見出し画像

【沖縄戦:1945年3月26日】慶良間に米軍上陸─住民の強制集団死おきる 天一号作戦の発令と沖縄方面航空特攻作戦の本格化

慶良間諸島に米軍の上陸はじまる

 午前8時、米第10軍第77歩兵師団(ブルース陸軍少将)は、空襲と艦砲射撃の支援のもと、慶良間諸島の阿嘉島に上陸を開始、続いて慶留間島に、その後に座間味島に、さらに外地島に、そして屋嘉比島に上陸を開始した。島を包囲する米艦船上ではジャズが流れており、日本軍とのゆとりの差は誰にも明らかであった。軍は、上陸部隊へ機関銃を発砲するなど抵抗も試みたが、米軍の上陸を阻止することはできず、大きな損害を与えることもできなかった。

画像6
慶良間列島付近要図 左の島々が慶良間諸島で右端が沖縄島:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

座間味島の戦闘 
 
座間味島に駐屯していた海上挺進第1戦隊梅澤戦隊長は、日米の戦力差と特攻艇作戦の秘密性に鑑み、特攻艇を破壊し隷下の各隊を集結させ番所山に籠った。米軍は、この日昼には座間味の集落を制圧し、高見山付近まで進出した。なお同戦隊第3中隊は番所山へ移動中米軍と遭遇し戦闘となり、津村一之中隊長以下多数が戦死した。
 梅澤戦隊長は、日付がかわった27日午前0時を期して全力での夜間斬込みを行うことを計画したが、月明かりの関係上、全力での斬込みを中止し、戦隊の第1中隊および第2中隊に攻撃を命じた。両中隊は、夜半から未明にかけて果敢な斬込みを敢行するも、中隊長以下壊滅した。この斬込みには島の青年女子も協力させられたといわれる。

画像6
座間味島戦闘概要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 二十六日九時頃より爆撃開始西方沖合は舷々相接する輸送船群の為水平線は全部埋まって居た。見事という他なかった。夫より上陸用舟艇や水陸用戦車が泛水開始、そして整備調整か円運動を行う。果して敵はどの島に来るか、ああ遂に来るべきものが来た。運命や如何にと台地に立ちて待機した。 
[略]我隊は戦隊の他約二百八十名、機関銃一挺の水際反撃は何十門の戦車砲で一瞬ふっとび後退し、村を取囲むコの字状丘、台地に拠って抵抗した。奴等は我々をなめた様に散開し、中腰になって前進するのを斜射、側射で撃ちまくったらコロコロ倒れた。そしてすぐ退却し空地連絡してグラマンを呼ぶ、戦車が交代反撃してくる。之で一日が終った。

(梅澤裕手記「戦斗記録」:大城将保「座間味島集団自決事件に関する隊長手記」〔『沖縄史料編輯所紀要』第11号〕)

阿嘉島、慶留間島の戦闘 
 阿嘉島では、野田戦隊長以下海上挺進第2戦隊が島中央の野田山に籠った。野田戦隊長は、慶留間島に配備されていた第1中隊に出撃命令を連絡するとともに、その他の部隊も使用可能な特攻艇をもって攻撃を開始することと、これを支援するため日付がかわった翌27日未明に戦隊の主力をもって米軍に斬込みを敢行し、玉砕することを決意した。
 野田戦隊長は、斬込みにあたっての訓示で「総力を挙げて斬込みを決行し、戦隊将兵は出撃をする、無電は最後の連絡を打って破壊した。われわれの行くてはもはや玉砕あるのみ、われわれは日本の捨て石となってここに玉砕し、悠久の大義に生きる。卑怯な行動者は即時処罰する」旨を訓示した。
 この日夜半、斬込隊は3隊に分かれて出撃した。なかでも第2中隊は特攻艇出撃を命じられ、27日午前2時ごろには特攻艇秘匿壕に到着し特攻艇の泛水の準備を開始したが、野田戦隊長が到着し、出撃を中止し山に戻るよう命じられた。
 なお第2中隊の特攻艇出撃以外の斬込みは、多大な損害を出した。また、この際の斬込みには、小学校6年生以上の男子からなる島の義勇隊も参加させられることになる。

画像6
海上挺進第2戦隊戦闘概要図 左上が阿嘉島、右下が慶留間島:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

