【沖縄戦:1945年4月5日】米軍南進部隊、第32軍の第1防衛線に接近 連合艦隊、戦艦大和の沖縄海上特攻を下令
米軍の南進つづく─5日の戦況
この日、米軍の南進部隊を迎え撃つ第32軍の第1防衛線(第1線陣地、主陣地帯)北方は、全線にわたり米軍の攻撃をうけた。北方正面左翼の独立歩兵第13大隊正面では、神山および大山付近の前進陣地の部隊が撤退したため、85高地(大山南、現在の普天間飛行場内の佐真下あたりか)の主陣地は、この日朝から戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけた。他方、主陣地の独立歩兵第13大隊第3中隊や独立速射砲第22大隊第3中隊、野戦高射砲第81大隊の一門などは善戦し、米戦車2~3両を擱座させて米軍を撃退した。
北方右翼独立歩兵第14大隊正面では、4日夜に賀谷支隊が後方に撤退したため、前進陣地の同大隊第1中隊は米軍の攻撃をうけたがこれを撃退した。宜野湾南東の同大隊の主陣地では、この日朝から戦車をともなう優勢な米軍の攻撃をうけた。部隊は機関銃や速射砲と協同し戦車3~4両を擱座させたが、陣地の一部を突破された。
東海岸では戦車をともなう約500の米軍が南下し、一部は和宇慶の独立歩兵第11大隊の陣地前に出現するなどしたが、野戦重砲兵第23連隊第2大隊が火力をむけ、南進を阻止した。
この日の米軍の進出は、西海岸側は現在の宜野湾市の大謝名ー真志喜ー宇地泊付近まで、東海岸側は現在の中城村の沖縄県消防学校付近の161.8高地まですすんだ。
第32軍の第1防衛線は、およそ牧港ー嘉数ー西原ー我如古ー南上原ー和宇慶のラインであり、すでに米軍は第一防衛線前面の前進陣地を攻略し、第1防衛線まで接近してきたわけである。
また戦艦以下約50隻もの米艦艇が中城湾に侵入し、掃海作業を実施するとともに知念半島や勝連半島方面に艦砲射撃を行った。なお勝連半島の南東に位置する津堅島にも艦砲射撃を行ったとされているが、これについては諸説ある。第32軍は、米軍が中城湾方面に上陸する可能性があるとして警戒を厳とした。
米軍の艦砲射撃については、上陸7日間で大型砲弾が1万3千発を越え、小型・中型砲弾は数万発となり、計5612トンもの砲弾が撃ち込まれたといわれている。
この日の米艦載機の来襲は、沖縄島は約220機と低調だったが、石垣約200機、宮古約200機、喜界島約100機と多数だった。
八原高級参謀は、この日の状況を戦後次のように回想している。
攻勢延期と攻勢再興
第32軍は、7日夜を期しての攻勢移転を決定していたが、那覇南方約150キロ洋上に新たな米船団を発見したため、各方面に攻勢撤回、延期を通知していた。これをうけて第10方面軍は、「方面軍より踏ん切りをつけてやる」として8日夜の攻勢移転を督促する。
第32軍牛島司令官はこの日夜、第10方面軍からの攻勢督促の依命電報もあり、8日夜を期しての攻勢再興を決定し、関係方面に打電した。
その他、米海兵隊を主力とする北進部隊は、金武に進攻し、金武で米軍飛行場の建設をはじまる。また大西瀧治郎中将が石垣島に来島。おそらく台湾から東京に向かうにあたり経由したのだと思われる。
護郷隊村上治夫の手記より
沖縄北部での遊撃戦を担った第3遊撃隊(第1護郷隊)の村上治夫隊長の手記「沖縄遊撃戦 うるまのハブ」によると、このころ沖縄中部の日本兵が沖縄北部に逃れつき、戦意喪失して敗残兵となり、なかには民家に侵入し略奪をおこなうなど、軍紀の乱れが目立ったそうだ。
村上の手記「うるまのハブ」のハブは、正確には「毒」に「它」をあわせた「毒它」を一字としてハブと読ませている。この「毒它」の一字は、第1護郷隊の兵団文字符でもあり、例えば「毒它作命第〇〇号」などとしても使われている。
なお本手記は活字化されていない。『沖縄県史』各論編6 沖縄戦で当該部分の一部が活字化されているため、それを参照しつつ、筆者が釈文とした。そのため判読、読み起こしに一部間違いがあったり、普通であれば読める字を「判読不能」としてしまった箇所もあるかもしれないが、全体の意としてはそう大きく間違っておらず、意を解せるかと思う。句読点は筆者が振った。【】内の太字は、実際には見せ消ちが記されている。さすがにまずいと思ったのか、村上自身が記したものであろう。
