされた。
そもそも国民義勇隊とは1945年3月23日に閣議に付された国民義勇隊(義勇奉公隊)を淵源とするものである。本土決戦が現実味を帯びるなか、国民義勇隊は老幼者や病者、妊産婦以外の男女を動員し、防空、防衛、被害復旧、疎開輸送、食糧増産、警防活動の他、陣地構築や補給など軍の作戦行動に関する支援、万一の際は武装組織を編成して対応することとなった。
同年4月2日、さらにこれが発展し、翼賛会などを解消して総理大臣を総司令とする国民義勇隊の組織が閣議決定された。そしてこの日、上記の閣議決定がなされ、緊急の際は国民義勇隊が戦闘組織となることとなった。
6月22日には義勇兵役法が制定され、国民義勇隊の法的措置となった。いわば国民全員が軍事組織に属し、本土決戦にあたっては軍事行動をおこなうことが決められていったのである。沖縄でおこなわれた根こそぎ動員を法的根拠をもって全国的におこなうというものであり、日本全体で住民を巻き込む戦闘が展開される可能性もあったといえる。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・沖縄戦関係資料閲覧室【証言集:久米島】
トップ画像
狙撃兵をいぶしだす海兵隊員 1945年4月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号89-40-2】(siggraph2016_colorizationでカラー化)