軍船舶隊長大町大佐の動向 
 
折しも第32軍の船舶隊長である第11船舶団長の大町茂大佐以下船舶関係幹部一行は、22日より那覇を発し座間味島に到着し、23日より海上挺進作戦に関する視察や訓示を行っていたところ、米軍の空襲に巻き込まれた。大町大佐一行は24日、座間味島から阿嘉島に移動し、25日まで阿嘉島で視察や訓示など指導を続けたが、25日より慶良間諸島への艦砲射撃もはじまり、米軍の慶良間上陸という誤報も飛び交った。
 25日夜、大町大佐一行は渡嘉敷島に移動したところ、同島の赤松戦隊長以下海上挺進第3戦隊が軍命令により沖縄島への転進を考慮して特攻艇の泛水作業を開始していた。大町大佐は、赤松戦隊長に泛水作業の中止を指示し、かつ部隊の一部をもって一行の沖縄島への還送を命じた。赤松戦隊長は、部隊の一部だけでの還送は困難とし、戦隊の第3中隊全力での還送を命じたが、第3中隊長が自隊のみが沖縄島に転進することを渋ったため、赤松戦隊長は、大町大佐に戦隊全体での沖縄への転進を意見具申し、大町大佐も了承した。
 しかし泛水作業の着手に遅れるなどして、泛水が完了したのは明るくなってからだった。このため赤松戦隊長は、沖縄島への転進は不可能と判断し、目の前の米艦艇に向かって特攻艇で突入するべきことを意見具申したが、大町大佐は、沖縄島に米軍主力が上陸する前に特攻艇を使用することは、作戦の企図秘匿上適当ではないとして、泛水した特攻艇のうち陸へ引き上げ可能なもの以外の自沈を命じた。
 大町大佐はこの日夜、一行の沖縄島転進の意図を示し、戦隊には米軍上陸の場合、陸上での持久戦闘を命じるとともに、日付が27日へとかわるころ、引き上げた特攻艇2隻で渡嘉敷島を出発し沖縄島を目指した。しかし、1隻はすぐに沈没し乗組員は渡嘉敷島に泳いで戻ることになり、大町大佐が乗ったもう1隻はその後消息不明となり、戦死と判断された。
 このように大町大佐一行の動向とそれに関連する作戦指導を見ると、あくまで特攻艇作戦は軍船舶隊長の命令により戦隊長が実行するという指導関係がわかるとともに、特攻艇の秘匿が非常に強く意識されていたことがわかる。沖縄戦全体を通し、こうした作戦の指揮系統と秘匿性の絡み合いで、特攻艇作戦は結局ほとんど戦果をあげられず終わっていくことになる。
 なお3月29日、米哨戒艇ストレートジィが沖縄の沖合に浮かんでいる遺体を発見している。遺体の持ち物には高級将校が携帯するような記録類があったため上層部が確認したところ、遺体についていた徽章が陸軍大佐の徽章であり、そこには「大町」と記されていた他、他の荷物には「大町茂」と記されていたそうだ。26日夜から27日未明に渡嘉敷島を出発し消息不明となった大町大佐の遺体と考えていいだろう。

画像7
大町大佐の沖縄島転進経過図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

米軍上陸とともに発生した強制集団死

強制集団死について 
 
慶良間諸島では、座間味、慶留間、渡嘉敷、屋嘉比の各島で強制集団死が発生した。強制集団死は「集団自決」ともいわれるが、その実態は崇高な理念のため自らの意思に基づいて死を選ぶ「自決」というようなものではまったくなく、住民が米軍はもとより日本軍によって死を選ばざるをえない状況に追いつめられて行われた極限状態における集団死の強制であり、「強制集団死」との呼称が正確であろう。
 沖縄島でも強制集団死は発生しているが、特に慶良間諸島で多く発生している。その背景としては、慶良間諸島には海上挺進戦隊といわれる陸軍特攻艇部隊が配備されており、軍人の死を選ぶ意識が他の部隊よりも強いなかで、秘匿性の高い部隊として軍は住民を厳しく統制し、軍の絶対的な支配が島全体を精神的にも貫徹していたことなどがあげられる。