「スパイ」について
この日の第24師団の陣中日誌には、次のような部隊長の注意が記録されている。
第32軍は、「スパイ」を異様に警戒し、米軍の「スパイ」が沖縄に潜入しているのではないか、あるいは潜入した「スパイ」が灯火などで秘密の連絡を取り合っているのではないかと疑心暗鬼になっていた。そして、そうした米軍の「スパイ」と沖縄の住民が結びつき、住民が「スパイ」行為をはたらくのではないか、住民が「スパイ」と化すのではないかと考え、従来の沖縄蔑視も合わさって全住民を潜在的な「スパイ」と見る傾向があった。そこにおいて軍による住民虐殺なども発生していく。
この部隊長注意には、端的に住民を「スパイ」視する発言はないが、島内に「スパイ」が潜入しているらしいとなれば、次には住民と「スパイ」との結びつきを疑うのは当然の流れであり、住民「スパイ」視とその結果の虐殺につながっていくことになっていく。
戦艦大和の出撃─「片道燃料」ではなかった
連合艦隊豊田司令長官はこの日、戦艦大和など第1遊撃部隊に沖縄方面海上特攻の出撃を下令、各艦艇は不要物件や機密書類の陸揚げや、燃料、弾薬の搭載を開始した。
海上特攻出撃時の戦艦大和の燃料搭載量は、満載量(6300トン)の約3分の2(4000トン)、その他駆逐艦は満載であり、いわゆる特攻作戦の「片道燃料」とは実態が異なっている。
軍中央が指示した燃料供給量は「片道燃料」であったが、連合艦隊小林儀作機関参謀らは海上特攻を不憫に思ったのか、各艦艇の燃料タンクの底にたまっている帳簿外の燃料をかき集め、第1遊撃部隊の各艦艇に供給した。このため第1遊撃部隊各艦艇は、本土と沖縄を往復可能な燃料を搭載していたが、小林参謀は指示された通りに供給したと報告したため、軍中央は第1遊撃部隊は「片道燃料」で出撃したものと思っていた。
翌6日も出撃準備は続き、同日18時第1遊撃部隊は豊後水道を出撃した。
戦艦大和の沖縄方面海上特攻の知らせを聞いた第32軍牛島司令官は、攻勢移転を決意していた時でもあり、大いに喜びまた感激したが、制空権の状況に鑑みて、軍司令官名をもって「時期尚早」「出撃は取り止められたし」との旨を通知した。
宇垣長官の日記から
第5航空艦隊宇垣司令長官のこの日の日記には、次のように記されている。
日ソ中立条約の破棄
この日、ソ連は、日ソ中立条約(不可侵条約)の破棄を表明した。1944年半ばごろよりソ連の国境侵犯が相次ぎ、対日強硬態度があからさまになるなど日ソ関係の雲息が怪しくなっていた。実際、ソ連はこのころ、ヤルタ会談により対日参戦の意思、期日を固めていたが、日本側はそれについて全く知らず、なおソ連に希望的観測をもっていた。ソ連に講和の仲介をしてもらうという動きもあった。
こうしたなかで日ソ中立条約の期限が迫っていた。日本は同条約の維持をソ連に要望し、ソ連側の意向を聞き出そうと様々に工作を繰り返していたが、ソ連の態度は冷淡のものであった。その上でこの日、ソ連はついに日ソ中立条約を更新せず、破棄することを表明し、日ソ関係はあらたな段階へ移った。
新聞報道より
この日の大阪朝日新聞は、沖縄の戦況を次のように報じている。
2日朝から米軍が沖縄に上陸を開始したというのは、何らかの間違いであろう。記事にある女性が斬込みを敢行したというのは、具体的にどこでの出来事かは不明ながら、既に慶良間諸島の戦いで女性も斬込みに協力しており、伊江島などでも女性が斬込みに参加したと伝わっている。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・同『大本営海軍部・聯合艦隊』〈7〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・武島良成「1945年4月・沖縄県津堅島の戦い」(『京都教育大学紀要』第131号)
トップ画像
戦車の後方に身を隠しながら前進する米兵:沖縄県公文書館【写真番号86-03-3】 (siggraph2016_colorization を用いてカラー化)