慶留間島における強制集団死 
 
米軍が上陸した26日には、慶留間島の住民の多くはサーバルとウンザガーラといわれる地に避難していたが、この日、海岸近くで米軍の様子を見ていた住民がサーバルの住民へ米軍上陸を知らせた。サーバルの住民は恐怖し、ウンザガーラの壕へ避難しはじめたり、アカムティの第1中隊に向けて逃げ出すなど、あたりは騒然となった。
 サーバルの住民は、日頃から兵隊に「米軍は捕虜をさんざんいたぶった上で虐殺する」と聞かされており、捕虜になるくらいであれば死を選ぶつもりであった。野田戦隊長がこれまで何度も訓示していた「玉砕」の意味もそう理解しており、ついにサーバルの住民は、家族同士で首を絞め合うなど強制集団死に追い込まれた。夫が妻や子の首を絞め、みずからは木に縄をくくり首を吊るなど、壮絶な状況であった。
 サーバルではすでに多くの住民が「玉砕」したと聞いたアカムティの住民は、取り残されてはいけないと思いサーバルにかけつけたが、そこは住民の遺体の山であった。これを見たアカムティの住民たちは、その場で家族で首を絞め合ったり、農薬を飲むなどしてみずから命を絶った。
 こうした慶留間島の強制集団死の犠牲者は、53人とされている。もちろん慶留間島の全員が強制集団死で亡くなったわけではなく、多くの人は米軍に保護、収容された。米軍は負傷者を治療し、住民に食糧を与えた。米軍に助けられた住民たちは、強制集団死の犠牲者について「お上にだまされた」「日本軍に殺された」という認識に至ったという。

座間味島、屋嘉比島における強制集団死 
 
25日夜、座間味島では、住民が忠魂碑に集合し玉砕しようとしたが、艦砲射撃によって多くの住民が思うように移動できなかった。壕内はすし詰め状態で、避難者は精神的にも限界となっており、子どもが泣き出すと周囲の住民が「殺せ」と迫り、子どもの口にタオルを押し込み殺そうとした母親もいた。
 26日になり米軍が上陸すると、各壕で強制集団死がはじまった。夫がカミソリで子どもと妻の首を切り、最後に自らの首を切って自殺したケースもあれば、家族で農薬を飲んで死んだケースや軍から渡された手榴弾を使って爆死したケースもあり、座間味の集落だけで200人近い人が強制集団死で命をおとしたといわれている。
 屋嘉比島でも強制集団死があった。島の慶良鉱業所では「玉砕者名簿」が作られ、従業員とその家族によって集団死が行われようとしていた。この強制集団死は実行されなかったが、一部の島民の家族がダイナマイトを爆発させ集団死をはかった。
 なお、こうした慶良間諸島での強制集団死は、米国の通信社AP通信が29日に報じ、4月2日付のロサンゼルス・タイムズに掲載されるなどした。また、同じく2日付のニューヨーク・タイムズも強制集団死の模様を報ずるなど、世界的に報道された。

画像8
慶留間島に展開する米兵 沖縄の民家特有の赤瓦やサンゴの石垣などが見える 1945年3月撮影(この日撮影されたものかは不明):沖縄県公文書館【写真番号102-28-3】

「ニミッツ布告」掲示、軍政がはじまる

 慶良間諸島に上陸した米軍は、ただちに米太平洋艦隊司令長官で南西諸島軍政長官のチェスター・ニミッツ元帥名で米国海軍軍政府布告第1号「米国軍占領下の南西諸島及其近海居住民に告ぐ」(「ニミッツ布告」)を公布し、島に掲示した。奄美を含む北緯30度以南の南西諸島における日本政府のすべての行政権の停止と軍政の開始を宣言するものであり、以降米軍は占領した地で軍政を敷いた。
 米軍は当初、軍政において、日本の行政組織を活用し基本的な政府機能を継承する方針であったが、上陸、占領後の沖縄は、行政組織が消滅し、膨大な民間人が難民と化していた。そこで米軍の軍政チームは、まずは民間人の救済に力を注いだ。
 実際に米軍は沖縄上陸と占領において、7万食の民間人用のレーション(携行食糧)を用意し、水の供給も周到に計画している。また衣服など生活用品は補給によってまかなうことになっているなど、民間人救済、収容には相当の力を尽くしたことがわかる。

画像6
沖縄を訪れたニミッツ 「撮影日1946年1月26日」とあるがそれは間違いで、沖縄戦地上戦最初期の撮影と思われる:沖縄県公文書館【写真番号80GK-5192】

各方面の動向と天一号作戦発令

 第32軍はこの日、27日に米軍主力が沖縄の南半部の西岸に上陸、一部が南部湊川正面へ上陸するものと判断し、以下の「第三十二軍司令官状況判断」の電報を各方面に発した。

 敵ハ二十三日以来空海ヨリ沖縄本島特ニ南部地区ヲ攻撃中ニシテ敵輸送船団状況(慶良間列島周辺十数隻ノ外ハ不明ナルモ)目下判明シアル敵艦艇状況竝ニ其ノ艦砲射撃、海象等ノ関係ヨリ判断シ明二十七日以降主力ヲ以テ西岸、北、中飛行場正面及小禄、糸満正面状況ニ依リ南海岸湊川正面ニ上陸ヲ企図スルモノノ如シ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官もこれとほぼ同様の状況判断を電報した。
 この日の米艦載機の空襲は、沖縄島に延べ713機、奄美に120機、宮古に79機、大東島94機と南西諸島全域におよんだ。また沖縄島周辺では戦艦6、巡洋10、、駆逐艦38、輸送船12、その他12の計78隻の米艦船が目視されるとともに、久米島や伊江島も艦砲射撃にあった。
 後に沖縄学の泰斗となる外間守善氏は、このころ現地入隊し、第24師団歩兵第32連隊第2大隊の重機関銃中隊に配属されていた。外間氏は戦後、この日について次のように回想している。

 とうとう敵機動部隊は、本島南部の湊川沖から喜屋武沖にかけて姿を現した。私は陣地壕を出て、丘陵の茂みに腹ばいになってそれを眺めた。紺碧の海に浮く真っ白な戦艦や巡洋艦は、まるで絵葉書か何かを見るようだった。限りなく青い空と海を背景に真っ白な艦船が眩いばかりに並んでいる。が、次の瞬間には、ものすごい唸りをあげて砲弾が頭上を越えていった。どの艦船もゆっくり北へ進みながら閃光を吐いている。その閃光を追ってドドドドッと轟音が空気を震わせ、地べたにはりついている私の腹までゆすぶる。砲撃のたびに後ずさりする軍艦の動きまでが手にとるようにわかる。
 敵の本格的上陸は湊川海岸だとの情報に南部陣地は殺気立った。水際陣地には戦闘部隊が配備され、街道の至るところに戦車壕が掘られ、対戦車特攻に備えて蛸壺と呼ばれた壕は上手に偽装された。陣地周辺には地雷が敷設され、兵員は続々と増強された。私の所属する山形三十二連隊は沖縄に来る前は中国大陸で関東軍の精鋭として評価の高い部隊であった。幾多の経験をした兵隊たちは意気軒高としていた。水際陣地に赴く兵隊たちも「死に花を咲かせてやる」と笑っていたが、死地につく人々の顔はやはりこわばってみえた。このような動きの中でも敵の艦砲射撃や空襲は止むことがなかった。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫)

 また八原高級参謀は戦後、この日の状況を次のように回想している。

[略]一両日来、首里山上より望見するに、アメリカ空軍の慶良間群島攻撃が激烈を極めている。さてとは思わんではなかったが、果然アメリカ軍は二十六日早朝から同群島に上陸を始めた。無電の報告は断片的で事態は明瞭でない。
 群島に配置してある独立挺進三個戦隊計三百隻は、海上で必死体当たりすれば、相当暴れる力を保持しているはずだが、陸上に攻撃されてはまったく無力である。好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃していてくれと祈る心も束の間、座間味、阿嘉、渡嘉敷の三島よりの報告はことごとく非である。ついに陸上に急襲されたようである。無電は、各隊軌を一にして悲痛な言葉のみで綴られている。たまたま同群島にある各戦隊を巡視中であった軍船舶隊長大町大佐からも、ほぼ同様の電報だ。
 彼らが、今報告通りの戦況に直面しているのは事実であろう。その決心も悲壮である。しかし桜花の如く散らんとする弱さが、歯がゆい。死にさえすれば、万事美しく解決すると思いなされた日本人の通有性、さっぱりとしているが、意志が弱く、不撓不屈あくまで自己任務目的を遂行せんとする頑張りが足りない。
 慶良間群島に、有力な挺進戦隊を配置するに当たり、私はかかる状況の現出する公算は五十と覚悟し、残りの戦隊攻撃の成功の公算五十に期待をかけて、敢えて冒険的配置を具申したのであった。今や天幸いでず、最悪の場面に遭遇したのだ。已んぬる哉である。
 軍は、沖縄本島に挺進戦隊の主力がなお残存するに鑑み、軍船舶隊長大町大佐に対し、「貴官は敵中を突破し、本島に帰還、主力部隊の指揮に任ずべし」との電報命令を発した。だが軍首脳部は再び大町大佐の姿を見ることはなかった。否、赤松、野田、梅沢の各戦隊の状況は、その後杳として不明のままに過ぎた。もっとも約一か月後、渡嘉敷島に生存者がいることは、本島に脱出して来た一部の人の報告でわかったが。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

天一号作戦の発令と伊舎堂大尉の航空特攻

 連合艦隊司令長官はこの日、沖縄方面航空特攻作戦である天一号作戦を発令した。これをうけて第1機動基地航空部隊は、第7基地航空部隊に九州方面への進出を下令した。また第1機動基地航空部隊は、陸爆1機、艦爆10機をもって沖縄周辺の艦船を攻撃し、一定の損害を与えた。その他、第5航空基地部隊は、月光2機をもって慶良間諸島の米艦船を攻撃した。
 第32軍の上級軍である台湾の第10方面軍司令官もこの日、天一号作戦を発令した。
 天一号作戦発令直前の25日夜、石垣島に配備されていた誠第17飛行隊は「誠第十七飛行隊ハ独立飛行第二十三中隊ト協同シ二十六日〇五五〇慶良間群島周辺ノ敵機動部隊ヲ攻撃シ之ヲ覆滅スヘシ」との方面軍隷下の第8飛行師団の第9飛行団の命令を受領し、この日未明、誠第17飛行隊伊舎堂用久大尉以下複数機が石垣島の陸軍白保飛行場を出撃、慶良間諸島近海の米艦船へ航空特攻をおこなった。
 これにより特攻機4機と直接掩護機6機が未帰還となった。伊舎堂大尉以下10名は2階級特進し、方面軍安藤司令官から感状が授与された。伊舎堂大尉は石垣島出身の陸軍士官であり、まさに父母の眼前で特攻出撃したといえるだろう。

画像5
方面軍司令官から伊舎堂大尉らへの感状:戦史叢書『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』

 この日の海軍第5航空艦隊宇垣司令長官の日記には、次のように記されている。

 三月二十六日 月曜日 〔晴〕
 南西諸島に対する敵の砲爆撃一層加わり、慶良間島には輸送船一二隻あり。同島を上陸基地とすること明瞭なり。GFは本日「天一号作戦発動」を下令、ここに挙軍決戦に入る。
  [略]
 昨夜天山隊の攻撃により戦艦二に命中せしめたるがごとし、本日昼間索敵より始めたるが彩雲の機数すでに幾何もなく故障機続出、思うように行かず。
 慶良間島方面に膠着せる部隊もあれども敵勢力は方々に分散しあり。陸軍重爆は初夜攻撃を実施、巡洋艦三を射とめたりと報告す。春月(十四日)攻撃に幸せるも今夜限りにて天候不良となるべし。

(宇垣纒『戦藻録』下、PHP研究所)

 陸軍重爆の攻撃というのは、あるいは誠第17飛行隊の特攻のことであろうか。
 また八原高級参謀は、誠第17飛行隊とは異なるが、この日の第32軍の航空部隊が敢行した特攻攻撃について戦後次のように回想している。

 天号作戦計画に基づく友軍航空部隊は、敵輸送船団の近接を待っているのか、二十六日に至るも未だ戦場にその機影を見せない。敵の大艦隊、大空軍が独り舞台に跳梁を恣ままにしている。この際、あれほど平素豪語したわが空軍が出現しないので、失望不満の声はようやく喧しい。
 神少佐は、いたたまれなくなったのか、中飛行場にある軍直轄特攻隊を出撃させる命令を、軍司令官に請い受け、同飛行場に急行した。軍直轄特攻隊というのは、佐藤少佐の偵察飛行第四十六中隊を基幹とし、これに南方転進の途上、故障のため滞留した飛行機を加えて、臨時編成した部隊で総数約十五機を有するに過ぎない。
 攻撃部署は、二十六日夕半数、二十七日夕その残部が、それぞれ突撃、その目標は中飛行場沖の敵艦と決定した。
 二十六日の夕、首里城壁上の監視哨が、友軍特攻機続々中飛行場を離陸すと報ずるや、興奮した将兵は先を競って洞窟を躍び出した。
 万雷はたとやんで、暮色に包まれた島や海は、先刻までの修羅場とは思えぬほど和やかである。中飛行場沖距離約四千、数隻の敵中型艦が悠々航海中である。友軍機は、一機、二機、三機と白塵をあげ、敵艦に向かい離陸している。もし敵艦が、これを目ざとく発見して、滑走路に砲弾を打ち込めば万事休すである! 数日来砲爆撃を集中した飛行場に、まさか日本機が生存しているとは思わなかったのか、それともまだわが特攻機の攻撃を受けず、しかも昼間の戦いを終えた直後で、すっかり油断していたのか、奇跡的に全機敵艦隊の目前で離陸を完了した。
 離陸そのままの態勢で、砲弾の如く敵艦に突っ込むかと思いきや、七つの特攻機は機首をかえ、単縦陣をもって、首里上空を高く、大きく旋回し始めた。暮色すでに濃く、さだかではないが、翼を左右に振っている。軍司令官に袂別を告げんとするのであろう。十万のわが将兵は、洞窟の外に立って、この必死行を送っている。何年かも聞かなかったような、恋しい友軍機のプロペラ音、そしてなんと物悲しく、夕空に響くことであろう。
 神鷲の一群は、かろやかに旋回を終わるや、決然として機首を敵艦に向け、突撃し始めた。俄然天地の静寂は破れ、轟々たる敵艦隊の対空射撃が始まった。防空火砲で間に合わぬか、主砲以下全艦砲が参加しているようだ。幾千万の曳光弾は、噴水の如く射ちあげられ、艦隊の上空はすっぽり真っ赤になった。果たして、わが特攻機はこの焰の如き弾幕層を突破し得るだろうか。
 一番機が黒く、小さく曳光弾の焰の中に、その姿を映して、礫の如くアメリカ中型艦めがけて落ちて行く。瞬間空中高く火焰、水煙が一団となって揚がる。双眼鏡を手にした神参謀が、一機命中!と叫ぶ。命中の言葉はこの状景に最もよくあてはまる。煙の薄れたあとには、敵艦影が見えない。いわゆる轟沈したのであろう。たじろがず、続く二番機、三番機ことごとく成功する。四番機は惜しくも中空で被弾、火の塊りとなり、人魂のようにゆらゆらと海中に落ちてゆく。続く特攻機は全部成功したようだ。
 悲劇は終わった。焰の弾幕層はすっと消え、ドロドロの轟音はぱったりやんだ。今や暮れはてた海上、敵の艦影なく、満天の星は、美しく瞬き、悠久の大自然は、人類の争闘を嘲笑し、これを抹殺するかのようだ。
 さあれ、人間最高の断固たる英雄的行為を観た記念運動場の我々は、限りない感動と、底知れぬ哀感に、一言も発せず、黙々として足元暗い坂路を洞窟に降りて行った。

(八原上掲書)
1945慶良間
慶良間洋上で日本軍機の特攻により炎上する米艦船 誠第17飛行隊による特攻を写した画像かどうかは不明:沖縄県公文書館【写真番号01-58-1】

硫黄島の戦い

 「玉砕」が伝えられていた硫黄島であるが、栗林兵団長および市丸少将以下司令部首脳は生存していた。もっとも、戦いは終焉を迎えつつあった。
 栗林兵団長は、歩兵第145連隊本部(下の図の緑の丸印付近か)を拠点としていたが、米軍は為八海岸、天狗岩、北集落の線で重包囲していた。そして25日夜半、白襷姿の栗林兵団長と市丸少将ひきいる硫黄島守備隊約400名は標流木付近を前進突破し、26日未明元山、千鳥飛行場方面に向かい最後の総反撃を決行、壊滅した。25日夜半には、父島の部隊において「兵団長以下敢闘中」との硫黄島守備隊最後の電が受電されている。

画像9
硫黄島守備隊最後の総反撃の状況 緑の丸が守備隊の拠点 青色が米軍の包囲網 これを突破し標流木海岸を沿って元山・千鳥飛行場を攻撃した:戦史叢書『中部太平洋陸軍作戦』

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『座間味村史』上巻
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
・沖縄戦新聞第6号(琉球新報2005年3月26日)
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号)
・大城将保「座間味島集団自決事件に関する隊長手記」(『沖縄史料編輯所紀要』第11号)

トップ画像

座間味島へ上陸をはかる米軍と上陸用水陸両用車 住民は海上に無数に展開する米軍の上陸用水陸両用車を日本軍の特攻艇と思い歓喜したが、実際には座間味島の第1海上挺進戦隊は特攻艇を破壊し出撃しなかった:『沖縄戦写真記録集 ① 日本最後の戦い』より